1+1-4は-2 

写真を撮る際に カメラマンが叫ぶ 「イチ(1)たすイチ(1)は?」と。撮られる側は、一斉に「ニー(2)!」と答える。いつごろからはじまった口上のだろう。「ニー(2)」と答える口元が、かわいらしいとか、愛らしい顔立ちになるとか、いろいろ聞いた。硬い表情が崩れることは実に素敵なことだ。

ちょっと話は変わるが、昨日から、明日まで、第4回上田法多職種認定講習会を浦安デイサービスセンターで開催している。その最中の昨日の朝、甥っ子で、脳性麻痺の平井裕太が亡くなった。重度ではあったが、母親(義理の妹)がしっかり訓練してきたおかげで、長生きをしてくれたと私は感謝している。ずいぶん、訓練した。ボバース法、ボイタ法、そして、私が上田法のインストラクターになってからは、上田法の訓練をしてきた。無念にも亡くなった父親(義弟)に裕太は似ていて、遊具を手で触ってにっこりしてくれた顔を私はいつも思い出す。ひげ面になっても、あの顔が私の頭から離れない。なぜなら、日本作業療法士協会が編集した「脳性麻痺」というビデオに、裕太が写っていて、それを授業で使って見るたびに、幼い裕太がよみがえってくる経験を重ねたからだろうと思っている。裕太がなくなっても講習会を主催する私は、明日の閉講式が終わる迄身動きできない。お通夜に参列できそうだ。

全く、無関係のような裕太の話かもしれないが、この講習会の中で、思わぬ出来事が偶然、ふと私の口から洩れた。それは、上田法講習会参加者の集合写真を恒例により、表玄関前で撮影する際の話だ。夢のみずうみ村の職員、井上君がカメラマン役で、「はいチーズ」と言ってシャッターを切った。その瞬間は何も思わなかった。いつも通り、誰かれとなく、そう大きくもない声で「ニー(2)」と答えた。

その後、施設内の部屋に戻って、グループ別の集合写真を上田法国際インストラクターの水上君がとり始めた。彼が「1+1は?」と、メンバー全員に尋ねる。一同、「2」と答える。さて、次のグループに移って写真を取ろうとした彼の姿を見ていた私の口から、なんということか自然に言葉が漏れた。

「イチ(1) 足す イチ(1) 引く ヨン(4)は?」

一同が 「マイナス ニー(2)」と答える。 素晴らしい。「ニー」と返事しているのだ。ただし、その前に、マイナスをつけている。それが却って、口の動きを滑らかにしていいのではないかと思った。

単純に「1+1は?」「2」で答えるのとどこが違うのだろう。

私は今、ここに、メールを残しておこう。「1+1-4は?」という、写真を写る際の掛け声を発祥させたと宣言したいと思い、ここに書き記す。裕太が亡くなったからだ。裕太が亡くなった記念に私は、これを日本中に広まることを願いたい。広めてほしい。裕太がどういう人間で、どういう生きざまをしたが誰も知らなくていい。ただ、「1+1-4」は 裕太の亡くなった日の翌日に生まれた。裕太の死をしっかり、自分のものとしておきたいがゆえに、叔父の私は、このメールをしたためた。

いつの日か、日本どこかで、いや、どこでも、「1+1―4は?」「マイナス2」が広がっていくこととを信じている。裕太の生きてきたこと、亡くなったメモリアルとして、「1+1―4は?」「マイナス2」をこのブログに記しておきたい。このフレーズは、平井裕太と藤原茂の合作である。

