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第7回 夢のみずうみ楽会(初日)

第7回 夢のみずうみ楽会  「生きていることがすばらしい」をテーマに、第7回夢のみずうみ楽会を、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターで開催した。200名を超える参加者があった。驚いた。施設見学希望の意図もあってのことと思うが、過去最高の参加数であった。 障がいをお持ちの方から直接学ぶという目的で始めた「楽会」は、とうとう7回を数えた。不勉強な私でも、これまで、色々な学会に何回かは出向いて勉強した。しかし、そこには、当事者(患者、利用者さん)はまず誰もなく、治療者側の人間が集まり、頭を擦り減らし、経験したことを数字や写真で分析するものであった。それはそれでリハビリ医療の発展に寄与するのだろうが、私は、そのうち嫌気がさしてきて、学会を遠ざけるようになった。自分が何もわかっていないことに気付いたからに他ならない。 どうしても、自分にはわかりそうにないと思えたこと、いや、もっと、研究するよりやる使命があるのではないかと思えてきたこと、研究する時間、もっと、現場に出た方が性に合っていると燃えだしたこと、研究する意義は認めるが、わかったような感じで推測し、考察することは許されていいのか、と思い始めたこと、などなどが要因で、結局、現場に走って逃げてきたのだと思う。学会はどうしても好きになれないでその後今まで来ている。  ところが、ある時、ある患者さんから教えられたのだ。それは、清水さんとおっしゃるALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんと出会ったことに始まる。当時勤務していたリハビリ病院が、清水さんの入院を拒否した。院長に詰問した。すると、総婦長に聞けとのこと。総婦長は「リハビリ病院レベルでの看護体制では、ALS患者さんをお引き受けすることができない。看護体制がない。ALSの患者さん個人が看護の時間をどれだけ独占すると思うのですか。」とびっしと言われた。いつもは、リハビリ科長であった私の言い分はすべて黙って納得承知されている総婦長からの一言。食い下がる気力も出なかった。  ALSの病名くらいしか覚えがなかった自分の無知を恥じた。毎日、外来で私のリハビリを受けに来られていた清水さんご家族と一緒に、病院探しを始めた。全く駄目であった。結局、行きついた先は、ALSの方が入院できる病院を、ベッドを開けてくれという運動を始めようと思い立ち、組織づくり(当初は、山口県ALS会)を決意して動き出したことだった。すると、日本ALS協会がすでに存在していることを知り、住所・電話番号を見つけて直ちに電話した。日本ALS協会の当時の松岡事務局長が早々に、私の勤務するリハビリ病院に来られ、清水さんともお会いして頂き、あれよあれよという間に、日本ALS協会山口県支部(全国で7番目に組織化した)の結成式を開催していた。大々的にマスコミも取り上げて、4名の患者さんが山口県内におられることが判明し組織化できた。  この、一連の動きの中で、私は、「患者さんから学ばずして何のリハビリのイロハか」ということを確信した。わかったような数字をいくら並べても、今この瞬間をいかに生きるか。この先ずっと、何をどういかして生活するか。すべては、毎日、毎秒、毎分の、生ものの生き様なのだ。医療の発展には、客観視も必要であろうが、リハビリテーション職は客観視より患者さんからの直感視であるべきだと強く教えられた。事実を知り、事実から推測するには、常に当事者から発せられねばならないと信じたのである。  大げさに分析したような表現になったが、結局、「楽会」を始めた動機を思い起こして書けばこういうことになる。当事者の方から学ぶことがあまりに多すぎる。それをもっと、深める研究、学習をすることが、この医療福祉には欠けていると実感していたのだと思う。夢のみずうみ村ができて、4年目だったと思うが、「第1回夢のみずうみ楽会」を、秋吉台国際芸術村で開催した。以来、山口県内で都合3回。第4回目富山市、第5回目沖縄県金武町、第6回目函館市。そして7回目である。    今回の基調講演は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者である舩後靖彦氏にお願いした。当初は、同病者であり、日本ALS協会2代目副会長である、松本茂さんを秋田からお迎えする予定にしていた。以前、秋田大潟村のご自宅に伺い、その生活場面、日常のリハビリに驚愕したので、ぜひ来ていただこうと考えたのだ。残念ながら、体調を崩され、かなわなかった。代役で、千葉県在住の舩後さんにお引き受けいただいた。  「生きる」と題した舩後さんの講演は、すさまじかった。  会場に登場することから講演は始まったといっていい。浦安デイサービスセンターの中央部正面に「丸の内」と称するエリアがあるが、そこをメイン舞台とした。ビール箱を張り巡らし、その上に、コンパネを張り付け、ビニールシートをかぶせた「にわか舞台」だ。舩後さん(氏とは、友人になれたので、馴れ馴れしく、今後、「彼」と書かせていただく)は、やや大きめの車いすをベッド状に倒して寝たきりのまま施設会場内に玄関から入場された。ご自宅から、1時間程度の車移動を経て、ちょっと控室で休まれた後だ。車椅子が舞台には上がれない。カメラが3台、スクリーン3つで丸の内に車椅子に横たわったままの彼を映し出した。  彼の手足は全く動かない。寝たきりである。しかし、口から息を吐く力を利用して、パソコン上にカーソルを移動させ、文字盤から1文字ずつ選択し確定することによって、言葉をつなげ、見事に会話ができる。完成した文章をパソコンがしゃべってくれる。「Yes」は、眼の下の筋肉が動いて、こちらにはっきりわかり伝わる。  事前に、ご自宅に伺い、2度打ち合わせをさせて頂いた。舩後さんが書かれた「しあわせの王様」(小学館)を買って読んだ。文面の、色々な箇所で立ち止まってしまった。涙が止まらない。ただ、軽々しく、生きているとか死ぬとかということが口走れないことをそこに知る。  病気の発症から、現在までを、この本の目次になっている短歌を、障子紙を細く切って書き出し、垂れ幕として会場に並べた。 宣告   告げられて我も男子と踏ん張るも その病名に震え止まらず 発病   十歳の愛娘(まなむすめ)との腕相撲 負けて嬉しい花一匁(はないちもんめ) 予兆   指もつれ鞄掴めぬ通勤路 たすきにかけて若者ぶって 不安   病院に行けば二度とは戻れぬと予感し あえて診察受けず 失態   妻の肩 杖にするとは情けなや 大黒柱となるべき我が ALS   筋萎縮性硬化症 ALSの禍々(まがまが)しき名 絶望   何をする気力も湧かず引きこもる ただ絶望の海に溺れて 否定   「不治」という単語ばかりが聞こえくる 病名告げる医師の唇 怒り   奈落へと転がり落ちて得たものは 千々に(ちぢに)砕けし自尊心かな 受容   歩きでは、最後といった散歩道 地に素足つけ別れを惜しむ 気管切開 「生きたけりゃ喉かっさばけ」と医師が言う 鼻では酸素間に合わないと 胃瘻   チューブから栄養摂取サイボーグ われは人なり手術を拒む 迷い   死を望む我に生きる意味 ありと覚悟を決めし日の空 生きがい 我がふみを読む同胞に笑みこぼれ 俺に成せるはこれと火が点く 命のメール 自死望む友に「死ぬな」と 動かない足で必死にメール打つ夜 表現者  障害を俺が世間にさらさねば 病友たちは隠れ住むまま 今井医師 使命から鬼にもなれる我が主治医 その目に浮かぶ涙に驚き 母    介護苦を知っているのに知らないと 我看る母に菩薩を見た日 妻    鬱来れば妻の香以外薬なし 漂いくれば不安和らぎ 現在   芋虫か寝返りさえも打てぬけど 夢で大空舞う大揚羽(あげは) 王様病  病苦さえ 運命(さだめ)がくれたゲームだと思える我は「しあわせの王」 挑戦者  俺らしく いまやれることをやりぬいて 走り続けん いまこの瞬間(とき)を  このブログの中の「舩後短歌」(彼はそう自身の短歌を呼んでいる)を、順に目を通して頂く中で、おそらく読者は、彼の壮絶な病気の発症から今までを知ることができる。余命3年と言われる病。自分に置き換えてみよう。自分だったらどう生きるか。生きるか死ぬかをどう選択するか。  基調講演では、まず、短歌を一つずつ読み上げ、彼の病気の発症から、現在までをたどる。  次いで、舩後靖彦作 絵本「子ネコのメグ」を、大型スクリーン(障子紙2枚を糊付けし、物干し竿にくくり付け高くのばした、にわかづくり)に映し出す。朗読は、彼の自宅に訪問看護されているナース。バックに、彼のお姉さんが、ピアノ演奏されて、その童話を聞いた。柔らかな絵本だった。 … 続きを読む

