夢のみずうみ村浦安 開村式のお話
6月26日 夢のみずうみ村浦安「開村式」が行われた。その模様をブログにのせようと書き出したのだが、忙しいので書く時間が取れない。おまけに、書きだしたら、あれもこれも書きたくなり、いつまでも完成しない。かろうじて、大まかな話だけは書き上げたので2か月遅れで掲載する。
当日は録音していたわけではないので、私の記憶だけが頼りの内容である。ご来賓の方々の祝辞を私が思い起こして書かせて頂いた。文責はすべて私にあることを前もってお断りしておきたい。
「開村式」を仰々しいものにしたくなかった。みんなで語り合う和やかな会にしようと前から決めていたので、深くは考えずその日は来た。
首都圏での夢のみずうみ村が浦安の地に決まり、開設に至るまで、多くの方々を私の荒波に誘い込み、ご心配やご迷惑をずいぶんとおかけした。本当に厚いご支援をたくさんの方々よりいただいて完成にこぎつけたから、何としてもその方々と一緒に喜びを分かち合いたかった。しかも、名だたる方々から、町の和菓子屋の女将にいたるまで、登場人物は多分野多彩な方々である。
いつものように、式の打ち合わせという特別なものは一切なく、司会を私がやることくらいを事前に宣言していた程度。当然そうなるだろうと周囲も思っていた節がある。
いざ式典の時間が近づくと、芸人を自称する私も気持ちの切り替えが必要となる。計算はしていないが、臆病者なのである。「会場の雰囲気が今一つだなあ」と開始直前に気付き、あわてて「式次第」をホワイトボードに書く。模造紙などにあらかじめ書き出してあるのが通常であろう。
前日まで、開所式は大会議室で行うつもりでいた。紅白幕でめでたい雰囲気をつくるのに格好の場所だと思っていた。前々日になって、便利屋さんあたりに借りようとしたが、らちが明かない。あちこち伺いの電話を掛けるが、急なことでどこからも借りられない。人数分取り揃った椅子を並べて式典らしくしようとなると、折り畳み机や椅子も数が足りない。式典会場の厳かな雰囲気は到底出せない。しまった。どうしようもない。早くから準備しておけばいいのに、いつものいい加減さだ。そこで、急きょ、会場変更。いかにも夢のみずうみ村らしいと、勝手に納得するに至っては、何をかいわんやと、お叱りを受けるかもしれない。
「丸の内」と名付けた、施設内の「広場」に会場変更。施設で利用者さんに使用していただく予定の不揃いの椅子200個を使うことにした。どうしても、この椅子は最初使うつもりはなかった。なぜなら、家庭的過ぎて、式典というイメージにふさわしくないと、変な理屈が頭を支配していたからである。
夢のみずうみ村で使う大半の家具等は、千葉県内の中古の店を買いあさって集めたバラバラのものである。当然、調和のとれた式典会場の雰囲気になじまない。厳粛な会場になぜ私はこだわったのだろう、浅はかであった。「夢のみずうみ村」らしさは家庭的雰囲気そのものである。何を悩むのか、会場はそこにあるではないか。にぎにぎしい、不揃いの、ごみごみした会場が、開所式典会場にふさわしい。家庭的な居間・台所感覚の式典会場こそ、我が夢のみずうみ村らしい、和やかな雰囲気を醸し出す会場ではないか。なぜ、仰々しい式典会場というイメージを抱いたのか。それにどうしてすぐ気付かなかったか。自分でも不思議であった。紅白幕などない方がいい。この生身の夢のみずうみがあれば十分だ。そう思えた。万事がこうだ。きちんと決めた時ほどあまりぱっとしない。いい加減が似合うのが夢のみずうみだ。いや藤原だ。スタッフはきちんと準備万端構えていてくれたのだ。
自称芸人の私が、司会進行役。マイクを握る。いよいよ開式だ。いかん、涙が出そうだ。やっと開所にこぎつけたのだ。つばを飲み込む、せき込む。絶句。いかん、いかん。泣いてはいかん。まだ始まっていない。声を張り上げた。
「やっと、首都圏に夢のみずうみ村を開所することができました-ぁ!」
大勢の皆さんの前で第一声。
