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LAST Meeting 思い出作りの旅

表題に示しましたように、当面、向こう5年をかけ、本年73歳の現在から77歳まで、このMeetingを開始することにいたしました。我が人生でこれまでお会いした方々に、もう一度、思い出を手繰り寄せ、感謝の会話を交わしたいと決意いたしました。 お声がけをしながら、時間をかけ、山頭火のごとく、ぼちぼち、とぼとぼ、思い出に沿っておたずねしたいと、このブログで宣言させていただきます。

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熊本の内弟子の話 

夢のみずうみ村で働いて夢のみずうみ村の真髄を極めてくれた職員は内弟子である。夢のみずうみ村を離れていった内弟子もたくさんいる。そうした中に、ふとしたことで藤原に声をかけ、夢のみずうみ村を確かめるかのごとき働きかけをする者がいる。「子どもが生まれたからだっこしてくれませんか」。過去7人か8人くらいいあったと思う。力士ではないのだからと、申し上げるが、内心大喜びで大変ありがたくうれしく思いお子さんを抱っこさせてもらう。幸せのおすそ分けを頂いたといつも思う。 今回、熊本在住の吉山龍弥君から、抱っこしてほしいと連絡がきた。山口デイサービスで発達障がいの子どもの仕事をしてくれていた。その後、新潟の夢のみずうみ村に、親友の東郷先生が併設で開業したクリニックに作業療法士として転勤してもらった。ところが、それから先、彼からの突然の抱っこの電話。 彼は、今、BLANCO ICE CREAM を経営している。障がい者の働き場にしたいと、故郷で開業した。ぜひ、このブログにアプローチした方は覗いてほしい。彼が、自分の夢のみずうみ村を目指したい作れるといいなと思っていると語った。すごいなあと思ったのである。必ず、発展してくれることを願っている。 実は、山口コメディカル学院の作業療法学科教員時代に「サンダ」と名付けた教え子三人が、そろいもそろって子どもが生まれたから抱っこしてといわれた、内弟子以外の抱っこ歴もあるのだ。皆、元気に幸せに、親の言いなりでは無論なく、自分に納得いく、自分の人生をしっかり歩んでくれたらうれしい限りだ。

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夢のみずうみ村物語 その37 夢のみずうみ誕生秘話⑩

職員採用原則 いやそんなものあるのか 職員の採用原則って言うようなものがありますか、と質問があることがある。そういうものはない 採用はいいことか悪いことか、どうも理事長決済のようになってしまっていて藤原が面接することが多い。施設長はいつのころからか、山口コ・メディカル学院でコンビを組んできた理学療法学科長 吉村静馬氏の細君と決めていた。少しの期間山口リハビリテーション病院で一緒に働いていたのであるがそのときは詳しく知らなかった。 吉村夫妻が関西の重度心身障害児施設で知り合われ結婚され、そこに長年勤務されていたという事実が私をして適任であると思わせたのだ。なぜなら、当時の重度身体障害児施設は労働力不足で猫の手も借りたいほどの激務であったのだ。そういうところに務まるヒト、飛び込むヒトはすごいヒトなのである。 介護主任のK君とは萩子供クラブで長年ボランティアを共に行ってきた二十年来になろうとする間柄となった。 独身時代から、毎月第2と第4日曜日に養護学校に来て、一日ないしは半日、障害児の感覚統合サーキット訓練をするのである。電気工事の力仕事とはあまりのいかけ離れているのに彼は時間の都合がつけば参加し男手が少ないスタッフの中で力を発揮してくれたのである。村を作る際に、早々と彼に声をかけた次第である。 介護のHさんとは、娘さんのリハビリを通しての間柄である。脳性まひであった長女のJさんのリハビリを担当させていただいただけであったが、同じく、N君のお母さんといつも一緒に夢のみずうみの初期の活動に時々顔を出していた。それが、Jさんがなくなられて、夢の湖が実際にこうして施設を作る段になって就職していただくことになったことはJさんが引き合わせたに違いないのです。今年、支援費事業で脳性まひの子どもたちや、Jさんと同級であった子どもたちが村に通ってくるようになって、彼女は身体障害者・児童・知的デイサービスのスタッフの責任者に成長しているのである。 Hさんは、建築の打ち合わせに出向いた浜村工務店さんの細君からボソッと口走られた。「いい人がいるんだけど」 (編注:2001年当時の話です)

