年別アーカイブ: 2014

おおつちに木枯らしが吹く

 朝から世田谷デイサービスセンターで26名の方に「夢のみずうみ村方式」の講演会を行い、終わって、東京駅に走り、最終便の東北新幹線「はやぶさ」に乗り、パソコンを広げている。おおつちに向かう自分の心がこれほど、重くつらく、苦しく感じられるとは想像していなかった。子どもたちの一人一人の抱える問題が、成長に伴って新しく起こってくるのは当然なんだけど、予想していなかっただけにあわてまくっている自分がいる。おおつちは寄付金事業である。それが底を突き始めてきた。これまで4000万円余ものご寄付をいただき、本当に貴重でありがたいのだが、やはり、1億円を集めないと、事業が安定化するまでには厳しいことが露呈されてきた。まさに正念場である。  子どもたちの騒音問題というのも問題となってきた。ご近所からは、子どもの声が騒音であり、耳にうるさいとご指摘も受け、夢の教育方針を問われ始めている。奇声を発する子どもの存在が許せるか否か。それは、育て方の問題か脳のかたよりによる症状なのか、専門家がここにはいないが、いても、社会で受け入れられるか否かは別問題である。「社会的養護が求められている」と26歳の若ak利子児童養護施設の指導員時代、多摩地区の朝日新聞朝刊に、当時勤めていた至誠学園の「こどもの日特集広告」に一文を乗せた記憶がよみがえる。社会のみんなの力で、子ども育てる必要性、そういう地域が望ましいこと、そういう時代がかつてわが日本にはあったということ。それを思い出しながら、そういう思想(思い)は崩れ去ったのか。  おおつちに2日半滞在し、2年目のクリスマスイルミネーションを作り、点灯式を行った。最近苦しんでいるある一人の、気になる子どもと出会い語る。たまにやってくる「(私)クッソー」はその子の力になれたかどうか分からないが、思いだけは必死に伝える。子どもたちは夜空に輝くイルミネーションの下、歓声を上げはしゃぎまわる。その声をやや離れて遠くで耳にしながら、イルミネーションを見る全体が見通せるからだ。今年は去年より大掛かりになった。よくぞ、ここまでやってきたなと、夢ハウスを続けてこられたこと、吉山、横澤、両職員の奮闘に感謝した。イルミネーションづが小刻みに揺れはじめ前が見つめられなくなった。  今日は、朝から大槌町の議員さん二人に会った。おおつちにしっかり足を落ち着けるためである。いくつかのご指南をいただいた。いい方向に向かいたいと願っている。今は、一方的に資金投入するだけである。しかし、早急に、底支えする事業を展開し、ご寄付のお一人おひとりの意思にこたえたいと深く自覚したこの3日間であった。

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恐山に いってよかった

 恐山に行くことには賛否両論があった。小さい子どもに、亡くなった家族肉親のことを想起すること自体、時期尚早ではないのか、という声。いや、3年過ぎた中で、現世とあの世との行き来できる恐山で、会いたい人に会って、自分自身のこれから先を見つめていくことが大事だ、という両論である。恐山にやってきた。素晴らしい天気。おどろ恐ろしいイメージは全くない。それは、この旅を提案し、資金作りも行っていただき、しかも昨夜から薬研温泉の宿舎に合流して泊まり、朝から随行してくれた笹原留似子さん(面影復元納棺師)の絶対的存在があったからだ。彼女が、恐山までのマイクロ車中で子どもたちに語る。  「恐山で守ってほしいこと、一つ目。大声を出さないこと、二つ目、走らないこと、3つめ、人の悪口を言わないこと」にはじまった心の持ち方の説明。三途の川の渡り方、大門をくぐる際の礼、手を清める清め水の正式の所作、石に名前を書いて、3つ以上重ね、祈りを込める儀式。子どもたちの中からリーダー2人を選定して、その2名を先頭に、他の方々に迷惑にならないように、隊列を作り、左側に寄って、でこぼこ道を上り下りしながら、地獄や極楽の話を聞きながら、おそらく、それぞれが、それなりに思いを湧きあげながら、静かに歩いて行った。「自分が会いたい人に会える場所」「会いたい人に会うためにここに来たこと」それを繰り返し、大事に語り、随所で、霊場の説明を丁寧に子どもたちにしてくれた笹原留似子さん。単に、霊場恐山の風景に浸るだけではなく、石ころひとつ、砂一つに意味を感じ入った子どもたち。極楽の泉(宇曽利湖)にたどり着いたところで、留似子さんが、「大声を出して、会いたい人の名前を呼ぼう」と言う。最初に彼女が大声で名を叫ぶ。同時に一斉に、各自、それぞれの名前を叫ぶ。私も親父と義弟(平井英俊)、その息子(祐太)の3人の名を叫ぶ。みずうみのそばに、入り口で手にした風車を立てる。風に吹かれて勢いよく回る。寝転んで空を見ながら、心を開く。弟が寄ってきた。親父は笑っていた。祐太もケラケラ笑っていた。涙が湧いてきた。ああ、ここは恐山なのだ。来てよかった。子どもたちも、それぞれが会いたい人物に会えたと思う。 入り口に戻ると薬師の湯という小屋のような硫黄の湯があった。そこに、子どもたちと入浴。熱い。無邪気だ。またここを訪れたいと思った。子どもたちの心の中に、しっかり刻まれた今日。何十年か先に、今日の日を感じる場面が訪れることになるだろうと、今、静かに思っている。