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真っ黒な手帳

私のシステム手帳を除いた人は驚く。「これ? わかるのですか?」と聞かれる。その日の予定は、ボールペン、黒、赤、青サインペンが入り乱れ、最初は細かく書き込んだ予定が、ボールペンで横殴りで消されたり、〇で囲んだり、星印、米印がついたり、その上を、赤サインペンで覆ったり。これらの隙間を縫って、青サインペンで、ちょこっと、時間や、予定が入り込んだり。これぞ困ったというように、黒サインペンがそこいらを覆いつくしたり。それでも、どうしようもない日程が入り込むと、太赤サインペンが席巻して、覆い尽くしたり、隣のページまで入り込んだりする。書いた字を自分でも読めなくなったり、間違えたりすることもしばしば。スマートに、電子手帳や、携帯電話でスケジュール管理してはどうかというアドバイスを何度も受けた。しかし、このシステム手帳、すでに2代目であり、10年近くは使い込んだと思うが、これがいいのだ。重たいのがいい。ぐちゃぐちゃ・まっ黒けがいい。一目で、「今週は忙しい」「この辺りはまだ少し暇」とわかる。真っ白であれば、何も予定がない。来年3月末日までがすぐ見える。過ぎ去った日々を、この手帳の汚れ具合でいとおしむ。「ようがんばたなあ」と、自分に声掛けできる。これが、電子手帳だと、さっと、消えたり、流れてしまって味気ないどころかだ。まさに光陰矢のごとしで面白くない。私の日々は、過ぎ去っても、まだ、この手帳の中に残っている。だから、この手帳は離せない。常に、身の回りにおいている。スタッフはよく知っているが、この手帳をあちこち置き忘れ、慌てふためく。情けない。2日前小倉のホテル。一昨日、浦安の自宅。昨夜、ここ沖縄のホテル。どこに、自分は今いるのかすら手帳を見ないとわからないこともしばしば起きる。手帳は我が身である。3月下旬まで真っ黒だ。

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23年末から24年始、早々の出来事

この、ブログを書き出したのは年末30日だった。いまこれを書いている今日、1月19日。やっと、公開できる。浦安、長久手、高浜と移動し、沖縄に向かう機内だ。明日は八王子だ。相変わらずの毎日である。

 私は、書くことが好きだ。このブログは、私の生き様であり、私自身の内部、感性を知っていただくことにつながると思って書いてみようと覚悟していつも書く。私は、個性が強く、豪気に見えるかもしれない。身勝手で、自由奔放で、我がままで、いい加減・・・という印象を持たれる方も多いのではあるまいか。顔がああいう顔だし、声がでかいし、話すと自分の言いたいことを言いたくて止まらない。そういう点が誤解されるきっかけだと思う。私の血液型はA型である。私と付き合った方はそれに気づく。付き合いの浅い方は、「O型ですか」と聞かれ、事実を知って驚かれる型が実に多い。私はA型そのもの人間なのだ。自分で言うのは実に僭越だが、繊細なのだ。自分で言えば世話はない。誰にもわかってもらえないが、この歳になって、そんなことはどうでもいいと感じだした。自分で、自分にうまく付き合い始めたからだ。「自分」で、「まだ気づかない自分」に気付くことは面白く楽しい、感動ものである。62歳を過ぎ、63歳になるかどうかという頃から感じ始めた気がする。年を取ってしまったのだ。

 自白の話は、これくらいにして、今回の話題、年末年始の話を書こう。

  昨年末28日に、浦安デイサービスセンターの望年会(出席者28名)、浦安の、ホテルで行った。会の最中に、ディズニーランドで打ちあげた花火が見えたことが忘れられない出来事になった。29日は防府市で山口地区、防府地区の合同望年会。参加施設は、山口・防府デイサービスと3つの小規模多機能型施設、夢ハウス仁井令、夢ハウス湯田・夢ハウス丸山、および、就労支援事業所「夢結び」の職員と、社会福祉法人理事や評議員の方々で、総勢149名。多くのスタッフが、夢のみずうみ村づくりに参加しておられるという証である。恒例の5年勤続職員お表彰を壇上で行った。今、本部で活躍してくれているメンバーや、システム部の二人ほか、重鎮が目白押しだった。夢のみずうみ村の5年は、おそらく密度の濃い年月なのだと顔ぶれを見ながら感じた。永年勤続表彰ほど素敵な機会はない。何人になろうと、私は、「以下同文・・」ではなく、おひとりお一人に、全文を読み上げて、感謝状をお渡ししたい。今年もそう思った。