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おーっつ! 夢のみずうみ村がここにある

20年前に創設した夢のみずうみ村の当時の職員に語った資料がCDを整理したら出てきた。CDを起こして、順次「夢のみずうみ村誕生秘話」としてブログにのせております。古い1996年物は、夢のみずうみ村運動を起こそうとして、当時勤めていた山口コメディカル学院作業療法学科長時代のボランティア活動の中で育まれた「夢のみずうみ村」芽生えの原稿です。探せば、もっと出てくるかもしれませんが、それは「ワープロ時代」(知らない若者も多いことでしょう)の「フロッピー」に保存されている原稿です。 そこまで戻らなくても、2000年に入ったCDがいくつか出てきて、それらの中から、順次、公開をさせて頂いております。防府デイサービスの徳本君が、その任に当たってくれています。私が文面に使ったスライド(写真)が、そのまま貼り付けようとすると、空白になってしまうのです。それを逐一修正し、手間暇をかけ、ボランティアでこの作業をこなしてくれています。感謝です。ありがとう、徳本君。 これらの原稿を「夢のみずうみ村原典」と命名します。 夢のみずうみ村の思想、介護保険のリハビリ前置主義と開設時厚労省が叫ばれていた思想そのものだと改めて読み直して実感します。 その具体的手法、介護の理念、リハビリの介護保険での適用手法、通所事業の在り様を、事細かく、具体的に書き述べていると実感します。自画自賛すれば世話はないと揶揄されても一向にかまわないと思います。自分に驚いているからに他なりません。よくぞ、あんなことを書いていたなあ、と思うのです。20年過ぎても、その根本のHow To,理念は全く変わっていないことの証がこの原典に掛かれていると思うのです。読み直しながら、修正しようとしましたが、手がはいらずじまいでおります。 先日、北海道札幌のオイラーク社が運営しておられる「夢のみずうみ村てんやわんや」と、新潟にある「夢のみずうみ村新潟」、山形県米沢にある「夢のみずうみ村スマイル」に伺う機会を得ました。 施設に入った瞬間、「おーっつ! 夢のみずうみ村がここにある」と叫びました。 一緒にいた先方のスタッフたちも、「なぜ藤原がそんなことを叫ぶのだ?」と不思議に思われたかもしれません。本家では夢のみずうみ村が変化しております(夢のみずうみ村の本家という言い方は、失礼かもしれません。仲間のFCの施設と区分して表現する際に「本家」と呼ばせていただいております)。 私は、ただうれしかった。これらの施設では、まったくと言っていいくらいに開設した当時と「環境の仕掛け」が変貌していないのです。ときどき、本家に行くと、環境の仕掛けが全く変わっていたりして脚が立ちすくみます。変化することを批評しているものではありません。本家では、藤原体制から、新しい宮本・片山体制に変わり、介護保険の厳しい展開に対応すべく、苦心し葛藤してくれています。それはそれで、肯定すべきだと理解したうえで、あえてこうして書いております。 そういった背景にある現状下で、それぞれ3施設に一歩足を踏み入れた途端、十数年も、変わらず、そこに、夢のみずうみ村があり、利用者さんがコロナ禍であるにも関わらず、しっかりご利用されており、スマイルでは「3人もの自立卒業を生み出しました」と報告あり。新潟夢のみずうみ村は、大規模夢のみずうみ村として、最後の設計建築開設でありながら、全く古くなく、さん然と各コーナーが存在感を打っててくれていました。見事というしかないのです。オイラークは、むしろ、脱夢のみずうみ村という発想で挑戦的な大規模デイを展開されています。 そもそも、環境の仕掛けの中味は、 「雑多である」 「居間台所感覚であり、応接間感覚ではない」 「One Step One Goods」 がそこに、明確に存在しているのです。 通所施設は、日帰り施設だからです。利用者さんの生活主体はご自宅にある。ご自宅の環境の中で、生活動作の修復回復を図ってその日一日終わって帰っていかれる施設が通所施設です。自宅に添った環境でなくてはならないというのは絶対原理原則。たまに、気分転換で、別の環境において生活動作の習得をしたいのなら、たまに行う遠足みたいに環境変化体験をすればいい。外出訓練、特別メニューなど工夫すればいろいろできる。デイサービスは、家庭環境を模したものでなければならない、その信念は揺らいではならない。 私が常時そばについて見守って差し上げたわけではないのに、むしろ、全く、無責任にもほったらかしではないかとご批判を受けても反論できないのに、そこに、しっかり、夢のみずうみ村が存在していたのです。現場のスタッフ、管理者・経営陣の志しがそこに見て取れる。ただ、ただ、感謝と感動しかないのです。 夢のみずうみ村は、とっくに、藤原個人の手から離れ、社会に存在し根付いていることを実感させられた事実があった。そのことを記しておきたかった。