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生月島(いきつき)

こうしたブログに書く内容は、どれだけ私的なことを含めていいのだろうか。私は中学校3年から、2浪して大学に進学した20歳の頃まで、日記を毎日欠かさず書いていた。大学入学直後から児童養護施設で住み込み児童指導員を始めた。24時間勤務でメチャ忙しかった。欠かさず書いていた日記も、気づいたら2,3日空白が出始め、いつの間にか完全に書かなくなった。以来、日記はつけていない。 このブログは日記ではない。しかし、元来、書くことが好きなのだろうか、気づいたら、移動中の機内や路上脇のベンチなどで、ほとんどを書いている。日記は、どこかで、誰かに見られても仕方がないと感じて書くものだろうか。少なくとも、死後誰かの目に留まってもいいように自分をさらけ出しているのだと思う。ブログも限りなく日記だと考えようか。我が精神遍歴の原点と感じた「生月島」の旅をここに書きたい。 どうしても来たかった場所であった。私には行きたい場所がいくつかある。随分、あちこち巡ったので、これから先行ってみたい場所はあまりないのだが、あげてみると、やたら島が多い。利尻島、三宅島、宮古島、五島列島福江島。島でないところと言えば、下北半島と潮岬くらいだ。ほとんど全国を回り歩いた。そうした中で最も行きたかった生月島である。(今、このブログを見直し校正している場所が、新潟県村上市から一日2便しか連絡船が出ていない「粟島」行きの船を待っている待合室にいる。人口340人、周囲23キロの島。海には雪が舞っている。その島の高齢者介護をどうするか相談を受けたのだ。) さて、話は生月島のことだ。「生月大橋」ができる前は連絡船でなければいけなかった島。今は大きな橋が架かっている。だから、講演会の合間に、僕はここに来られた。 佐世保駅から休まずレンタカーでここまで来たので、橋のたもとの道の駅に立ち寄る。旅に出る度に、景品買いをする習慣がいつのころから身についている。年末の望年会の景品買いである。望年会では、藤原の景品を贈ることが恒例となった。1年をかけて、全国あちこち訪れる度に買いあさる。日持ちがするもので、もらってうれしいもの、300円から1000円以内のもの、これが目安。店員の二人の女性は、「もう、望年会の景品ですか?」と驚きながら、「これどうですか」と目の前にいろいろ差し出す。「いいね、いいね」と調子に乗った。 目指す生月島の宿には5時半についた。ついてすぐ6時から、実は夢のみずうみの仕事が待っているのだ。完全休暇というのは今の私にはありえない。まずは、仕事だ。 防府デイ、山口デイ、浦安デイ、さらにはこの日、別場所にいる二人、私と、もう一人、宮本志郎首都圏統合施設長との5か所を結んで、V-CUBEというテレビ会議をするのだ。「介護保険制度の改定に伴っての対策協議」3回目。 「7時過ぎには夕食にしてください」と宿の女将から言われていた。30分遅らせてくださいと頼んでいたにもかかわらず、会議は終わらない。 女将が何度も「食事です、準備ができております」と声をかけてくださる。申し訳ないが、会議の方が重要だ・・・!!!  夜は更けてどっと疲れが来た。 明けて3月3日、午後1時半から平戸で講演会をこなし、夕刻福岡まで戻り、常宿の博多西鉄イン泊。翌早朝、羽田に戻り、新横浜で講演するまでの「生月島休暇」である。  生月島は、14歳の時に、生月町に手紙を出した話から書こう。「あの橋のたもとで」というメロドラマがあった。戦後ラジオ番組で有名な「君の名は」の作家、菊田一夫が書いた脚本である。そこに生月島が出てくるのだ。テレビドラマは見ていないが、30代の島倉千代子が出演したそのドラマ。広告が新聞に載り、マドンナお千代さんに心がときめいた。本屋で小説を見つけて読んだ。そこに、主人公の彼女が、生月島に行く設定になっていた。「生きる」「月」「島」という言葉から醸し出すロマンチックな響きと、大好きな島倉千代子と悲恋話が少年の心を揺さぶったのではないかと思う。小説を書こうとしたこと自体理解できないが、どうしても尋ねてみたいと思い込んだことも今となってはよくわからない。しかし、やっと念願がかなった。 14歳の子供が、新聞に出ていた生月町役場の住所を頼りに、『小説を書くので、生月島に関する資料を送っていただけないか』と手紙を出したのである。ほどなく、町役場のどなたかから、結構な量の小包が広島の下宿先に届いた。いっぱい資料が包まれていた。今は跡形もない。その資料を片手に、いろいろイメージを膨らませたものだ。脚本も少し書いた気がするが手元にないし思い出せない。いい加減な性格そのもののエピソードだと我ながら驚くが懐かしい。50年に近い歳月が流れたことになる。 生月の最初に、「大バエ灯台」という場所を尋ねた。島の突端、高台に建つ。強風だ。以前、襟裳岬に立った時、やはり強風に吹かれた。その時よりはまだ緩い。襟裳岬では立っておられず、地面に手をついた記憶がする。しかし今日も結構な風だが立っておられる。 殉教の島、生月島に来て、熱心なカトリックの信者であった自分が突然変貌し始めている。それになんとなく気づきだしている。おそらく20代はじめだったろうか、ある時期から、「キリスト教は捨てた」「私は転びキリシタンだ」と吹聴していた自分がいた。いま、ここ大バエ灯台という島のはずれの寒風吹きすさぶ場所に立って、そのことを悔い始めている。なぜだか、悔いている。不思議な感情が湧き出てきている。キリスト教信仰ではない。宗教心とも違う。自分自身の内面から浮き出てくる感覚。過去の自分が今ここにいるという感覚であろうか。「捨てたのではない、離れたのだ。いつでも近づけるんだ」という思いがする。なぜだろうか。この場所、この生月の殉教者の聖地。 灯台の上に登って、360度東シナ海を眺める。