  私はひねくれ者なので、正月を控えても、車の洗車、大掃除はあえてしない。元旦は、ここ3年、決まって本部事務所の個人の机の大掃除。元日恒例となった。1年間で最もゆっくりしている時間帯だ。自分のデスクの後ろの狭い空間に座り込む。部屋の暖房をつけ、背中からストーブ。山ほど積み重ねられた書類の整理。今年はビニール袋7個のごみ出し。何も元日にしなくてもといいではないか、声が聞こえる。普段は掃除をする意識が私にない。いや、前しか向いて走るしか意識していないのだろう、片づけようというちょっと立ち止まる時間を使わない性分なのだろう。昨年は元日と翌日の2日間かけた。今年は1日だけで終わった。それだけ、山口の本部デスクに座る機会が少なかった証だ。

 子どものころから、「使ったら元に戻しなさい。ただそれだけのことがなぜできないか」と母からしばしば叱られた。夜中、寝付く前、母が、私の机の中を見て、ごちゃごちゃ整理ができていないものだから、すべての引き出しの中味を机の上にさらけ出し、それをきれいにすべて仕舞いきるまで寝るな、と叱られる。冬の寒い時などは、寝間着もはだけてぶるぶる震えた。容赦ない。父や祖母が、明日でもいいではないか、朝でもいいではないかと一声かけてくれるが母の一声は絶対的だ。随分とこの机の整理はやらされた。其れなのに、この歳になっても一向に整理できない性分は治らない。「教育とは、本人が内面化して、自ら気づかない限り、いかなる働きかけも意味をなさない」。実体験からの定見である。一向にこの歳になるまで改善していないのだから。しかし、さすがに、この歳になると、意識が整理整頓に向くことが起きる。今年も、去年の元日からぴったり1年たっての整理整頓、清掃だ。 申し訳ないが、周囲は散らかし放題だ。だから、他のスタッフよりやや多めの空間を占拠している。おまけに浦安にも、初めて、理事長室という名の個室ができている。そこの整理はしないまま、山口に戻ってきた。あの部屋はいつするのだろう、少しずつ散らかってきた。情けない性分だ。

 年末は、年賀状書きで丸1日必要。掃除で1日。それ以外に、毎年恒例となった「おせちづくり」がある。31日に、小規模多機能型施設夢ハウスのお節料理づくりと、年越しそばづくりに出向く。今年からは、仁井令(にいりょう)をはじめとして、湯田、丸山の3か所があるのだ。一つずつ回っていたら時間が足らない。今年は、小規模多機能型施設「夢ハウス湯田」で年越しされる利用者さんはお一人だという。31日は日中3人通所しておられるので、恒例の寒ブリ1本を持ち込んだ。               

 今年は、萩市沖合の天然ブリ、6800円(安い!!)を3本買って、その1本を持ち込んだ。おそらく「夢のみずうみ村のホームページ」の「職員のブログ」で、写真入りで誰かがその模様を報告するだろう。それだけ今年も感動的だった。魚を、まな板に広げた時の驚きの眼。さばいている最中もじっと見つめる眼。刺身を切って並べた大皿に手が伸びる。それがすごい。手が動くのだ。食べてお代りに手が伸びる。「うまい」とあちこち声がする。

(これを書いたのは正月早々だったと思うが、今日は1月18日。職員ブログをアクセスして見た。やはり、ぶりが写真に写っている。しっかり、調理経過も載っている。利用者さんが喜んでくださるのもうれしいが、職員に感動してもらえるのも実に嬉しい。やめられない年末行事である)