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夢のみずうみ村物語 その36 夢のみずうみ誕生秘話⑨

電柱(夢の柱)を本丸に埋め込んだ 本丸の中央に電柱が立っています。見かけは天井とくっついているようですが実際は3メートルも彫って埋めてあります。もともと、その位置、建物の中央部分には樹木を植えたいと思っておりました。 しかし、友人の樹木医から、園芸療法を実践している施設が植物を泣かせいためることはやめなさい、光が当たらない建物の中央におくとは何事! という指摘でした。「植物を泣かせるな」という言葉は印象的でした。すぐに取りやめましたが 掘った穴の大きいこと しばらくは水が溜まったままでした。 もともと植物を植えようと思ったのは、岩手県盛岡市にある知的障害者施設「いきいき牧場」に伺って施設を拝見したときの感動がベースにありました。宮沢賢治の童話の世界をテーマにした施設作りは感動でした。街角広場のような感じの広い講堂のような場所のイメージが頭にこびりついてそれでふとわが村のその穴に電柱を建てようということになったのです。電柱の電燈は昔風の紐で引っ張る円形のかさがついたものです。それがもう売っていないのです。 「すこし前に言ってくれたら捨てた電灯があったのに惜しいことをした」 電気工事を担当していただいた吉村電気社長の一言。結局あちこちに手配していただき手に入れたのです。 さて、その電柱の使い道です。「夢の柱」にしました。自分の夢をほかの方に公開し、その夢のために努力するということに役立とうという柱です。短冊に自分の夢や好きなことを書いていただいて糊で貼り付けるというものです。初期のころには何人かの方に書いていただいておりますが最近は意識されていません。ぜひ来村の折には紙に書き出していただき貼ってほしいものです。

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夢のみずうみ村物語 その35 夢のみずうみ誕生秘話⑧

合掌造りにこだわったよ 個人的には 、二十年近く前に萩市で障害児をもたれた親たちとお互いお金を出し合って無認可作業所を作りました。そのとき、友人の浜村工務店さんに頼んで合掌造りの建物にしました。合掌造りはお金ができた段階で作り足しができるというのです。三角に木を組み伸ばしたいだけ単純に足していけばおおきくなるのです。 今回は、柱に手が届く鴨居のような感じで合掌造りでの和風建築を作りたいという意図でした。と同時に、お金がないのでそれしか考えられなかったという点もありました。 浜村工務店の作業場に理事の5・6名が集まり自分たちで柱のペンキ塗りを始めました。四方を順に塗っていくのですが、素人のなせる業です濃淡がくっきり出るのです。手形が残ったり、足跡がついたり。素人ペンキ屋は手作りであることを証明するために意図してまずく縫ったといわんばかりの傑作物でした。今でも、本丸の柱をじっくり見るとすぐに足跡がしのばれます