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恐山に向かっています

恐山66Kの標識を通過しました。陸奥湾の一角でしょうか。浅虫水族館から1時間たったのでトイレ休憩方々、海辺で休憩。子どもたちは早速海岸べりまで、駐車場の高台から海岸に続く階段を一気に下りて行きました。ひなたちゃんが、一番先に降りて、靴下を脱ぐ、さっと海の中に入りました。続いてみんなが波打ち際に。高台から、遠く夏泊と、下北半島先端を眺める。穏やかだ、今日は。すぐ下で海と戯れる子どもたちを見ながら、思う。私たちは、この子たちに日本の未来を託すんだ。必ず、夢ハウスのこの子たちは、将来の日本を担う貴重な人材になるはずだという確信満ちた感覚がジワーッとわいてきた。そのために、もっと寄付金を集めなくてはいけないなと覚悟しながら、子どもたちを見ている。吉山、横澤両名のスタッフともども、神々しい。涙があふれてくるのです。かつて、児童養護施設の指導員として定員65名の2歳から18歳の子供たちの面倒を見させていただいていた児童指導員時代。一生懸命に働いてはいたが、若気の至り、今から思うといい指導員ではなかった。ただがむしゃらに子どもたちに接していただけのものだった。今は違うなあ。この子たちの将来に期待しながら今の一人一人を見ている私がいる。僕は、この子たちの力になりたいと決意したことをこの場でも再確認したいと思った。恐山霊場まで54Kの地点を車は通過。海沿いの道を、左右。小さな松や雑木で囲まれた道を、走る。千と千尋の神隠しのDVDを見ながら。車窓の景色など見てはいないが、子どもたちが乗ったマイクロは恐山近くの今日の宿までスムースに走る。

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下北半島へ子どもたちと

いま、東北自動車道を走っています。運転手は宮本史郎君(現、首都圏事業部長)。山口デイサービスセンターのマイクロバスを、大槌の子ども夢ハウスまで持ってきて、子どもたちを乗せ、2泊3日のお泊り旅行に来ている。行先は、浅虫水族館、恐山、三沢航空館をめぐる予定。私はといえば、4日前、皆さんと夢のみずうみ村旅行で、香港を3日観光し、羽田国際空港に戻ってきて浦安デイのスタッフにバトンタッチして浦安の皆さんと空港でお別れし、国内線に移動し、山口宇部空港にもどり、山口で一日所用をこなして、羽田、東京駅、東北新幹線で北上駅前のビジネスホテルと移動。まさに現代が山頭火という流浪(?)。今朝五時起きで、宮本君の運転するマイクロにホテル前で合流し、子どもたちの待つ夢ハウスへ。みんなと一緒にいざ、下北半島に向け出発。天気予報は、雨のち曇り。今日は、浅虫水族館が中心だから、雨が降っても何とかなるかと思っていたら、晴れ男藤原。暑いほどの晴天となった。実は、香港も50%雨予報であったのに、滞在3日とも晴天。本当に私は晴れを呼べる男だ、間違いない。  さて、車は高速を降り、リンゴ畑ばかりの間を縫いながら、半島先端方面だ。右に行けば、夏泊、浅虫温泉、左は、三内丸山遺跡という交差点に来ている。右折した。マイクロバスの中は、1時間半以上前からルパン三世のDVDがかかってにぎやか。今朝北上の気温14度。2日前の香港32度。昨日のやまぐち28度。寒いのです。 はいはい、浅虫温泉まであと8キロです。ここでパソコン中断します。