 午後からは、新しくできた小規模多機能型施設夢ハウス「丸山」に「仁井令」のお年寄りに集合していただき、そば打ちをした。年越しそばを作る役割がいつのころからだろう、藤原の仕事になっていた。そう思っているのは私だけでもいい。勝手に作っていた。ところが今年は、そば粉を買ってきて、みなさんで打って食べようということにした。

 まな板、のばし棒も買い揃え、いざ、夢ハウス丸山へ。すでに、7人くらいのお年寄りがテーブルに座って居られた。ボールにそば粉を入れ、水を足し、手に粉がべとべとくっついても、とにかく、こねる、こねる。ワイワイガヤガヤ。若いスタッフのほうが喜んでいる。いや、利用者さんも、「どうする?」「手にくっついた」「肩が痛いよ」「もういい?」などなど言葉がいっぱい出てくる。参加されない方は一人もない。皆さんが「そばコネ」をされた。さあ、板の上に、打ち粉をして、こねた「そば」をさらにこねるぞー。

 「粉引(木挽き)歌ってあるでしょ?」 木を切るだけじゃあなく、粉をこねる時も、歌を歌った方がいいソバができるのですよ」

勝手なことを私が言い、大好きな「刈り干し切り唄」を唐突に歌い始めた。歌いたい気分になってしまったのだ。ゆったりとしたメロディーを、大声で歌いだしたが、場の雰囲気に全くなじまないと直感。始めたから、メンツにかけてやめるわけにはいかない。宮崎の民謡で、夕方の畑仕事を終えた農夫が、駒(労働馬)にさあ帰ろうかという歌詞だ。 

(1)ここの山の 刈り干しゃあ― すんだョ-

   あとは 田んぼで 稲刈ろうかョー 

(2)もはや 日暮れじゃあぞーい 田のクロ道をョー

   駒よ いぬるぞー  馬草おえよー

 これまでの人生で、自分自身が薄暗く淋しい時や、くたびれた時に、自然と口ずさんできた愛唱歌である。修学旅行で、素敵なバスガイドさんから習った。以来、この歳まで、何か落ち込んで回復しかける頃か、回復のきっかけかになるような場面で、ふと口ずさんでいる。情けないジメジメ男なのだ。

 しかし、今回は、粉引ということで、メロディーではなく、文字から連想して歌おうと感じたのだろう。歌ってしまっていた。「粉ひき」に合うはずがないスローな歌。しかし、突然、私が歌いだしたものだから、スタッフがまず驚いた。利用者さんは無反応だったと思うが定かでない。しかし、歌いだしたからには、2番までしっかり歌った。次に何を歌おうか、何か次に歌わないとしらけるぞー。「刈り干し切り唄」の終わりごろから頭で考えていた。「景気のいい歌がいい。それしかないだろう藤原君!」。自分に気合を入れた。

「まつしーまーの サアよー 瑞巌寺…」。大漁節だ。

利用者さんが、私の「エンヤートッと、エンヤートッと」の大声につられて、口から声が出始める。こうなれば私の得意とするところだ。歌いながら、そばをたたいたり、持ち上げて、まな板にぶつけてリズムをとった。

 ついで「ソーラン節」。結構、みなさんが歌い始められた。職員も声が出始めた。しめた。

 私は益々調子に乗った。

 「月が- でたでーたー 月がァ でたー よいよい」

「炭坑節」ほど、日本人に知られた歌はない。若いスタッフも、それまで、全く口を開かれなかった男性Aさんも、声が出るのだ。しめた、しめた。いいぞ、いいぞ。

 こうして、まな板に、そばをバンバン打ち付けたり、手でたたいたり、見事なソバ打ちとなった。利用者さんと、久しぶりに感動を分け合えたことが素晴らしい。それ以上に、普段、かかわりが持ちにくかった小規模多機能型施設のスタッフと、利用者さんを介して関わりを持てたことも嬉しかった。無論、年越しそばは実にうまかった。

 これまで乃年越し蕎麦は、だし汁にこだわり、揚げたての「ゴボウ天そば」にしたくてこだわってきた。これからは、年越しそばを作ることより、蕎麦そのものを作る「そば打ち」が、毎年の恒例行事になるぞと確信した。