灯台がかすかに揺れているような感覚がして、あわてて手すりを握りしめた。そんなはずはない。こんな灯台が揺れるかい? 「強風に気を付けてください」という看板の文字が恐怖心をあおったのか。本当に揺れている気がした。そんなはずはあるまい。しかし、高い灯台は、今、かすかに揺れて立っているのではないか、高い塔はそういう構造で強風に耐えているのではないか、などと勝手に想像しだすと、景色を眺める余裕などなくなり、怖くて下に降りた。 (パソコンを取り出し、レンタカー車内でここまで一気に書いた。) 「黒瀬の辻殉教碑」の前の祭壇にパソコンを置いて再び書きだす。ここが、生月のキリスト教徒の聖地である、(ここまで書いていたら、タクシーに乗って他の観光客が見えたので、すぐ下に続く公園の石のベンチに場所移動)  この聖地で、イエズス会神父が殉教している。「妻と子供と共に殉教」と碑文にある。 「え? イエズス会の神父は結婚してはいけないのではないか?」  かつて、高校1年生の時、広島学院の教師で神父でもあるアメリカ人のスミス先生から 「イエズス会の神父になれば、君の福祉の夢は実現できるよ。君は熱心な信者だから、どうイエズス会に入らないかい。考えてみないか?」と誘われた。 独身で生涯過ごす覚悟は16歳の少年にあったのだが、教義についていく自信がなかった。 だから、神父にはならず、イエズス会にも入らなかった。 生月島の大バエ灯台はすさまじい風だった。今、この黒瀬の辻殉教碑の前の祭壇は、風は収まって陽だまりに身をさらしている。 ここで殉教された神父は、妻帯されたようだ。そして子供も生まれた。少し驚いた。カトリックの神父の妻帯は許されないはずだ。プロテスタントの神父は許されている。この地で神父さんは、妻子ともども殉教された。そして、ここが生月島、隠れキリシタンの聖地となった。 涙が涌いてきた。 「なぜ、お前は泣くんだよ」と、叫んでみた。周りに誰もいないと思ったから、私は自分に声をかけた。 「わからない」 人を思う精神、弱い人(もの)をいとおしく感じる意識、強い権力を嫌う意識。お前は偽善者ではないか、そう、語りかけた時期も、若い頃随分とあったことを思い出す。結婚する前の20代前半ごろだったか。お前の福祉は偽善だと、高校時代に誰かと語り合っていたことも思い出した。養護施設時代は、もう、偽善もへったくれもない、ただ子どもが好きで、かわいそうな子供と思ったことなど一切なく、子どもたちと生活することをよしとした。大学に入って誘われたボランティアサークルの活動の延長で施設に住み込んだのだし、ただ性に合って、そのまま活動先の児童養護施設に住み込んで、福祉の道に入り込んでいたのだ。そのまま63歳まで、福祉の現場にいる。 「強くなくていい 弱くない生き方をすればいい」という拙著を書いた。その時、弱いものに自分が触れていく要因、幼いころから福祉を志した要因について書こうとした。その時には、この「殉教者」「迫害した者」ということを全く思い出さなかった。それほど、我が精神遍歴に影響していなかった要因かもしれない。しかし、生月島に来て、自分は全く忘れていた自分を思い出している。 ガスペル神父の記念碑があるが石が積み重ねられただけのものだが、そこに花を生ける筒が両サイドにおかれ、新鮮な花が活けて有った。石組みの後ろは、松の根元がむき出しになっている。お墓の前で十字を切った。自然とそうしたくなった。私の身体の中に秘められていたのか。何の不自然さもない。ただの石ころには見えなかった。見知らぬ神父の意思に十字を切ったのか。わからない、ただそうしていた。それが、私をして、我がキリスト教観、宗教観を考えざるを得なくさせていたと思う。 「迫害」「殉教」という事実に触れることによって、「弱いもの」「弱さ」と「真の強さ」というものに気付かされたのかもしれない。いや、それ以上に、実に何十年ぶりかで、神父さんの墓(というよりただの石のかたまりが置いてあるだけのモニュメント)を前にして、十字を切った自分。その自分のとった行為に自分で驚いている。迫害した人間のことを考えようとした自分。これまでは、殉教した人のことを主に考えていたような気がする。今日は迫害した人間のことも考えている。 キリスト教を捨てたのではなく離れているのではないかと思った自分。それもはっきりしないまま、生月島に浸っている自分がいる。 「殉教」という人間が人間に施した所業、権力が、人間の自由と精神を踏みにじった恐ろしさ。そういうものが我が精神の底にこびりついているのではないか。生月島はそれを私に教えている。 今、この生月の殉教の聖地に座っていて、自分の福祉の原点が、(もしかしたら、いや、確かに)“殉教”ということにあるのだと意識し始めている。島根県津和野町の乙女峠で迫害された少年たちや、殉教者の巡礼に参加した時のことを、如実に想起できる自分。今日、自分が無意識に切った十字架。自分の意識に潜在的に埋め込まれた、この“迫害と殉教”の人間業とそこに関わった人間の皆々。そして、この私。 ここに今立って、こうして風に吹かれ、そろそろ寒さを感じだした中、このワープロを打ちながらいろいろ書いて、感じている自分が生々しい。そのことを嬉しく思う。 どうしても、どう見ても、私はキリスト教の影響を受けている。それを生月、この地は知らしめてくれた。 また涙が出る。なぜ泣くのだろう。何に泣いているのだろう。無性に落ち着くこの場。私はキリスト教の教義を信仰していない。それは明白だ。しかし、キリスト教的環境の中で自分は落ち着いているし、落ち着く自分になることがわかる。それは生育歴から来るのか。 弱いものを迫害した権力、命を奪われても守ろうとしたもの、そういう強さと弱さというものの中に、自分は何かを感じ、血肉にしたのだろう。涙が出る。なぜ泣くのだろう。何に泣いているのだろう。無性に落ち着くこの場。 涙がどんどん涌いてきた。 … 続きを読む

