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出勤しました

二日前に退院し、あれだけ痛みで苦労した身体が感知したのをいいことに、今日から防府デイに出勤始めました。どれだけ空白があったか、覚えていないのですが、浦島太郎もいいところでした。風貌が、まったく変わっているので、自己紹介をしなくては無理な場面が頻発でした。私の体力・筋力低下が激しいので、施設内移動が結構大変です。徐々に、自分の活躍の場をこしらえていくつもりです。

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ただ今入院中

脊柱管狭窄症の手術を行い現在山口済生会病院に入院中です。前立腺がん闘病14年で、苦しんでおります。抗がん剤の副作用で味覚障害が起き、何を食べても苦く、フエキ糊を口内に塗り立てて食物を食べるのが不快なので、体力消耗はなはだしいです。食欲も湧かず、自分が消耗していく実感が強い状況でした。 今回、痛みが、前立腺がんに起因せず、整形疾患であるとの診断だったので手術に踏み切りました。あと3日、入院せざるを得ないようです。これまで、腰部周辺が絶えず傷んでいたので、行動制限が激しかったのですが、これで、完璧に痛みから解放されると、なんだか次の展開が湧き上がってくるような期待感があります。いろいろの方々、方面から、ご心配の声を頂くものですから、とりあえず、このブログに報告させていただきました。

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藤原の現状を知りたいという声へのお応え

最近、10人を超える方々から、藤原大丈夫?という声を聴かされる。 時には、突然自宅まで訪ねて見える。藤原不調のうわさが出回っているらしい。 前立腺がんと闘うこと14年。同病で、歌手・俳優の西郷輝彦さんは、闘病10年で先日亡くなられた。個人差はあるが、まだまだ元気でいる。 私は今の抗がん剤(2種類目)が効いていて、PSA(前立腺がん検診数値 )が正常域を保っている。好調かと問われたら、不調だと答えている。痛みが、股関節周辺に絶え間なくあるからだ。 薬を14種類15個を毎日飲んでいる。体にいいはずがない。副作用が多彩だ。 ①「めまい」7種類、②「全身倦怠感」「体がだるい」「疲労感(倦怠感)」「疲れやすい」6種類、③「息苦しい」「動機」が4種類、⑤その他、「筋肉が痛む」「頭痛、眼痛、背中、腰。股関節の痛み」「顔がほてる」「身体のむくみ」「吐き気」「じんましん等の発疹」「下痢」「便秘」「血尿血便、尿の色が赤褐色」「出血しやすくなる、鼻血、歯ぐきから出血」「冷や汗が出る、悪心」「食欲亢進、体重増加」 点滴で体に月一度入れている抗がん剤の副作用は「吐き気、嘔吐、食欲不振」「しびれ」「顔がふっくらする(ムーンフェイス:満月様顔貌」「味覚障害」・・・ まだまだ、副作用として、堂々と患者に「お薬説明書」として手渡される内容をこうして書き出してみると、寒気を超え、多種多彩な副作用のオンパレードに他人事のような気持に陥るから妙なものだ。自分の身体の内部で間違いなく起きており、自覚症状が明白にあるのに、副作用には手の打ちようがない。薬は絶対飲まなくてはならない。私は、14年間も、こうした背景で生きてきたのである。 「副作用で心配があれば、主治医、薬剤師に相談してください」と明示してある。だから相談するが、いい回答は全くない。 医師にとって、薬は検査と同様、医師の武器だ。患者にとっても頼みの綱だ。副作用は、効能を売るためのトランプでいうところのジョーカーだ。マイナスカードであっても、しかたないのだ。 具体的に薬を変えることはあっても、減らすなどという事はまずなかった。これが、現代西洋医学の実態なのだろう。血液検査、MRI/CT などの映像分析で、検査し、手術し、経過を見ながら、次の処置を考える。それは、新しい薬、より効果の強い薬の処方か、手術でしかない。その医師に命を預けるのが医療の実態だ。病院を頼るのではない、一人の医師に任せるしかない。 私は、今、2人の主治医に任せている。その現実で今日も生きている。こうした医療にすがるしか患者は手がない。副作用を停めるには、薬をやめる手しかないが、それは不安そのものだ。薬をやめたら、フラッシュバックがあるだろうから怖い。どうしようもなく、毎日、浮遊性めまい、倦怠感、味覚障害、股関節周辺部痛、息切れ、等々に覚悟して耐えるしかないのか。 「浮遊性めまい」でコンビニ駐車場で転倒2回。病院内通路で1回転倒。自宅では、抗がん剤点滴(月1度)の後1,2週間程度は自宅でしばしば転倒あり。しかし、点滴後3週目、4週目は、社会人生活を送ることが普通にできる。これが、現在の藤原茂の生き様である。神のみぞ知るわが命。自分でわかることは、命が命が少しずつ削られていく・いるという実感。毎朝起きる、痛みがあるたびに感じる。それこそ、生きている実感だ。 Last Meetingと称し、今一度お会いし思い出を語り合いたい方々と、できうる限り会いたいと決め行動し始めた。体調が許す範囲内での個人的な営みである。この行動をすることが、生きる元気・活気・生気を実感できる。ありがたい。まだまだ、お迎えは早い。どうせ向こうからやってくるのだから、こちとらから行く必要などさらさらない。 今回、私の体調をブログで吐露することが是か非か考えた。考えて、これまで躊躇してきた期間が少々長くなりすぎてきた。回りが少し、騒々しくなってきたように私には思えてきたので、案じて詮索していただくよりは、このブログを活用させて頂き、現状を私の言葉で正直にお伝手する方向を選択させて頂いた。 まだまだ、藤原は元気です。 お気遣いは感謝も仕上げますが、どうぞご心配なく達者でおりますとお伝えしたい。夢のみずうみ村相談役としてまだまだお役に立ちたい。だから、このメールをご覧いただき、事実を事実のまま受け止めて頂き、「人生の現役」である藤原茂の正味実態を承知して頂き、新体制になった夢のみずうみ村に御支援を賜りたい。 夢のみずうみ村は不滅だと信じて疑わない。正しい、素敵なサービスは、絶対に生き残れる。 藤原茂はしぶといです。よろしくお引き回しをお願い申し上げます。