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北へ帰ろう

仙台駅のホームに立って「やまびこ号」新花巻行きを待っている。思わず口から出てきた演歌。徳久光司の「北へ帰ろう」。歌うたびに、涙なしには歌えなかった、この歌。ついこの間までの自分。今日は、淡々とホームの支柱にもたれ、新幹線を待ちながら一人口ずさんでいる。本当に「北へ帰る」のだ。東京駅で仙台行きの切符を買った。これまでなら、右側の東海道山陽新幹線の改札口方向に向かうのが普通であった人生が、左側の東北山形新幹線改札口方向に自然に足が向かう自分がいる。北へ私は行くのではない、帰るのだ。 今日は、仙台で途中下車し、明日、誕生会の祝いをする,大槌子ども夢ハウスの男の子、悠人君と夏君のプレゼントを買うのだ。PARCOによって、希望のサッカーリュックサックを買った。ほかに、ベルギーのチョコレートと別の店で、しゃれた飴も買い、例のごとく土産いっぱいぶら下げて、くそじじい(夢ハウスの子供たちは私をかつてはそう呼んでいたが、今は、クッソーと呼ばれている)、その「クッソー」、いつも、土産いっぱいぶら下げて大槌に帰るのだ。おおつちを出るとき、子どもたちとは「出稼ぎに行ってくるよ!」「いってらっしゃい」でおくられ、こうして出稼ぎから帰る。千昌夫の歌う「津軽平野」の歌詞同様の私。「♪おやじは帰る。土産いっぱいぶら下げてよ♪」。 西で生まれ育った私は、新幹線「こだま」「ひかり」がなじみ深い。今の私は、「やまびこ」「はやぶさ」に違和感がなくなり、こうして、仙台から新花巻まで乗っている。間もなく列車は、一関あたりを過ぎるころか。東北の農地が車窓に走る。「アメニモマケズ」が必ず口からついて出てくる。西とは違う田園風景に触れるからだ。「ノハラノ   マツノハヤシノカゲノ チイサナ カヤブキノ コヤニイテ」という防風林に囲まれた農家、農地、東北がそこにあるのだ。私には、東北の貴重な思い出話がある。20代初め、親の気持ちに反して福祉現場に住み込んで大学に通い始めた私は親から勘当。大学の授業料を払うために、夜間のパン屋でのバイト(埼玉県川口市)。そこで、深夜の休憩時に、私の指導をしてくれた人物がある。中学校を卒業し集団就職でこのパン屋に就職。東北(どこかは聞かなかった)からやってきた年下のAさん。私のアルバイトの指導者なのだ。彼は8万円の給料を得ていたがそのうちの6万を家に仕送りしているという。私はといえば、私学で小中高と大学まで出してもらっている。それで、勘当されたので自分で授業料を稼ぐんだと豪語している自分。Aさんとのギャップ。「みんな出稼ぎに出るのです。うちが貧乏だから当たり前。郷里の兄弟のために、親に仕送りします。僕の周りのどこのうちでも皆やっている長男の役目です」淡々と語るAさん。甘い私。なんという東北の現実と、この青年(少年、という感じであったが、たぶん16歳、17歳だろう)の存在感のすごさ。頭をたたかれたというか、自分の未熟さを痛感。今でも恥ずかしさとともに思い出されるのである。その東北の北の地に、また今日も帰っていく私。 作詞・作曲 徳久光司  「北へ帰ろう」 1. 北へ帰ろう 思い出抱いて  北へ帰ろう 星降る夜に 愛しき人よ 別れても 心は一つ離れまい 2. 北へ帰ろう 思いを残し  北へ帰ろう 誰にも告げず 夜露を踏めば ほろほろと  あふれる涙 とめどなく 3. 北へ帰ろう 涙を捨てに  北へ帰ろう 星降る夜に みとせの夢よ わが恋よ  君くれないの くちびるよ

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生きております 

やっと、ブログを書く。2013年5月17日以来 更新してこなかった。この間 私の24時間はすべて仕事で、いや、夢のみずうみ村がらみの生活であって、ますます本当に忙しくなった。以前も決して忙しくなかったわけではないが、これほどではなかった。とにかく忙しい。地に足がついていない感ありで苦労する。 生きていないのでは・・・ 入院しているのでは・・・といった憶測があったようであるが全く異なる。本当に忙しい。ただそれだけだ。移動中にこのブログを書くことに決めているが、その移動中にやることが目白押し。ブログどころではなかった。 今、PM8時30分東京発岡山行き最終便の車中である。ゆっくりこれを書いているが眠くなった。23時57分岡山着だそうだ。どうしても明日の講演会を遅らせるわけにはいかない。無理をするなと多くの友人知己にたしなまれるが 無理ではない しなければならないことに押されているのだ。眠くなってきた。名古屋を過ぎて間もなく京都だ。 生きてまっせ、という合図に このメールを掲載しよう。実に味気ない文章だが ご勘弁を。

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