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大失態

大失態をやらかした。9時羽田発に乗って福岡空港に行き、佐世保に行く予定であった。浦安から東西線にのって、羽田に近づくが、時間が間に合いそうもない。15分前には、手荷物検査を終えておかねばならない。間に合わない。 「キャリアーの中から、パソコンを出しておこう。少しでも早く、手荷物検査を終え、搭乗口まで走ろう」 決めたまでは正解だった。京成電鉄で、一番端っこの席に座っていながら、キャリアーから、パソコンを取り出し、左横において、身体をかがめて、キャリアーのファスナーを閉めた。準備万端。京成電鉄は羽田空港についた。  走った。キャリアーバックを右手に持って転がし、走った。この時点で10分前だから、もう間に合わないとは感じていた。もしかして、何らかの事情で飛行機の出発が遅れる場合もあるかもしれない。それに賭けよう。走った。エスカレーターを走り昇り、 「さあ、降りて手荷物カウンターに行くぞ!」と思った瞬間、 「あれえっ! パソコンがない! 手に持っていない!?」 すぐに、京成線に忘れたと気づく。逆戻り。あのパソコンを紛失したら、今日の講演会はもとより、今後にも大影響を及ぼす。あせった。走った。走った。こういう時は心臓が苦しくならない。やっとこさで京成電鉄改札口。事情を報告。乗っていた電車はすでに折り返したようだとのこと。[困った!!] 「何両目に乗っておられましたか」 職員はあわてて、到着駅に電話をかけながら私にどなる。 問われても覚えていない。しどろもどろしているうちに、目の前を、女性の係員が、見慣れたパソコンを持って向こうを歩いてきた。 「あれです。あのパソコンです!」 大声、身を乗り出していた。 「階段の上に落ちていましたよ」とその女性職員。 そんなはずはない。持って電車を降りた記憶はない。それでキャリアーバックを引っ張りながら落とす? ありえない。  飛行機の次の便を早く予約し直さないといけない。落ち着かず、また、カウンターまで走った。 結局、1便遅れて福岡行きに乗れた。とんだ醜態である。   私は、近年、こうした失態が連続している。随分、周囲のみんなに迷惑を変えている。 忙しいからだとみんなは言う。それは違うことを僕はよくわかっている。 

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わがマドンナ から 炭鉱の子守歌 

久しぶりに JALに乗った。帯広~羽田~那覇。ANAではなくなってしまった「日本の歌」の機内オーディオ。JALの2月版に島倉千代子が登場していた。「愛するあなたへの手紙」という新曲だそうだ。聞かざるを得まい。私は、島倉千代子に育てられたからである。聴いて、淋しくなった。   幼いころから、正式には、小学校2年生ぐらいではなかろうか。定かではないが、小さい頃の思い出だ。 島倉千代子の歌は「泣きべそソング」といわれるくらい、涙の歌、淋しい歌、悲しい歌、が多い。「星空に両手を」「恋しているんだもん」という明るい歌もあるが、若いころの私はあまり好きではなかった。小学生の私をして、心揺さぶられ、学校からの帰り道、田んぼのあぜ道のレンゲ畑の中に埋もれて、流れる雲の行く先を見ながら歌ったり、積もれた藁に埋もれて、一人彼女の歌を歌ったものだ。「からたち日記」「この世の花」「白い小指の歌」「思い出日記」「かるかやの丘」「思い出さんこんにちは」「哀愁のからまつ林」「他国の雨」。ほとんどの人が知らない歌ばかりだろう。さっと、今でも3番までしっかり歌える歌ばかりである。なぜ、これほど悲しい歌、さびしい歌を好んだのだろうか。自分でも今思うと不思議だ。小学時代から中学時代にかけての精神構築に深く影響していると今頃強くわかる。歌の力である。自分では心当たりがある。それは、「強くなくてもいい、弱くない生き方をすればいい」という拙著に書いた。 広島の中学校入学試験に不合格となり、地元萩市の市立第一中学校に中1の1年間だけ行くことになった。その時、だから、僕が13歳の頃。竹馬の友の堀君が「島倉千代子が結婚したぞ」と教えてくれた。こっそりと、芸能雑誌「週刊明星」を買って、白むく姿の島倉千代子を田んぼの中で、週刊誌の写真をちぎり、藁の上だったかどこか近くにおいて、夕方だったと思うが、先般の島倉千代子の「思い出日記」「白い小指の歌」を歌いながら泣いたことを、この歳になって、この機内で思い出す。感受性が強い自分であることを今更ながらに思い知る。それほど、我が理想の女性は島倉千代子であった。細面の彼女の結婚相手が当時、阪神タイガースの4番打者、藤本勝巳。ごつごつ男で、ブ男だと思った。以来、「美人は、ブ男を好む」が私の男女感である。 細面の女性が好みの女性であるとずっと公言してきた。モデルは若いころの島倉千代子である。当時はやっていた花王石鹸のコマーシャルのようにに細長ければいいというものではなく「うりざね顔」がいいのである。 中学2年生から、編入試験に合格した私は、単身、広島の中高一貫校に下宿して通うことになった。一人になると、無性に島倉千代子(の歌)が恋しくなった。 そこで、「蓄音機買ってほしい」と母に頼んだ。今の若い人は、蓄音機と言って何のことだと思うだろう。いかに私が年寄かが知れる。 「クラシックを聴くのならいい」との条件付きで、母は買ってくれた。面白いことに、ベートーベンレコード「田園」のLPつきである。なぜ、「田園」なのかはわからないが、以後、ほんの時々聞いた「田園」は「運命」以外に気に入っているクラッシックになったのだから、親の志は大事だし、三つ子の魂百までだ。 僕はと言えば、すぐに、レコード屋に行き、なけなしの小遣いで島倉千代子を買い続けた。自室の窓際で、よく、レコードをかけた。とりわけ、夕暮れ時や雨のしとしと降る日に、部屋の前の竹藪を見ながら聴いていた。面白いエピソードがある。 私の部屋の真下に住んでおられた若夫婦が、転居のお別れのあいさつに来られ、 「島倉千代子の歌、お若いのに、淋しい歌が好きなのですね。雨の日に私もよく聞きましたよ。」 と京都弁丸出しの丸顔の若奥さん。聴きたくもない歌を聴かせることが多かったとお詫びしたら、 「私も好きになりましたよ」と 社交辞令かもしれないが嬉しかった。島倉千代子が身内になったような感慨であった。   細表ですらっとしたウリザネ顔の島倉千代子は、今の彼女では想像もつかない。10代や20代の彼女は実にスマートで可愛いらしい。    同じJALの2月のオーディオの中に、花村菊江「潮来花嫁さん」がある。この歌も小学校2,3、4年頃によく一人歌っていたと思いだし、心きらめきだし、ブログに白状しようと書き出した次第だ。   島倉千代子は別格だが、総じて言えることは、こうした演歌の「さび」部分が、幼い自分にビンビン響いて、今の私の感受性を磨いたのではないかと確信している。 淋しがり屋であったと、自分で言えば世話はないが、仲間とワイワイやっている自分もいるが、一人でショボンとしていた自分もいた。小学校から無理して親が私学に通わせたおかげで、近所の友人はごく限られ、小学校が違ったので遊び時間も少なかった。竹馬の友がいないわけではないが、中高が一緒ではなかったので付き合いは少ない。思い起こせば、こうした幼少期に、演歌の「さび」が、我が人格形成に何か影響しているのだなあと思えてきた。今日聴いている島倉千代子の歌は、全く音域が狭くなり、声量もなく悲しい歌声だ。哀れが漂う。しかし、細面の若いころの彼女は私の永遠のマドンナだ。    島倉千代子が歌った「炭坑(やま)の子守歌」について触れておきたい。この歌詞は盲目作家で「幻の邪馬台国」の著者、宮崎康平氏の作だ。何度となく歌い涙を流した。私の「人間を見つめる意識の芽」をこの歌が醸成したのではないかと思う。また今日もここに思い出して見たくなった。残念ながら、レコードもCDも手に入らない。   1. 父ちゃん 今日も帰らんと  母ちゃん 炭坑(やま)で ボタ拾い      泣いて寝たやら ねんねこ妹      寝たら 寝たら 忘れよう ひもじさを    2. あんちゃん 今日も ザリガニ取りに  学校休んで 出かけたと 早ようお帰り しもやけ指が 痛い 痛い 日暮れの 風吹くに   3. 夕焼け雲は赤いのに    明日も学校へ ゆかれんと  みんなの弁当を横目で 見ちょる  学校 学校 なんぞに 行きとうない   … 続きを読む