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LAST Meeting 思い出作りの旅

表題に示しましたように、当面、向こう5年をかけ、本年73歳の現在から77歳まで、このMeetingを開始することにいたしました。我が人生でこれまでお会いした方々に、もう一度、思い出を手繰り寄せ、感謝の会話を交わしたいと決意いたしました。 お声がけをしながら、時間をかけ、山頭火のごとく、ぼちぼち、とぼとぼ、思い出に沿っておたずねしたいと、このブログで宣言させていただきます。

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熊本の内弟子の話 

夢のみずうみ村で働いて夢のみずうみ村の真髄を極めてくれた職員は内弟子である。夢のみずうみ村を離れていった内弟子もたくさんいる。そうした中に、ふとしたことで藤原に声をかけ、夢のみずうみ村を確かめるかのごとき働きかけをする者がいる。「子どもが生まれたからだっこしてくれませんか」。過去7人か8人くらいいあったと思う。力士ではないのだからと、申し上げるが、内心大喜びで大変ありがたくうれしく思いお子さんを抱っこさせてもらう。幸せのおすそ分けを頂いたといつも思う。 今回、熊本在住の吉山龍弥君から、抱っこしてほしいと連絡がきた。山口デイサービスで発達障がいの子どもの仕事をしてくれていた。その後、新潟の夢のみずうみ村に、親友の東郷先生が併設で開業したクリニックに作業療法士として転勤してもらった。ところが、それから先、彼からの突然の抱っこの電話。 彼は、今、BLANCO ICE CREAM を経営している。障がい者の働き場にしたいと、故郷で開業した。ぜひ、このブログにアプローチした方は覗いてほしい。彼が、自分の夢のみずうみ村を目指したい作れるといいなと思っていると語った。すごいなあと思ったのである。必ず、発展してくれることを願っている。 実は、山口コメディカル学院の作業療法学科教員時代に「サンダ」と名付けた教え子三人が、そろいもそろって子どもが生まれたから抱っこしてといわれた、内弟子以外の抱っこ歴もあるのだ。皆、元気に幸せに、親の言いなりでは無論なく、自分に納得いく、自分の人生をしっかり歩んでくれたらうれしい限りだ。