なんだか身体が軽くなった。極楽感覚。準備に忙しすぎたスタッフも、裏方にいる者を除いて、来賓の皆様方の後ろのほうで直立している。同じ思いなのだろう。皆が涙をこらえているように見えた。そう感じたら、また涙が止まらなくなった。よく、今日の日までにこじつけた。みんなよくやった。嬉しさが湧き出す。スタッフの顔を見ながら徐々に涙が沈めるのに時間を要した。
「なぜ、夢のみずうみ村が浦安に登場することになったか。本日ここに、お集まりいただいた方々からお話を承りたいと存じます」
最初の語り口はぎこちないと思ったが、話を切り出すと、芸人魂が騒ぎ出した。
これまで、資金調達で苦心苦労したし、約2か月近くの「床張り」と「ペンキ塗り」作業でスタッフも私も身体を酷使した。その挙句の開所式。いつできるか、本当にできるだろうかと案じていたものが、まさに始まった瞬間。至福の時であった。
来客者の一番手は、どうしても、この方に話してほしかった。「必ず出席します」と電話で伺ってはいた。しかし、激動する政治情勢の中枢にいる方だから、急に来られなくなっても仕方ないと覚悟もしていた。
いつもの、にこやかな顔が玄関先に見えたときは本当に嬉しかった。山崎史郎さんである。首都圏に夢のみずうみ村を作るべきだと、声を発したのがこの人だった。厚生労働省でミスター介護保険といわれた山崎史郎さん。現内閣府総理首席秘書官である。この方との出会いがなければ、夢のみずうみ村の今日はなかった。
山崎さんは、まず褒めてくださった。山口の施設をご覧になった時の感動話に始まり、これを日本全国に作るべきだと感じたと率直に話され、介護保険の質を高めることにこの施設が首都圏にできた意義は大きいと力説された。
思えば、平成18年の介護保険改正の直後、大幅赤字で苦しんでいた我が施設に、突然、山崎さんは見学に来られた。素早い足であちこちを見学。「いいねえ」「うん、いい」と何度も独り言のように随所でもれる一言。「防府市にも施設がある」と話すと、「そこも見たい」といわれ、急きょ、私が運転する「夢のみずうみ送迎車」で移動することとなった。移動に40分かかる車中で、山崎さんは、手あたりしだいに携帯電話を掛けまくられた(山崎コールと勝手に名付けた)。介護保険にかかわる重鎮の方々に、やや興奮気味の早口。電話口で聞かされている方々には、山崎さんの真意が今一つ伝わりにくかったのだろうか。「とにかくすぐに見に来なくてはだめ」とピシャリ。どなたにもその一言の連発であった。
この山崎コールがきっかけで、厚労省の方々はもとより、実に多くの介護保険関係者の、それも重鎮の方々が来所された。皆さんが、異口同音に「目からウロコ」とおっしゃった。今日の夢のみずうみ村のすべての始まりである。
(ちなみに、山崎さんが、山口デイサービスを朝から昼のバイキングまでを見学され、移動して、防府デイサービスに向かい、3時のカジノや4時のお見送りリハビリまでの一連を見学された日程を、以後、「見学フルコース」と呼んでいる。多くの方々がフルコースを堪能?しておられる)
資金繰りの苦労話がある。できない銀行の資金調達が暗礁に乗り上げ、融資OKだと思っていたM銀行から融資無理の一報が来た。「国からの何らかの支援がなければ融資が難しい」「介護保険事業やNPOに融資することは銀行としての実績がない」と告げられた。大銀行ならではの、あっさりとした融資困難宣告。すぐに、知り合いを通してR銀行本店に資金調達願い。並行して、必死に資料を作り、頭をひねり、どうしてもすがりたかったY銀行をはじめ、関係筋を手当たり次第に訪ね歩いた。それまでなんとなくいい感じだと一方的に思っていた銀行筋から、ことごとく、実にあっさりと断られていった。今にして思えば、当然である。これまで、首都圏に夢のみずうみ村建設と、誰彼となく声高に語っていただけに、実現不可能という目の前の現実は、私の存在否定(ほら吹き男)につながるような衝撃を感じて落ち込んだ。
あちこちの銀行に、手当たり次第門をたたいていた冬のある日。山崎さんから携帯に電話が入った。その時、私は、夢のみずうみ村主催の講演会(この収益が職員の賞与資金に回る)のために、全国行脚の講演会をしており、ちょうどその日は札幌に出向いていた。札幌に行くと必ず出向くラーメン横丁の「ひぐまラーメン」に行こうとしていたタクシーの中であった。