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小宮山洋子厚生労働大臣 防府デイ ご見学

小宮山洋子厚労大臣が2月25日夢のみずうみ村防府デイサービスセンターに見学に来られた。私より30センチ程度小柄でいらっしゃるが、スマイルは変わらず、美人アナウンサーでいらした当時の面影のまま、私の目の前に登場された。同じ年であると我がスタッフが教えてくれた。信じられないお肌の艶のよさだ。 一昨日と昨日、NHKテレビの衆・参と続いた予算委員会での映像で拝見していたので、強行軍での旅程であろう。テレビ画面からまさに登場である。  大臣は謙虚であった。利用者さんの前では、必ず、目線は、同じか下にするべく、腰をかがめ、床にひざを折り、低い姿勢を保持された。それがごくごく自然になされるのがすごい。うなずき、相づちを打たれながら話を聴かれる。この方はカウンセラーではない政治家である、大臣である。感動した。やはり私は小宮山洋子さんのファンでよかった。  小宮山大臣とは二度目の顔合わせである。そのことをお話したら、「当時は大臣ではなかったですよね」とお答えいただいた。日本アビリィティーズ社の伊藤会長の手合せで、晴海のビッグサイトの展示場でお会いしたのであった。それ以来である。  厚労大臣が、夢のみずうみ村に見学に来られること自体が画期的である。ありがたい。 見学の最中から、「利用者さんの笑顔が素敵ですねえ。表情が生き生き、皆さんされている!」 という発言を何度も耳にした。圧巻は、「食工房」と呼んでいる場所で、食パンをオーブンから取り出した瞬間の場面に遭遇された時だ。いろいろ利用さんと会話された。相当感激された様子であった。  利用者さんと大臣はあちこちの場面で会話を交わされた。パソコンを打っておられた方、麻雀ゲームをされていた方、パワーリハビリの訓練器具で手足の運動をしている方、パッチワークでバッグを作っておられた4人集団、園芸療法をされている方々、木工ろくろでお盆を作っておられた方など、ごく自然に会話が生まれた。利用者さんの方も、特別な振る舞いでなく、いつも通りの感じで語りあわれた。 大臣があれだけニコニコ顔で回られたことが嬉しかったですねと、山口県庁から付いて来られた役職の方も、また、マスコミ関係者の方々も、異口同音の反応であった。嬉しい限りである。 来年、世田谷で始める予定の「住民参加型通所介護施設」の話に及び、ご当地が大臣の選挙区であるということや、大臣のお供をしてきた厚生労働省秘書官が、私の中学高校の後輩であったことなど、「ご縁がありますね」という話になった。実に温かい見学であった。   今日の見学予定は、施設玄関で2時半にお迎えし、3時半に見学を終え、10分間、ぶら下がりというマスコミインタビュータイムをとり、3時40分にお帰りという、スケジュールであった。ほぼ予定通りで終了した。  それにしても、大臣が移動されるということはすさまじい警備である。大臣にいささかなりともお怪我でもあれば、大変なことになるのだろう。驚くほどの警備体制が敷かれた。驚いた。玄関で大臣より1時間も早く警備担当の刑事さんが大勢着かれた。厳しいムードを醸し出される。警察の方だと誰もが直感できるような方たちである。福祉の現場の方では絶対にないとわかる。餅は餅屋だ。これでなくては警備にならぬ。  事務次長が、何度も、事前に施設内図面を提示し相談を重ね、どういう経路で大臣が回られるかを詳しく下見され、予定順路ができあがっていた。今日私は初めてそれを見た。  「順路通りにいかないと警備の方が困られますから、いいですね」と事務次長がうるさく私に言う。これだけ、がんじがらめに、厳しく言われると、私の虫が騒ぐ。「言うとおりにできるはずはないよ。現場は生きものなのだよ」と思い、思わず言葉を発した。  「見学は施設内だよ。道路上ではない。なぜそんなに警備する必要性があるのかい?」  事務次長に食い下がるが、県庁や労働局や警察の方々と何度も打ち合わせしてきた立場としては、私の発言は許されない範疇らしい。「だめです」と一言。当然の発言であったのだろうが、私には合点がいかないまま、大臣を迎えた。 「包丁や、のこぎりなどを棚の下に閉まっていただけないか」と警備のトップの方が、大臣がお着きになる直前に玄関先でおっしゃった。トップが、トップである私への依頼である。 「我が施設はバリアありの施設です。危険なものありの施設ですから、隠す必要性がないし、そうすること自体が理念に反します」 と申し上げた。それしか言いようがなかった。隠そうが隠すまいが、どうでもいいと瞬間思ったが、それは、絶対まずいと直感。譲れない私の部分であった。 「スタッフをその近辺に重点配備しましょう。わかりました。結構です」 すんなりご了解を頂いた。よかった。 もう一つ、警備の方からおしかり(?)を受けた。どうしても順路を変えて、食パンづくりのオーブンから取り出すグッドタイミングに大臣が遭遇されるようにしたかったのである。私は勝手にコースを変えようとした。すぐに警備の方から、「それは困る。事前にだから何度も打ち合わせをさせて頂いたではないか」と食い下がられた。「事前の順路案に基づいて警備の方々,(総勢12名程度ではなかったろうか)それぞれに配置業務についているのだから、変更はやめてほしい」と言われた。 貴重な大臣のご訪問である。パンの出来上がり場面に遭遇されるか、パンを取り出した後の、においだけが残るオーブンを見て、そこを通過されるか。私は覚悟を決めた。 責任を私が負えばいい。 「すいませんが、コースを少しだけ、さかさまにしていただきたい」と申し出た。 現場のトップの方は、まさに刑事さんという凛々しい方であり、妥協を許さない厳しさを前面に持たれている方である。私は拝顔せず、ただ深く頭を垂れてお願いした。 良いともダメとも回答がない。そのことが彼の回答であると判断し、私はそのままコースを変えた。それが見事に図にあたり、ベストタイミングであった。パンが取り出された瞬間に、大臣が出くわすという展開となった。食パンの先生役である利用者さんの吉岡さんも、大臣にぜひ見てほしくて、必死にタイミングを図ってくださったとのことである 私は、あの気難しそうだった刑事さんに、このブログ上で御礼申し上げたい。事前相談し双方が確認したうえでの順路である。私は、その結果だけを事務次長から聞いてそれに従わなければならない立場でありながら、それを勝手に無視したのである。現場警備責任者の方は、当然、「それは困ります」とおっしゃらなければなるまい。それを無視した私を、無言で対処された。胸の中、腹の内は、相当煮えくり返るものを私が与えてしまったと察して余りある。その刑事さんは一番最後に村を離れられた。車で帰られる時、私はただただ感謝の気持ちで深く頭を垂れた。ありがたかった。警備される立場はかくあるものだと勉強になった。 大臣がお見えになるといっても、我が施設は、せいぜい、普段より丁寧に掃除したぐらいで、特別のことはなく、普段通り。当日の朝、利用者さんに、送迎車の中で「大臣がお見えになります。カメラや写真に写って困る方は、その旨おっしゃってくださいませ」と通常のマスコミ対策の手配。 大臣と一緒にぞろぞろ大人数が、利用者さんの活動されている場面に、ずかずかと入り込むので、その都度、スタッフがお断りを申し上げる。日頃から、見学者が多く、皆さん慣れておられるからだろうか。普段と変わらない。それが私は一番うれしかった。大臣もそういう反応でいらして、特別な感じではなく、ざっくばらんに、日頃の会話をされた感じであった。 「こういう夢のみずうみ村のような施設を、どんどんあちこちに作りたいですね」と、大臣がマスコミの方々に語っておられるのを、そばで聞いた。うちのような施設が本当にあちこちにできるといいなと今日も思った。 警備の方々も「尋常ではない施設」に大臣がやって来られたな、と、大いに実感を持たれたと思う。今日はそういう楽しい、素敵な日であった。  