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夢のみずうみ村物語 その37 夢のみずうみ誕生秘話⑩

職員採用原則 いやそんなものあるのか 職員の採用原則って言うようなものがありますか、と質問があることがある。そういうものはない 採用はいいことか悪いことか、どうも理事長決済のようになってしまっていて藤原が面接することが多い。施設長はいつのころからか、山口コ・メディカル学院でコンビを組んできた理学療法学科長 吉村静馬氏の細君と決めていた。少しの期間山口リハビリテーション病院で一緒に働いていたのであるがそのときは詳しく知らなかった。 吉村夫妻が関西の重度心身障害児施設で知り合われ結婚され、そこに長年勤務されていたという事実が私をして適任であると思わせたのだ。なぜなら、当時の重度身体障害児施設は労働力不足で猫の手も借りたいほどの激務であったのだ。そういうところに務まるヒト、飛び込むヒトはすごいヒトなのである。 介護主任のK君とは萩子供クラブで長年ボランティアを共に行ってきた二十年来になろうとする間柄となった。 独身時代から、毎月第2と第4日曜日に養護学校に来て、一日ないしは半日、障害児の感覚統合サーキット訓練をするのである。電気工事の力仕事とはあまりのいかけ離れているのに彼は時間の都合がつけば参加し男手が少ないスタッフの中で力を発揮してくれたのである。村を作る際に、早々と彼に声をかけた次第である。 介護のHさんとは、娘さんのリハビリを通しての間柄である。脳性まひであった長女のJさんのリハビリを担当させていただいただけであったが、同じく、N君のお母さんといつも一緒に夢のみずうみの初期の活動に時々顔を出していた。それが、Jさんがなくなられて、夢の湖が実際にこうして施設を作る段になって就職していただくことになったことはJさんが引き合わせたに違いないのです。今年、支援費事業で脳性まひの子どもたちや、Jさんと同級であった子どもたちが村に通ってくるようになって、彼女は身体障害者・児童・知的デイサービスのスタッフの責任者に成長しているのである。 Hさんは、建築の打ち合わせに出向いた浜村工務店さんの細君からボソッと口走られた。「いい人がいるんだけど」 (編注:2001年当時の話です)