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63歳 4速ギアで突っ走っております

北海道手稲駅 二階改札口前のベンチ。零下3度の冷たさを心地よく感じさせてくれる日差しを浴びてこれを書いている。機内で書いた原稿を最終校正してブログに公開しようと思っている。本来、このブログは、飛行機の移動中に書いている。短い時間の過ごし方に適しているからだ。原稿を書くことが余暇になってきた。書くことが嫌いではないので、書いたものが日記ではなく、直ちに公けになるというのが心地いいのだ。自分の生きざまを第三者に知っていただくことは悪くないなと、このブログコーナーができて感じている。

 人生63年、今ほど忙しいことはない。いや、あった。20代の児童養護施設時代だ。朝6時から夜中12時過ぎまで忙しく走り回っていた。子どもたちに振り回されたり、私が振り回したりしていた。しかし、あの時代と質が違う忙しさなのだ。自分の人生の一コマ、しかも、人生で今のところ最も忙しい昨今、一つ記録しておくことも悪くないなと思った。来年の自分の行動力とどう異なるか、衰えていく自分の体力や思考力、行動力を知る基準にしよう。おそらく、これほど忙しいことは、まず今後あるまい。新聞にある「首相の今日の予定」ばりに、細かく記録しよう。何年か後に、動けなくなった自分がこのブログを読んで懐かしむことができる、そう、自分のために記録しよう。

私のシステム手帳の忙しい時期には、他人には見分けがつかないほど真っ黒になっている。白い部分があるとすれば、その日、その時期は、通常業務以外に動きが少ないか、何事かに集中的している証だ。真っ黒だと、移動や打ち合わせ、面談、講演会などが目白押しの日となる。講演会で司会者の方が、「お忙しいところお越しいただいて・・」と決まり文句のような前置きがあるが、実際本当に忙しい。しかし、どの程度で忙しいかは人によって異なる。本人の自覚の問題だ。よく、若い人にこう語る。「君は今、車のギアで言うと、どのギアにレバーを入れて暮らして(仕事して)いるかね」と。私自身は、昨今、4速から5速の間を行ったり来たりして走っている程度の忙しさだ。無論停車時間は全くない。おそらく、5速の忙しさとは、まったく思考する時間なく走りまわっている状態だろう。そうすると、今の私にはまだ余裕がある。忙しいからこそ、ぼっとする暇がある。

(手稲の山並みの雪化粧を見ながら、札幌行きの電車を待ちながら、お尻が冷えてきたベンチの椅子を意識し始めてきた。こうして文書を読み、書き直していることが、自分らしくていいなと思える。くそ寒いのに・・・。)

私は、千葉県浦安市に始めた「夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター」の専従の仕事を、11月から少しずつ離れ、講演会などの日程を入れ始めた。同時に、新たに都区内で公募されている高齢者センターの委託事業に手を上げ、その追い込み事務や、愛知県高浜市で始まった「健康リハビリ巡礼札所事業(健康自生地事業と呼び直している)に翻弄されている。これまでは、朝8時15分には浦安デイサービスに出勤し、階段や、テーブル、椅子拭き、利用者さん宅へのお迎え、9時半過ぎから、10人くらいの利用者さんへの「ほぐし」(上田法と呼ばれる、こわばりをとる手技)を一日行う。午後4時以降は、送迎か掃除を18時ころまで行い、その後、事務作業や打ち合わせ等を行う。早く帰れる日はまずない。遅くなる時は必ず、出前を取り、残っている職員全員と一緒に食べる…。そういう日常を半年続けてきた。11月に入り、現場から徐々に「フジワラ」を消そうとしている。職員諸君が育ちつつあるからだ。こまごまと、いつまでも私が語っているようではだめだ。みんなが伸びない。よって、11月から、私は、別の忙しさの中に身を置くことにした。