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帯広~沖縄の移動

マイナス11度の帯広から 沖縄に急きょ行かざるをえなくなった。予定変更は、多くの人間に迷惑をかけるが、これだけ手広く仕事を引き受け、展開していたら、致し方がないと思うのは私の勝手であろう。相手は相当困惑されるだろうし、私は信用を徐々に失っている。仕事の優先順位、行動の優先順位という判断を間違えず、即断することだろうが私は無能だ。流されてしまうことが多い。山頭火でいいと思い始めているから、益々信用を失うかもしれないが、私の人生はこのまま閃光のごとく朽ちていかざるを得まい。実際、夢のみずうみ村の腹心の部下はもとより、多くの現場スタッフに、十分な声や手をかけることなく、思い付きで指示したり、勝手に依頼したり、深く考えない一事を発して困らせたりしている。本当に、私は、望ましいリーダーたり得ていない。精進すべきだと反省。 2日前、常宿である、浦安の自宅から、浦安のデイサービスに40分立ち寄り、羽田経由で福岡。講演を終え、現地で主催者と懇談、宿泊。翌早朝、茨城土浦に向かい講演、終えて直ちに世田谷区で新しく始める予定の夢のみずうみ村新樹苑(仮称)にて住民説明会。終えて浦安のデイサービスで深夜まで会議。翌朝、羽田まで急ぎ帯広へきた次第。 昨日は、本別で講演会。宿泊先の本別グランドホテルを早朝出発。頬が切れるような寒さ。心地いい。レンタカーを飛ばして帯広空港に。360度白銀の世界は、心をいやすが、心曇る難題に追われて空港に向かった。左右一面の雪の中、直線がずっと続く北海道の一本道。凍っていた。   現在の私の行動、思考内容は、一貫性があるようでない。追い立てられているからだ。 夢のみずうみ村デイサービス3か所、小規模多機能型介護施設3か所、就労支援事業1か所、フランチャイズ施設4か所、琉球リハビリテーション学院長と山口コ・メディカル学院顧問。沖縄では、ラジオ沖縄の「ゴーインにマイウエイ」という番組(毎月第2日曜日夜10時から11時まで)を知念常光さんとやっている。来年7月をスタート目安として、世田谷区に、住民参加型通所介護施設を開始すべく区や住民と話し合ってゴタゴタ。愛知県高浜市の市長や市民と一緒に「健康自生地高浜」という“まちづくり事業”の推進、2年目に入り、住民40名と喧々諤々。山口県内に、農業を中心とする就労支援事業所と身体障害者の方々の入所施設を作りたいと動き始めた。職員の駐車場も限界、防府デイ、山口デイの増築相談。エルダー旅籠(介護付きホテル)、サービス付き高齢者住宅(夢のみずうみバージョン)の企画・建設案件を建築事務所と相談。厚生労働省のモデル事業は、スタッフが頑張ってくれているが、中味のチェック・思考に結構、時間をとられる。そうした中での、こうした合間に、講演会を引き受けている。さらに、今回の介護保険制度改定による対策検討。新しい評価法「精神機能評価法」のシステムづくりが急がれ、一人での思考はもはや限界。仲間の作業療法士諸君に呼びかけた。 これらのエトセトラが、現在、私が自分の身体と時間を使っているすべてだ。一貫性がないから、積み重ねが弱い。要は、いい加減なのだ。だけど私は必死で、目の前に与えられた課題、起こってきた難題に必死にもがき走り回り、最善を尽くすが、それがbestやbetterは望むべくもなく。badってこともあるかもしれないが、それを反芻することさえできない。決してこうした暮らしがいいはずはないが、今は坂道を走っている。立ち止まれない人生だ。立ち寄る先々での周りの多くのスタッフに支えられながら、何とかこなしている実態だ。追われながら、走りながら、現場を離れることが多くなっている自分が怖いが、ただ動いている。雑多な事象が起こり、想定内のこともあるが、想定外のことが年明けからあまりに多い。今年はどういう年になっていくのだろう。愚痴ってこれを書いているわけでもない。ただ書きたいから書いた。おそらく、帯広が寒いからであろうか。この冷気が、原点に戻れと問うているのだろうか。   マイナス11度から、沖縄は21度であった。そして今、沖縄から福岡経由で山口に戻る機内。博多は寒そうだ。 