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夢のみずうみ村物語 その34 夢のみずうみ誕生秘話⑦

温室物語(温室のできるまで) 園芸療法のメッカにしたいという思いはずっとありましたので温室をどうしても作りたいと念じていました。しかし、資金です。 温室は、一年中植物を供給するために不可欠でした。そこに、「がんばれNPO」というチラシが目に入りました。雑誌の中であったか、インターネットなのか今では記憶が定かではないのですが、NPOに最高200万円助成しましょうという話です。思わず飛びつきました。日本財団をはじめとする大きな助成金を援助していただく組織は、社会福祉法人には支援額が大きいのですが、資金難のNPO法人にはせいぜい車両購入支援額が大きい支援額の対象でありまして、施設整備等の女性は皆無でした。ですから、200万の支援額を見たら何とかしていただきたいと必死に申請書を書きなぐりました。 がんばれNPO財団から調査のために来村されました。本当にここは大丈夫な施設かということでしょう。一般にNPOの問題点は設立が容易であると同時に解散も容易ということで信頼性にかけるのが弱点です。社会福祉法人は基本資産があるので大丈夫であるという見方になるのでしょう。わが村の基本財産は14万少々でした。設立当時の銀行預金がそれしかなかったからです。これでは信用してもらおうというのが無理かもしれません。がんばれNPO財団では園芸療法のメッカにしたいという意図を汲んでいただき、温室建設費200万の支援をいただきました。銀行から借金する場合においても、こうした公的な団体から支援があるという事実が大事ということを学びました。

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夢のみずうみ村物語 その33 夢のみずうみ誕生秘話⑥

雪の舞う朝、2001年4月1日 一本のヒノキ伐採から始まる 4月というのに山は雪です。しかも吹雪です。夢のみずうみ村の門出を祝ってもらっているという感覚でした。 ボランティア10人程度で山の斜面にあるヒノキを電動のこぎりでカットしようという作業でした。始めようとすると猛吹雪になりました。前方の視野が一瞬制限されるほどの雪に思わずなくなった父に「親父とうとう始めるよ」と口走りました。なぜ父のことをあの時感じたのかわからないのですが、夢のみずうみ村の本当に第一歩として最初のヒノキを私がカットしました。きれいに斜面に倒れた木に一同拍手しました。その木を記念に残すために椅子状にカットしたもの今でも手元にあります。 ヒノキを切り倒すことは楽しい作業でした。危険を顧みず、同時にあちこちでカットカットです。素人は困ったものです。カットするのは簡単ですが、枝を切り落とし、その木を運び出すのです。斜面に倒れた木々の重なりを、ロープをつけてひとつずつ下のほうへ運び出すのですが、枝と枝の間に足をとられ思うように前進も後退もできず、作業ははかどりません。厳しい作業でした。2回ほど作業したところで、これは素人には手におえないなと感じましたので業者委託することにしました。すでに切り倒して山の斜面に放置しているものを一部取り除き、さらにカット造成するというわけです。われわれが手をつけていなかったらもっと安く上がったかもしれません。 しかし、自分たちの手で切り倒そうとした心をお金では買えないぞと今でも思います。 あの、雪。そして、夢のみずうみ村は始まったのです。

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夢のみずうみ村物語 その32 夢のみずうみ誕生秘話⑤

買った土地の大勘違い 「大変なことです」 副理事長で一級建築士である村上茂行さんが私に至急電話をかけてこられた第一声です。 「夢の湖が買った土地はあそこではない」 というのです。 あそことは、今回新しく購入した(一部借地)部分(B地帯といいましょう)です。 おかしなことに、最初、不動産屋から彼が聞き知った土地はB地帯でした。当初購入した土地をA地帯としましょう。それはB地帯とつながった高台の土地です。 私とラ・ベルヴィの野村さんは、村上さんから電話で聞いたB地帯都合3回下見しました。平らで見晴らしもよく、個々は絶好の施設環境と喜び合っておりました。 ところが突然の村上さんからの電話です。 「土地がですねえ 違うのです」という村上さんの言葉に、詐欺にあったと直感しました。すでに内金を支払っていましたから真っ青になりました。 土地を前後取り違えたのであるということがわかるまでには少し時間がかかりました。 受話器を下ろして、着の身着のまま、現地に飛んでいきました。村上さんが確認されたA地帯の端に立ち、 「このまっすぐ上からですね。尾根を伝って、あのミラーのあるところです」という風に村上さんは語られたのですが、私はじっと聞いている余裕がなく、すぐさま背広を着たまま山の斜面を駆け上りました。てっぺん間で上がり、尾根を伝って、敷地の際といわれた獣道のある場所間で行き、一気に隣との境界を直線的に下っていました。降りると同時にまた再確認すべく反対から敷地の境界を確認しておりました。藪の中、山の中を背広姿で無我夢中で走っておりました。ですからその背広はぼろぼろで捨てました。そのくらいショックでした。 あの平らで景色のいい場所ではないというショックです。境界を確認した直後の感想は「案外広いではないか」ということでした。素人はこれだからいけません。広いというのは山の斜面として広いのですが、造成して平らな部分がどれだけ取れるかとなると話は大いに食い違ってみます。 結果を振り返って見ますと、この勘違い騒動はラッキーな話だったと考えております。 いま、本丸のベランダに出て山口市内を見下ろす景観は絶景です。心癒される風景です。 もし、最初にB地点を購入していたら、その背後の傾斜のある山の部分を造成してまで村を活用しようという意識が生まれてくるかなあと考えてみます。A地点の傾斜を造成して本丸,二の丸、ラ・ベルヴィの家を作ったからこそ、今日の更なる増築が生まれたのだと感じています。何か大きな力に導かれてこの村は動いているという最たる話題でした。