電話は25分くらい続いたと思う。「勝手に、藤原一人で悩むな。なぜ、もっと、私やみんなに相談しないか。名案をもっと考えようとしているのに、君が勝手に動いてしまっては、元の子もない。勝手にしなさい」すさまじいお怒りの電話であった。
「勝手にはしません。山崎さんの思いと私の思いは一致しています」と叫ぶのだが、山崎さんの話の勢いは一向に収まらない。何とか思いを伝えようとするが、山崎さんの強い口調は私を徐々に黙らせた。
「とにかく、夢のみずうみ村を全国に作るのだ。山口県もいいが、首都圏で多くの人に示すのだ。そのために、どうしたらいいか考えているのだ。わかるか君。人の輪、力を結集しよう。一人で悩むな。右往左往するな。足元をしっかり見ろ。一緒に考えていこう」。そういう話であった。力強い声と内容であったが、小雪吹く中、心細くなっていた。
電話口で、その声を聞き漏らすまいと必死に思っていた。15分くらい、すさまじい山崎節が続いた後、やっと落ち着いて聞けるような感じになり、最後に「大島に言っておくから、よく話し合うようにね」とソフトに静かに電話は切れた。エイペックで、菅総理が韓国から帰国された夜、零時過ぎの話である。ありがたくて涙があふれた。
それから、5分もしないうちに大島一博現内閣官房長官秘書官から電話が来た。
「山崎さんに叱られたんだって?」。やさしい声だった。
山崎さんは、忙しくても、やはり、ちゃんと、しかもすぐに、大島さんに電話してくれていたのだ。そこにもまた感激。
「忙しいのに、僕みたいなものに20分以上も時間を割いてもらったことがうれしいですよ」と、素直に感じ、大島さんに語る。大島さんは官房長官秘書官なのだ。忙しいご両人なのに有り難い。
「夢のみずうみ村をね。日本全国に作りたいと思っているからだよ、山崎さんも僕も」と、大島さん。
どっと涙が出てきた。山崎さん、大島さんという、重責にある主要官僚が、一介の施設経営者である私に、夜の夜中、くそ忙しい政務の合間に、長々と一声かけ、支え、励まして頂いたのである。このエピソードを式典会場では、手短かに紹介し、大島一博内閣官房長官秘書官にマイクを向けた。
いつもの、穏やかな声で完成までこじつけた労をまずねぎらってくださった。設立までの暗中模索状態の中、夢のみずうみ村設立のためのいろいろな経緯や、夢のみずうみ村をなぜ全国に広げたいと感じたかという話をされた。高齢者の自立を目指すことを忠実に展開していることが素晴らしいのだ、しかも首都圏にできた意義が大きいと。日本の介護保険制度、とりわけ、通所施設の質を高めるために、この夢のみずうみは発展すべきだ。
「日本の介護保険を発展させようよ。ね」。結びの大島さんのこの一言は私たちを奮い立たせて頂いた。今日の日を迎えるまでに、何回かご足労願って打ち合わせしたり、携帯電話に留守電を残しておいて、大島さんから電話いただいたりした。電話するたびに、心があらわれ、困惑し、苦悩していた自分に元気をよみがえらせて頂いた。感謝いっぱいで話に聞き入っていた。
話の3番手は、松崎浦安市長の登場である。東日本震災で液状化の大被害に見舞われた市長は防災服のまま施設に来られた。
紹介のまくらとして、浦安市の広報に事前にのった話や、福祉自治体ネットワークの菅原事務局長にご紹介いただいた話などを紹介した。首都圏に夢のみずうみ村をつくるといっても、なぜ浦安市なのかという疑問にお答えしておこうと思ったのだが、市長はすべて語っていただいた。
私が出演したNHK「プロフェッショナル」のDVDを「素敵な介護施設です。見てください」と菅原事務局長から渡されていた話から入られた。DVDをもらうことはよくあることなので、またいつものやつかと隅にほって置いた。ところが、事務局長から、「どうでした?」と聞かれ、後日あわてて探し出して見た。「目から鱗だった」と。すぐに山口に見学に行き、これを浦安に作りたいと思ったことを昨日のことのように語られた。