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1+1-4は-2 

写真を撮る際に カメラマンが叫ぶ 「イチ(1)たすイチ(1)は?」と。撮られる側は、一斉に「ニー(2)!」と答える。いつごろからはじまった口上のだろう。「ニー(2)」と答える口元が、かわいらしいとか、愛らしい顔立ちになるとか、いろいろ聞いた。硬い表情が崩れることは実に素敵なことだ。 ちょっと話は変わるが、昨日から、明日まで、第4回上田法多職種認定講習会を浦安デイサービスセンターで開催している。その最中の昨日の朝、甥っ子で、脳性麻痺の平井裕太が亡くなった。重度ではあったが、母親(義理の妹)がしっかり訓練してきたおかげで、長生きをしてくれたと私は感謝している。ずいぶん、訓練した。ボバース法、ボイタ法、そして、私が上田法のインストラクターになってからは、上田法の訓練をしてきた。無念にも亡くなった父親(義弟)に裕太は似ていて、遊具を手で触ってにっこりしてくれた顔を私はいつも思い出す。ひげ面になっても、あの顔が私の頭から離れない。なぜなら、日本作業療法士協会が編集した「脳性麻痺」というビデオに、裕太が写っていて、それを授業で使って見るたびに、幼い裕太がよみがえってくる経験を重ねたからだろうと思っている。裕太がなくなっても講習会を主催する私は、明日の閉講式が終わる迄身動きできない。お通夜に参列できそうだ。 全く、無関係のような裕太の話かもしれないが、この講習会の中で、思わぬ出来事が偶然、ふと私の口から洩れた。それは、上田法講習会参加者の集合写真を恒例により、表玄関前で撮影する際の話だ。夢のみずうみ村の職員、井上君がカメラマン役で、「はいチーズ」と言ってシャッターを切った。その瞬間は何も思わなかった。いつも通り、誰かれとなく、そう大きくもない声で「ニー(2)」と答えた。 その後、施設内の部屋に戻って、グループ別の集合写真を上田法国際インストラクターの水上君がとり始めた。彼が「1+1は?」と、メンバー全員に尋ねる。一同、「2」と答える。さて、次のグループに移って写真を取ろうとした彼の姿を見ていた私の口から、なんということか自然に言葉が漏れた。 「イチ(1) 足す イチ(1) 引く ヨン(4)は?」 一同が 「マイナス ニー(2)」と答える。 素晴らしい。「ニー」と返事しているのだ。ただし、その前に、マイナスをつけている。それが却って、口の動きを滑らかにしていいのではないかと思った。 単純に「1+1は?」「2」で答えるのとどこが違うのだろう。 私は今、ここに、メールを残しておこう。「1+1-4は?」という、写真を写る際の掛け声を発祥させたと宣言したいと思い、ここに書き記す。裕太が亡くなったからだ。裕太が亡くなった記念に私は、これを日本中に広まることを願いたい。広めてほしい。裕太がどういう人間で、どういう生きざまをしたが誰も知らなくていい。ただ、「1+1-4」は 裕太の亡くなった日の翌日に生まれた。裕太の死をしっかり、自分のものとしておきたいがゆえに、叔父の私は、このメールをしたためた。 いつの日か、日本どこかで、いや、どこでも、「1+1―4は?」「マイナス2」が広がっていくこととを信じている。裕太の生きてきたこと、亡くなったメモリアルとして、「1+1―4は?」「マイナス2」をこのブログに記しておきたい。このフレーズは、平井裕太と藤原茂の合作である。

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真っ黒な手帳

私のシステム手帳を除いた人は驚く。「これ? わかるのですか?」と聞かれる。その日の予定は、ボールペン、黒、赤、青サインペンが入り乱れ、最初は細かく書き込んだ予定が、ボールペンで横殴りで消されたり、〇で囲んだり、星印、米印がついたり、その上を、赤サインペンで覆ったり。これらの隙間を縫って、青サインペンで、ちょこっと、時間や、予定が入り込んだり。これぞ困ったというように、黒サインペンがそこいらを覆いつくしたり。それでも、どうしようもない日程が入り込むと、太赤サインペンが席巻して、覆い尽くしたり、隣のページまで入り込んだりする。書いた字を自分でも読めなくなったり、間違えたりすることもしばしば。スマートに、電子手帳や、携帯電話でスケジュール管理してはどうかというアドバイスを何度も受けた。しかし、このシステム手帳、すでに2代目であり、10年近くは使い込んだと思うが、これがいいのだ。重たいのがいい。ぐちゃぐちゃ・まっ黒けがいい。一目で、「今週は忙しい」「この辺りはまだ少し暇」とわかる。真っ白であれば、何も予定がない。来年3月末日までがすぐ見える。過ぎ去った日々を、この手帳の汚れ具合でいとおしむ。「ようがんばたなあ」と、自分に声掛けできる。これが、電子手帳だと、さっと、消えたり、流れてしまって味気ないどころかだ。まさに光陰矢のごとしで面白くない。私の日々は、過ぎ去っても、まだ、この手帳の中に残っている。だから、この手帳は離せない。常に、身の回りにおいている。スタッフはよく知っているが、この手帳をあちこち置き忘れ、慌てふためく。情けない。2日前小倉のホテル。一昨日、浦安の自宅。昨夜、ここ沖縄のホテル。どこに、自分は今いるのかすら手帳を見ないとわからないこともしばしば起きる。手帳は我が身である。3月下旬まで真っ黒だ。