<11月1日から、今日12月16日までの藤原の一日>

11月1日 午前中、浦安デイサービス勤務。午前中のみ「ほぐし」担当、14時 区民大学の江戸川大学で講演、20時 羽田発 22時45分 那覇着 23時リッチモンドホテル(那覇での常宿)泊 (2日)8時30分 琉球リハビリテーション学院出勤、10時 理事会、16時 教務会議、夜、いつもの加藤食堂。24時コスタビスタホテル(学校近くの常宿)泊 (3日) 9時30分 開店を待って沖縄国際通りの「高久レコード店」で、いつも通りレコード(放送で使用)を買い、12時半からレギュラー出演番組「ゴーインにマイウエイ」をラジオ沖縄で収録。(毎月第2日曜日午後10時から11時に放送、沖縄本島から、離島、与論島まで電波が届く)。22時30分 リッチモンド泊 (4日)9時40分 那覇発、福岡11時45分着。午後1時から山口コメディカル学院で「対人接触法」授業3コマ、夜7時から「夢のみずうみ村山口」で幹部会議 その後会食 23時30分 萩自宅泊 (6日)7時6分、新山口発、名古屋経由で、静岡県富士市交流プラザで講演、終わって16時31分、富士市発で日帰り、21時15分新山口着、夢のみずうみ村山口デイにて、デスクの文書類整理 24時 萩自宅泊 (7日)10時30分 宇部市健康福祉センターで講演 14時20分 山口コメディカル学院で「対人接触法」講義2コマ17時まで。 19時55分 山口宇部空港発、21時25分 羽田着 23時 浦安自宅泊 (8日) 9時 田中設計舎、田中章一級建築士と打ち合わせ、その後現地の世田谷区内の施設見学と検討会、 18時 浦安デイサービスセンターに戻り、職員採用面接 22時 浦安自宅泊 (9日)8時15分 浦安デイサービスセンター出勤 理事長室にこもって高浜市の事業計画原案づくり 12時30分 茅野市市長ご一行見学案内 その後、世田谷夢のみずうみ村打ち合わせ事務作業 23時 浦安自宅泊 (10日)午前中、浦安デイサービス出勤 、理事長室にこもって取締役会資料準備 13時 夢のみずうみ村本部ミーティング 16時 H国際大学理事との面談 18時 株式会社夢のみずうみ社取締役会 その後食事会 23時30分 浦安自宅泊 (11日)8時15分 浦安デイ出勤 世田谷区夢のみずうみ村改装建築図面の検討打ち合わせ 12時15分 羽田空港発 13時15分 庄内空港着 鶴岡市社会福祉協議会講演会にて講演 終了後接待 21時 鶴岡泊 (12日)タクシー運転手の勧めで、空港近くの温泉(名を忘れた)。のんびり。18時10分 庄内空港発、19時15分羽田着 浦安デイサービスセンターに戻り「木材調達日帰りバスツアー」の打ち合わせ その後職員と会食 22時30分 浦安自宅泊 (13日)朝から、東京都のはずれ桧原村に「木材調達ツアー」(送迎車2台、利用者さん・スタッフ総勢11名)。 19時 浦安デイに戻る 20時30分 浦安自宅泊 (14日)介護相談員指導者研修(昨年も同じ講演会をKFCホールで実施、場所は大阪、御堂筋線に乗って…と思い込んでいた) 7時 自宅出発 東京駅発新大阪行き乗車。京都あたりまで、車内で仕事。場所の確認を主催者に電話。「KFCホールは、御堂筋線でしたっけ?」と聞いた私に「えっ! 両国ですよ」と。真っ青。新大阪に着くなり、切符売り場に走る。7分後の東京行きに飛び乗る。結局、16時から18時までの2時間、両国KFCホールで講演。私がするべき4時間講演の半分の2時間分を、福祉自治体ネットワークの菅原弘子事務局長につないでいただいた。講演後会食。