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夢のみずうみ村は、開設20周年を過ぎた

2001年4月1日 山口市中尾の杉の木を1本、チェーンソーで私が切り倒した。雪が少し前に振り出していたが、切り始めた時は吹雪であった。切り倒した時に雪はやんでいた。だから、吹雪は、芝居がかっている。空に、大道具の雪係がいたのだろう。 それが、夢のみずうみ村の初歩。初仕事であった。木を伐り、平らにし、そこに、合掌造りの建物を建てた。夢のみずうみ村山口である。20年前の話だ。全く、お金はない。銀行のつてもない。ただ、私の母が、萩信用金庫(現山口萩信用金庫)に、定年まで勤めてやめた女性第一号であったのだ。 小学生の頃、学校のそばの萩信用金庫本店に母がいるので立寄る。のどかなもので、当時の萩信用金庫は、3時に閉めた後、私を、大金庫の扉を開けたまま、当時の専務と支店長がしている囲碁をそばに座って眺めるのが常であった。専務や、理事長や、支店長や、職員の馴染みの方々が「茂ちゃんお帰り」と声をかけてくれて、あとは各自、職員の子どもがそこに居ることなど知らん顔でそれぞれの机で仕事をしている。これが、当時の、いつもの、見慣れた風景であった。萩信用金庫は、そういうゆったりとした銀行の一面をその頃は持っていた。母はその後支店を2箇所変わっていったが、いずれの支店もいい方々ばかりであった。 母が、定年まで働いたのは、我が家が貧しかったからにほかならない。同時に、母が、自分がつかめなかった「学歴」を、我が子にだけは無尽蔵に金がかかってもつぎ込もうとする生き様に影響、決定づけられた。 国鉄(今のJR)に勤務するSLの検査係の父との2人の稼ぎで、私と妹は、幼稚園から私学。妹は金のかかる音大にまで入学させ、結局、私も二浪して私学。おまけに、入った慶応大学を中退し、親から勘当。子どもたち二人を、自分たちが貧しくて手にできなかった「学歴」を子どもにたっぷりしっかり与えたという、我が両親の一生であった。 時は過ぎ、私が53歳になったときの萩信用金理事長は、藤原茂の少年期をよく知っておられた方であった。定年まで勤めた母のことは、信用金庫の融資部門の担当者もその上司も、皆よく承知しておられる方々であった。結局、それが、資本を持たない藤原茂が行おうとする初めての事業に、信用貸しとして融資する背景、きっかけ、裏打ちになったから、NPO法人夢の湖舎に融資して頂いたのだと思っている。こうした史実が、夢のみずうみ村の歴史の裏話でもある。20年も過ぎてしまったのだ 20周年。10年ひと昔を2回繰り返したことになる。 NPO法人夢の湖舎は社会福祉法人夢のみずうみ村となり、理事長を、宮本志郎さんが後任を引き受けてくれた。 株式会社夢のみずうみ社の代表取締役は片山勝彦さんにお願いできることになった。私は、相談役になった。株主総会でこの人事は承認を頂いた。 あたらしい夢のみずうみ村が始まった。21年目から延々と発展していくことであろう。命続く限り、夢のみずうみ村を底支えし続ける覚悟でいる。それを、公にしたくて、このブログを活用させて頂いた。 ちなみに、今、創世記の夢のみずうみ村をつくった際のHOW・TO、考え方、理念などを書いたものを、段階的にブログに挙げてもらっている。夢のみずうみ村の古典である。ご供覧いただければありがたい。

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