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23年末から24年始、早々の出来事

この、ブログを書き出したのは年末30日だった。いまこれを書いている今日、1月19日。やっと、公開できる。浦安、長久手、高浜と移動し、沖縄に向かう機内だ。明日は八王子だ。相変わらずの毎日である。  私は、書くことが好きだ。このブログは、私の生き様であり、私自身の内部、感性を知っていただくことにつながると思って書いてみようと覚悟していつも書く。私は、個性が強く、豪気に見えるかもしれない。身勝手で、自由奔放で、我がままで、いい加減・・・という印象を持たれる方も多いのではあるまいか。顔がああいう顔だし、声がでかいし、話すと自分の言いたいことを言いたくて止まらない。そういう点が誤解されるきっかけだと思う。私の血液型はA型である。私と付き合った方はそれに気づく。付き合いの浅い方は、「O型ですか」と聞かれ、事実を知って驚かれる型が実に多い。私はA型そのもの人間なのだ。自分で言うのは実に僭越だが、繊細なのだ。自分で言えば世話はない。誰にもわかってもらえないが、この歳になって、そんなことはどうでもいいと感じだした。自分で、自分にうまく付き合い始めたからだ。「自分」で、「まだ気づかない自分」に気付くことは面白く楽しい、感動ものである。62歳を過ぎ、63歳になるかどうかという頃から感じ始めた気がする。年を取ってしまったのだ。  自白の話は、これくらいにして、今回の話題、年末年始の話を書こう。   昨年末28日に、浦安デイサービスセンターの望年会(出席者28名)、浦安の、ホテルで行った。会の最中に、ディズニーランドで打ちあげた花火が見えたことが忘れられない出来事になった。29日は防府市で山口地区、防府地区の合同望年会。参加施設は、山口・防府デイサービスと3つの小規模多機能型施設、夢ハウス仁井令、夢ハウス湯田・夢ハウス丸山、および、就労支援事業所「夢結び」の職員と、社会福祉法人理事や評議員の方々で、総勢149名。多くのスタッフが、夢のみずうみ村づくりに参加しておられるという証である。恒例の5年勤続職員お表彰を壇上で行った。今、本部で活躍してくれているメンバーや、システム部の二人ほか、重鎮が目白押しだった。夢のみずうみ村の5年は、おそらく密度の濃い年月なのだと顔ぶれを見ながら感じた。永年勤続表彰ほど素敵な機会はない。何人になろうと、私は、「以下同文・・」ではなく、おひとりお一人に、全文を読み上げて、感謝状をお渡ししたい。今年もそう思った。   私はひねくれ者なので、正月を控えても、車の洗車、大掃除はあえてしない。元旦は、ここ3年、決まって本部事務所の個人の机の大掃除。元日恒例となった。1年間で最もゆっくりしている時間帯だ。自分のデスクの後ろの狭い空間に座り込む。部屋の暖房をつけ、背中からストーブ。山ほど積み重ねられた書類の整理。今年はビニール袋7個のごみ出し。何も元日にしなくてもといいではないか、声が聞こえる。普段は掃除をする意識が私にない。いや、前しか向いて走るしか意識していないのだろう、片づけようというちょっと立ち止まる時間を使わない性分なのだろう。昨年は元日と翌日の2日間かけた。今年は1日だけで終わった。それだけ、山口の本部デスクに座る機会が少なかった証だ。  子どものころから、「使ったら元に戻しなさい。ただそれだけのことがなぜできないか」と母からしばしば叱られた。夜中、寝付く前、母が、私の机の中を見て、ごちゃごちゃ整理ができていないものだから、すべての引き出しの中味を机の上にさらけ出し、それをきれいにすべて仕舞いきるまで寝るな、と叱られる。冬の寒い時などは、寝間着もはだけてぶるぶる震えた。容赦ない。父や祖母が、明日でもいいではないか、朝でもいいではないかと一声かけてくれるが母の一声は絶対的だ。随分とこの机の整理はやらされた。其れなのに、この歳になっても一向に整理できない性分は治らない。「教育とは、本人が内面化して、自ら気づかない限り、いかなる働きかけも意味をなさない」。実体験からの定見である。一向にこの歳になるまで改善していないのだから。しかし、さすがに、この歳になると、意識が整理整頓に向くことが起きる。今年も、去年の元日からぴったり1年たっての整理整頓、清掃だ。 申し訳ないが、周囲は散らかし放題だ。だから、他のスタッフよりやや多めの空間を占拠している。おまけに浦安にも、初めて、理事長室という名の個室ができている。そこの整理はしないまま、山口に戻ってきた。あの部屋はいつするのだろう、少しずつ散らかってきた。情けない性分だ。  年末は、年賀状書きで丸1日必要。掃除で1日。それ以外に、毎年恒例となった「おせちづくり」がある。31日に、小規模多機能型施設夢ハウスのお節料理づくりと、年越しそばづくりに出向く。今年からは、仁井令(にいりょう)をはじめとして、湯田、丸山の3か所があるのだ。一つずつ回っていたら時間が足らない。今年は、小規模多機能型施設「夢ハウス湯田」で年越しされる利用者さんはお一人だという。31日は日中3人通所しておられるので、恒例の寒ブリ1本を持ち込んだ。                 今年は、萩市沖合の天然ブリ、6800円(安い!!)を3本買って、その1本を持ち込んだ。おそらく「夢のみずうみ村のホームページ」の「職員のブログ」で、写真入りで誰かがその模様を報告するだろう。それだけ今年も感動的だった。魚を、まな板に広げた時の驚きの眼。さばいている最中もじっと見つめる眼。刺身を切って並べた大皿に手が伸びる。それがすごい。手が動くのだ。食べてお代りに手が伸びる。「うまい」とあちこち声がする。 (これを書いたのは正月早々だったと思うが、今日は1月18日。職員ブログをアクセスして見た。やはり、ぶりが写真に写っている。しっかり、調理経過も載っている。利用者さんが喜んでくださるのもうれしいが、職員に感動してもらえるのも実に嬉しい。やめられない年末行事である)  午後からは、新しくできた小規模多機能型施設夢ハウス「丸山」に「仁井令」のお年寄りに集合していただき、そば打ちをした。年越しそばを作る役割がいつのころからだろう、藤原の仕事になっていた。そう思っているのは私だけでもいい。勝手に作っていた。ところが今年は、そば粉を買ってきて、みなさんで打って食べようということにした。  まな板、のばし棒も買い揃え、いざ、夢ハウス丸山へ。すでに、7人くらいのお年寄りがテーブルに座って居られた。ボールにそば粉を入れ、水を足し、手に粉がべとべとくっついても、とにかく、こねる、こねる。ワイワイガヤガヤ。若いスタッフのほうが喜んでいる。いや、利用者さんも、「どうする?」「手にくっついた」「肩が痛いよ」「もういい?」などなど言葉がいっぱい出てくる。参加されない方は一人もない。皆さんが「そばコネ」をされた。さあ、板の上に、打ち粉をして、こねた「そば」をさらにこねるぞー。  「粉引(木挽き)歌ってあるでしょ?」 木を切るだけじゃあなく、粉をこねる時も、歌を歌った方がいいソバができるのですよ」 勝手なことを私が言い、大好きな「刈り干し切り唄」を唐突に歌い始めた。歌いたい気分になってしまったのだ。ゆったりとしたメロディーを、大声で歌いだしたが、場の雰囲気に全くなじまないと直感。始めたから、メンツにかけてやめるわけにはいかない。宮崎の民謡で、夕方の畑仕事を終えた農夫が、駒(労働馬)にさあ帰ろうかという歌詞だ。  (1)ここの山の 刈り干しゃあ― すんだョ-    あとは 田んぼで 稲刈ろうかョー  (2)もはや 日暮れじゃあぞーい 田のクロ道をョー    駒よ いぬるぞー  馬草おえよー  これまでの人生で、自分自身が薄暗く淋しい時や、くたびれた時に、自然と口ずさんできた愛唱歌である。修学旅行で、素敵なバスガイドさんから習った。以来、この歳まで、何か落ち込んで回復しかける頃か、回復のきっかけかになるような場面で、ふと口ずさんでいる。情けないジメジメ男なのだ。  しかし、今回は、粉引ということで、メロディーではなく、文字から連想して歌おうと感じたのだろう。歌ってしまっていた。「粉ひき」に合うはずがないスローな歌。しかし、突然、私が歌いだしたものだから、スタッフがまず驚いた。利用者さんは無反応だったと思うが定かでない。しかし、歌いだしたからには、2番までしっかり歌った。次に何を歌おうか、何か次に歌わないとしらけるぞー。「刈り干し切り唄」の終わりごろから頭で考えていた。「景気のいい歌がいい。それしかないだろう藤原君!」。自分に気合を入れた。 「まつしーまーの サアよー 瑞巌寺…」。大漁節だ。 利用者さんが、私の「エンヤートッと、エンヤートッと」の大声につられて、口から声が出始める。こうなれば私の得意とするところだ。歌いながら、そばをたたいたり、持ち上げて、まな板にぶつけてリズムをとった。  ついで「ソーラン節」。結構、みなさんが歌い始められた。職員も声が出始めた。しめた。  私は益々調子に乗った。  「月が- でたでーたー 月がァ でたー よいよい」 「炭坑節」ほど、日本人に知られた歌はない。若いスタッフも、それまで、全く口を開かれなかった男性Aさんも、声が出るのだ。しめた、しめた。いいぞ、いいぞ。  こうして、まな板に、そばをバンバン打ち付けたり、手でたたいたり、見事なソバ打ちとなった。利用者さんと、久しぶりに感動を分け合えたことが素晴らしい。それ以上に、普段、かかわりが持ちにくかった小規模多機能型施設のスタッフと、利用者さんを介して関わりを持てたことも嬉しかった。無論、年越しそばは実にうまかった。  これまで乃年越し蕎麦は、だし汁にこだわり、揚げたての「ゴボウ天そば」にしたくてこだわってきた。これからは、年越しそばを作ることより、蕎麦そのものを作る「そば打ち」が、毎年の恒例行事になるぞと確信した。

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