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おーっつ! 夢のみずうみ村がここにある

20年前に創設した夢のみずうみ村の当時の職員に語った資料がCDを整理したら出てきた。CDを起こして、順次「夢のみずうみ村誕生秘話」としてブログにのせております。古い1996年物は、夢のみずうみ村運動を起こそうとして、当時勤めていた山口コメディカル学院作業療法学科長時代のボランティア活動の中で育まれた「夢のみずうみ村」芽生えの原稿です。探せば、もっと出てくるかもしれませんが、それは「ワープロ時代」(知らない若者も多いことでしょう)の「フロッピー」に保存されている原稿です。 そこまで戻らなくても、2000年に入ったCDがいくつか出てきて、それらの中から、順次、公開をさせて頂いております。防府デイサービスの徳本君が、その任に当たってくれています。私が文面に使ったスライド(写真)が、そのまま貼り付けようとすると、空白になってしまうのです。それを逐一修正し、手間暇をかけ、ボランティアでこの作業をこなしてくれています。感謝です。ありがとう、徳本君。 これらの原稿を「夢のみずうみ村原典」と命名します。 夢のみずうみ村の思想、介護保険のリハビリ前置主義と開設時厚労省が叫ばれていた思想そのものだと改めて読み直して実感します。 その具体的手法、介護の理念、リハビリの介護保険での適用手法、通所事業の在り様を、事細かく、具体的に書き述べていると実感します。自画自賛すれば世話はないと揶揄されても一向にかまわないと思います。自分に驚いているからに他なりません。よくぞ、あんなことを書いていたなあ、と思うのです。20年過ぎても、その根本のHow To,理念は全く変わっていないことの証がこの原典に掛かれていると思うのです。読み直しながら、修正しようとしましたが、手がはいらずじまいでおります。 先日、北海道札幌のオイラーク社が運営しておられる「夢のみずうみ村てんやわんや」と、新潟にある「夢のみずうみ村新潟」、山形県米沢にある「夢のみずうみ村スマイル」に伺う機会を得ました。 施設に入った瞬間、「おーっつ! 夢のみずうみ村がここにある」と叫びました。 一緒にいた先方のスタッフたちも、「なぜ藤原がそんなことを叫ぶのだ?」と不思議に思われたかもしれません。本家では夢のみずうみ村が変化しております(夢のみずうみ村の本家という言い方は、失礼かもしれません。仲間のFCの施設と区分して表現する際に「本家」と呼ばせていただいております)。 私は、ただうれしかった。これらの施設では、まったくと言っていいくらいに開設した当時と「環境の仕掛け」が変貌していないのです。ときどき、本家に行くと、環境の仕掛けが全く変わっていたりして脚が立ちすくみます。変化することを批評しているものではありません。本家では、藤原体制から、新しい宮本・片山体制に変わり、介護保険の厳しい展開に対応すべく、苦心し葛藤してくれています。それはそれで、肯定すべきだと理解したうえで、あえてこうして書いております。 そういった背景にある現状下で、それぞれ3施設に一歩足を踏み入れた途端、十数年も、変わらず、そこに、夢のみずうみ村があり、利用者さんがコロナ禍であるにも関わらず、しっかりご利用されており、スマイルでは「3人もの自立卒業を生み出しました」と報告あり。新潟夢のみずうみ村は、大規模夢のみずうみ村として、最後の設計建築開設でありながら、全く古くなく、さん然と各コーナーが存在感を打っててくれていました。見事というしかないのです。オイラークは、むしろ、脱夢のみずうみ村という発想で挑戦的な大規模デイを展開されています。 そもそも、環境の仕掛けの中味は、 「雑多である」 「居間台所感覚であり、応接間感覚ではない」 「One Step One Goods」 がそこに、明確に存在しているのです。 通所施設は、日帰り施設だからです。利用者さんの生活主体はご自宅にある。ご自宅の環境の中で、生活動作の修復回復を図ってその日一日終わって帰っていかれる施設が通所施設です。自宅に添った環境でなくてはならないというのは絶対原理原則。たまに、気分転換で、別の環境において生活動作の習得をしたいのなら、たまに行う遠足みたいに環境変化体験をすればいい。外出訓練、特別メニューなど工夫すればいろいろできる。デイサービスは、家庭環境を模したものでなければならない、その信念は揺らいではならない。 私が常時そばについて見守って差し上げたわけではないのに、むしろ、全く、無責任にもほったらかしではないかとご批判を受けても反論できないのに、そこに、しっかり、夢のみずうみ村が存在していたのです。現場のスタッフ、管理者・経営陣の志しがそこに見て取れる。ただ、ただ、感謝と感動しかないのです。 夢のみずうみ村は、とっくに、藤原個人の手から離れ、社会に存在し根付いていることを実感させられた事実があった。そのことを記しておきたかった。