(市長は4選目の選挙を迎えられたが)選挙公約(マニフェスト)に、「夢のみずうみ村をつくる」と高々と掲げた話(見事4選を果たされた)。国から支援を受け、誘致できると思ったが、できないとわかって何とかしようと苦心した話。市からは資金的支援はできないが、その発想、中味をぜひ、浦安市で実践していってほしいと願って、藤原理事長と苦心したが、その甲斐があったと、情熱的に語っていただいた。市長さんが、山口県の安倍晋太郎先生(安倍信三元総理のお父さん)にそっくりなので、私は初対面から、実に親しみやすさを覚え、ずいぶんと市長室に気安く通させて頂いた。「困り果てたら、私のところに来てください。一緒に悩みましょう」とおっしゃっていただいた言葉が深く心に残った。これほどの人間的な首長さんの所(浦安市)には、必ず夢のみずうみ村は生まれると、市役所を去る車中で最初に訪問した折から感じていた。いつも、ありがたいことに、公用車で、石田秘書課長(当時)さんが浦安駅まで送ってくださった。松崎市長と語り合った話の余韻を車中で再確認しながら、浦安に夢のみずうみ村を必ず作ると決意を強めていった気がする。
私は、満を持して、池田省三龍谷大学教授(現在退任)に登場願った。大腸がんに罹患したことを公開されていた。周囲の誰もが、先生の介護保険に関する英知をさらに余すところなく結集していただきたいと懇願して出版された書籍「介護保険論-福祉の解体と再生-(中央法規出版)」の出版記念会でお会いして以来である。
池田先生とのつながりは衝撃的であった。平成18年度の介護保険改正時に、大規模減算(大規模施設はスケールメリットがあるとの理由で、通所施設の月間の総利用者数が900人を超える施設は、その介護保険収入の1割をカットするという厚労省の通知)を行い、夢のみずうみ村が、経営的に傾いた責任は私にあるとまでおっしゃった。ところが、山崎コールに反応され、山口のデイサービスに早々に来られた。
「高齢者の自立を目指す通所介護施設はまさにこれだ」と感じ、以後、私は罪滅ぼしに全国いろいろなところで夢のみずうみ村の紹介をさせてもらっていますとおっしゃった。
自立を引き出すことこそ、人間が生きている尊厳にかかわる最重要課題であるとの重い発言であった。
社会保障審議会介護保険給付費分科会委員長であり、東京大学名誉教授である、大森彌先生も来られた。難しい問題を気さくに、わかりやすく、丁寧に、かつ人間臭く語っていただくことが素敵であるという私の「先生の印象」を前置きとして紹介させていただき、マイクをお渡しした。以前、「勉強のために見学に来ました」とおっしゃり、宮島老健局長とご一緒に施設見学され、夕方の利用者さんお見送り場面では、タイタニックラインと私が名づけた手ふり送迎の坂道で、お二人が並んで送迎車に手を振っていただいた写真が今でも村の宝である。
介護保険の質を高めることと経営をいかに両立させるかが問われますとズバリ。介護保険財政の安定化に資するようなものであり、サービスの質をますます高めていくことが肝要だとまず強調された。次いで、以前見学に来た時の利用者さんの顔つきにまず驚いた話。水先案内人と呼ばれる利用者さんが施設内を案内され、藤原は登場しないという楽しさ。ユーメという施設内通貨という発想、などなど。ユーモアたっぷりにお話しいただいた。
次に福祉ジャーナリスト村田幸子さんにお願いした。NHKのアナウンサー時代から勝手に存じ上げていた。生涯教育である江戸川大学の教授でもあり、3回ほど大学の教壇に立たせて頂いたが、同校の多くの学生さんが、ボランティアとして、浦安の施設の床張り、ペンキ塗り、家具の組み立て作業にご尽力いただいた。当日も、何名かの方がご出席いただいた。山口の夢のみずうみ村に見学に行って、夢のみずうみ村のファンクラブの一員になったと口火を切られた。ラジオ深夜便で「夢のみずうみ村物語」を紹介された話、人生の現役を養成していこうという試みが素敵であり、首都圏にできたことで、さらに多くの人たちに、この素敵な場所が知られていくことがうれしいと話された。村田さんのラジオ番組では、その後も何度か夢のみずうみ村のご紹介をいただいている。その反響は、放送翌日から問い合わせの電話が殺到するので、すぐに放送があったことが知れるのである。