23時半 浦安自宅泊 (15日)8時15分 浦安デイサービス出勤 9時「夢結び」(スープ屋、就労支援事業)担当職員、岡田百代さんと電話打ち合わせ、「おかゆ」を冬メニューで出す相談 10時 ニュー大阪ホテル松田会長と面会と施設案内 午後 浦安デイサービスセンター勤務 18時職員面接 20時スタッフと会食 23時30分 浦安自宅泊 (16日) 浦安デイサービス出勤 18時、Vキューブ(テレビ会議システム)を使って、夢のみずうみ村が経営の3つの小規模多機能型介護施設(山口市、防府市)のスタッフを結んで「地域密着型サービスの在り方」検討会議 20時30分終了 23時 浦安自宅泊 (17日)8時15分浦安デイサービス出勤 15時15分羽田発、16時15分小松着 18時30分、白山市松任学習センターで講演会 いつもの「梶助」にて食事 (この様子はこのブログに以前書いた)。24時15分小松グランドホテル泊 (18日) 8時10分小松発 9時15分羽田着 10時半 中国新聞社取材、17時 フィンランドの新聞社取材 19時 Vキューブ会議(厚生労働省モデル事業委員会:山口デイ、防府デイスタッフとのテレビ会議) 20時30分 モデル事業の浦安デイの委員との会食 24時30分 浦安自宅泊 (19日)8時30分 浦安デイサービス出勤 17時12分東京発 18時56分長岡着 19時 講演会主催者の前日接待 21時30分 長岡泊 (20日)上越市校長会主催講演会 13時12分 長岡発 東京戻り 20時 浦安自宅泊 (21日) 8時15分 浦安デイサービス出勤 9時 千葉県立大学 小林毅作業療法士ご一行様と面談、施設見学案内 その後モデル事業資料づくり 18時 厚労省モデル事業委員会浦安内部準備会 20時 浦安モデル事業員と会食 23時 浦安自宅泊 (22日)8時15分 浦安デイサービス出勤 10時 三菱UFJ銀行調査員取材 16時 浦安運営会議 19時 豊田工業浦安所長、現場監督との感謝宴会 23時 浦安自宅泊 (23日)8時15分 浦安デイサービス出勤 9時 フリージャーナリスト取材 14時15分 羽田発 16時山口宇部空港着 17時 夢結び おかゆづくり検討会 萩自宅泊 (24日) 山口デイサービス出勤 9時 知性アイデアセンター取材 13時 田中設計舎打ち合わせ 16時 夢結び改装打ち合わせ 19時 本部ミーティング 22時30分 萩自宅泊 (25日) 山口デイ出勤 10時 山口県健康づくりセンター講演会 13時30分 弘前医療福祉大学理事長、学長面談と施設案内 13時 本部ミーティング 18時 社労士事務所打ち合わせ 20時 夢結びおかゆ試食会 22時30分 萩自宅泊 (26日)8時 山口デイサービス出勤 10時半 かず君(1歳半、脳性まひ)上田法訓練(月一度、ご両親、祖母に上田法指導、間もなく1年くらいになるか?) 16時50分 山口宇部空港発 18時15分 羽田着 19時30分 浦安自宅泊 (27日) 8時15分 浦安デイ出勤 10時 浦安市社会福祉協議会講演会 浦安デイ午後出勤 世田谷夢のみずうみ村計画原案作成 21時 浦安自宅泊 (28日)8時浦安デイサービス出勤 一日、世田谷夢のみずうみ村原案づくり 18時 厚労省モデル事業浦安委員会 終了後メンバーと会食 22時30分 浦安自宅泊 (29日) 11時 東京発 新大阪着 14時50分 介護相談員指導者研修会 終了後主催者と会食 22時30分 大阪泊 (30日) 9時30分 新大阪発 名古屋経由 高浜市役所 16時 高浜市健康自生地づくり委員会 終了後会食 23時 刈谷イン泊 (12月1日) 8時30分 中部国際空港発 11時 那覇着 12時40分 就労支援農業用地下見 16時 琉球リハビリテーション学院教務会議 琉球リハ儀間理事長と会食 22時 コスタビスタ宿泊 (2日) 8時30分 琉球リハビリテーション学院出勤 20時10分 那覇発 21時45分 福岡着  22時 西鉄イン泊 (3日) 