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夢のみずうみ村物語 その36 夢のみずうみ誕生秘話⑨

電柱(夢の柱)を本丸に埋め込んだ 本丸の中央に電柱が立っています。見かけは天井とくっついているようですが実際は3メートルも彫って埋めてあります。もともと、その位置、建物の中央部分には樹木を植えたいと思っておりました。 しかし、友人の樹木医から、園芸療法を実践している施設が植物を泣かせいためることはやめなさい、光が当たらない建物の中央におくとは何事! という指摘でした。「植物を泣かせるな」という言葉は印象的でした。すぐに取りやめましたが 掘った穴の大きいこと しばらくは水が溜まったままでした。 もともと植物を植えようと思ったのは、岩手県盛岡市にある知的障害者施設「いきいき牧場」に伺って施設を拝見したときの感動がベースにありました。宮沢賢治の童話の世界をテーマにした施設作りは感動でした。街角広場のような感じの広い講堂のような場所のイメージが頭にこびりついてそれでふとわが村のその穴に電柱を建てようということになったのです。電柱の電燈は昔風の紐で引っ張る円形のかさがついたものです。それがもう売っていないのです。 「すこし前に言ってくれたら捨てた電灯があったのに惜しいことをした」 電気工事を担当していただいた吉村電気社長の一言。結局あちこちに手配していただき手に入れたのです。 さて、その電柱の使い道です。「夢の柱」にしました。自分の夢をほかの方に公開し、その夢のために努力するということに役立とうという柱です。短冊に自分の夢や好きなことを書いていただいて糊で貼り付けるというものです。初期のころには何人かの方に書いていただいておりますが最近は意識されていません。ぜひ来村の折には紙に書き出していただき貼ってほしいものです。

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夢のみずうみ村物語 その35 夢のみずうみ誕生秘話⑧

合掌造りにこだわったよ 個人的には 、二十年近く前に萩市で障害児をもたれた親たちとお互いお金を出し合って無認可作業所を作りました。そのとき、友人の浜村工務店さんに頼んで合掌造りの建物にしました。合掌造りはお金ができた段階で作り足しができるというのです。三角に木を組み伸ばしたいだけ単純に足していけばおおきくなるのです。 今回は、柱に手が届く鴨居のような感じで合掌造りでの和風建築を作りたいという意図でした。と同時に、お金がないのでそれしか考えられなかったという点もありました。 浜村工務店の作業場に理事の5・6名が集まり自分たちで柱のペンキ塗りを始めました。四方を順に塗っていくのですが、素人のなせる業です濃淡がくっきり出るのです。手形が残ったり、足跡がついたり。素人ペンキ屋は手作りであることを証明するために意図してまずく縫ったといわんばかりの傑作物でした。今でも、本丸の柱をじっくり見るとすぐに足跡がしのばれます

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夢のみずうみ村物語 その34 夢のみずうみ誕生秘話⑦

温室物語(温室のできるまで) 園芸療法のメッカにしたいという思いはずっとありましたので温室をどうしても作りたいと念じていました。しかし、資金です。 温室は、一年中植物を供給するために不可欠でした。そこに、「がんばれNPO」というチラシが目に入りました。雑誌の中であったか、インターネットなのか今では記憶が定かではないのですが、NPOに最高200万円助成しましょうという話です。思わず飛びつきました。日本財団をはじめとする大きな助成金を援助していただく組織は、社会福祉法人には支援額が大きいのですが、資金難のNPO法人にはせいぜい車両購入支援額が大きい支援額の対象でありまして、施設整備等の女性は皆無でした。ですから、200万の支援額を見たら何とかしていただきたいと必死に申請書を書きなぐりました。 がんばれNPO財団から調査のために来村されました。本当にここは大丈夫な施設かということでしょう。一般にNPOの問題点は設立が容易であると同時に解散も容易ということで信頼性にかけるのが弱点です。社会福祉法人は基本資産があるので大丈夫であるという見方になるのでしょう。わが村の基本財産は14万少々でした。設立当時の銀行預金がそれしかなかったからです。これでは信用してもらおうというのが無理かもしれません。がんばれNPO財団では園芸療法のメッカにしたいという意図を汲んでいただき、温室建設費200万の支援をいただきました。銀行から借金する場合においても、こうした公的な団体から支援があるという事実が大事ということを学びました。

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