市長の話に登場していただいた福祉自治体ネットワークの菅原弘子事務局長にマイクを向けた。「感無量ですね。」という言葉から話は始まった。この方が、いらっしゃらなかったら、夢のみずうみ村浦安は全くこの世にない。市ヶ谷にある福祉自治体ネットワークの事務局に何度も出向き、話し合いや、検討や報告の会合を重ねた。その都度、菅原事務局長は嫌な顔一つせず、熱心に、いろんな人たちとの難しい間を取り持っていただいたり、黙って見守っていただいたりした。スパッと、切れ味鋭く「やめた方がいいですよ」「それがいいですよ」と、判断が鈍る私に声掛けしていただいた。それがありがたかった。
山崎コールがあって、夢のみずうみ村に見学に行った話。大規模減算の影響で夢のみずうみが苦しんでいるのを見て、何とか安定化を果たさなくてはいけないが、藤原さん一人の力では限界がある。もっと、周囲の力を生かして運営を安定化させることが重要だと感じたと。浦安市の松崎市長さんは福祉政策に熱心に取り組まれている首長さんなので、夢のみずうみ村を知っていただいたら、必ずやってみようと即断されると感じて,NHKプロフェッショナルのDVDをお渡ししたと話された。
夢のみずうみ村浦安の土地と建物は、元ビクターの工場の跡地であり、地主は株式会社山崎商事さんである。会長の山崎登さんには、どうしても一言お話ししていただきたかった。施設の玄関前に掲げてある「人生の現役養成道場」の看板を直筆で書いていただいた。素敵な筆である。書いていただくまでのエピソードをさらっと紹介しお話しいただくことにした。
建物を壊すことなく改装していただいて活用していただくことがありがたい。しかも、松崎市長さんから、ぜひ素敵な施設なので作ってほしいといわれて、実際家族で山口の夢のみずうみ村に行ってみて、こういう素敵な施設がここで作っていただけるなら地主としても感謝したいと思ったと述べられた。店子としては、ありがたい言葉であり、長期間、夢のみずうみ村が発展していくことを誓いますと会場でも宣言させていただいた。
建築を担当していただいた、豊田工業の社長さんには、どうしても登場していただきたかった。「私はいいよ」とご遠慮されたが、この方のご尽力がなかったら、実質、首都圏に夢のみずうみ村はできなかった。
こうして、開村式の報告を読んでおられてお気づきと思うが、「この方がいらっしゃらなかったらできなかった」、という方々ばかりである。本当にそうだからそういうしかない。
みなさんの前で感謝の気持ちを表したかった。社長は浦安市内を、ご自分で運転する軽自動車であちこち回られる。腰の低い、謙虚そのものの社長である。社員がいかに素敵であるかがうかがい知れる。実際に素敵な現場監督、主任の皆さんであったと正直に私は会場で伝えた。素人集団である、我々職員や、ボランティアが、ヘルメットをかぶり、現場に入って、床張り、ペンキ塗りをすることを許して頂いた。おそらく、事故を起こしては大変であるにもかかわらず、神経を相当使われたのではあるまいか。現場管理者の石井さん、現場主任の大江さんに感謝を述べさせていただいた。
開所式に記念品として熊本の手作りうちわを用意したのであるが、それが当日間に合わないという不手際も、実に夢のみずうみ村らしい不始末であった。引き続き、懇親会を村で開いたのであるが、その料理もすぐには間に合わずあたふたした。ドタバタが夢のみずうみ村だと言い訳めいたことはしたくなかったが、やはりそうなった。情けない。
総勢210名ぐらいであったと思われるご来賓の方々に十分なご挨拶もできず、大変失礼をした。この場を借りてもお詫び申し上げておきたい。
会場でご祝辞をいただけなかったが、実に多くの関係者の方々から励ましをいただいた。ありがとうございました。
夢のみずうみ村は、こうして日本全国に発進する第一歩を刻みました。