8時30分 博多発 10時30分 日本脳神経学会看護協会講演会(山口大学医学部) 16時 夢結びレシピチェック  23時 萩自宅泊 (4日)8時山口宇部空港発 9時25分羽田着 11時 浦安デイサービス出勤 堀田聡子厚労省モデル事業委員インタビュー 14時 厚労省モデル事業委員会 20時 山崎史郎社会援護局長、大島一博総理秘書官、浦安モデル事業委員、外部委員総勢14名会食 24時15分 浦安自宅泊 (5日)8時15分 浦安デイ出勤 14時50分 介護相談員指導者研修(KFCホール:両国) 20時 浦安自宅泊 (6日)8時15分 浦安デイ出勤 9時 ニュー大阪ホテル松田会長浦安デイ見学案内、打ち合わせ 14時 世田谷夢のみずうみ村計画案設計打ち合わせ 20時 浦安自宅泊 (7日)8時15分 浦安デイ出勤 一日 理事長室にて 世田谷夢のみずうみ村建設最終原案検討打ち合わせ 20時30分 浦安自宅泊 (8日)9時 厚生労働省老健局担当官と打ち合わせ 13時 浦安デイサービス関連買い出し 15時 浦安デイ勤務 18時30分 豊田工業忘年会出席 22時30分 浦安自宅泊 (9日) 6時10分 羽田発 9時5分那覇着 高久レコード店にてレコード購入 11時 ラジオ沖縄「おはようインタビュー」( 12月第3週月曜から金曜、朝9時から30分放送番組)収録、13時「ゴーインにマイウエイ」収録 15時 琉球リハビリテーション学院出勤 20時 加藤食堂 23時30分 コスタビスタ泊 (10日)終日、片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯コンペ 準備 沖縄かりゆしホテル泊 (11日)片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯コンペ開催 沖縄かりゆしホテル泊 (12日) 9時 琉球リハビリテーション学院理事会 18時 那覇空港発 19時15分 鹿児島空港着 夢のみずうみ村アルテン(フランチャイズ)の新規計画予定建築物視察 19時 同施設吉井理事長ほかと会食 21時 加世田旅館泊 (13日) 12時30分 鹿児島空港発 13時55分 羽田着  14時30分 浦安デイ出勤 20時 浦安自宅泊 (14日) 8時15分 浦安デイ出勤 18時 世田谷夢のみずうみ村計画原案作成事務 18時 Vキューブによる小規模多機能型会議 22時 浦安自宅泊 (15日) 8時15分 浦安デイサービス出勤 終日、世田谷夢のみずうみ村計画原案作成事務(16日)9時 羽田発 10時35分 千歳着 手稲地区介護事業者連絡協議会講演会 参加者と会食 21時30分 手稲ステーションホテル泊 (17日)12時 北海道オイラーク(夢のみずうみMILKシステム導入施設)メンバーと会食 17時千歳発 18時40分 羽田着 機内でこれを書いている。 

 手帳を見ながら、思い出して書いているだけでも、すさまじい日程をこなしていると思うが、63歳今が最も社会に必要とされているのだという実感がわいてくる。がむしゃらに私は走り続けたいと思う。嬉しいことに、夢のみずうみ村は、私の後ろに、職員がついてきてくれている。しかも、私からはっきり見える位置に、幹部みんなの顔が見える。勝手に私が激走しているのだが、ついてきてくれている。そこが我が村の強いところだと思っている。63歳 4速ギアで突っ走っている。

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第2回 片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯in沖縄 

「片麻痺になられても、これまでやっていたゴルフができますよ、さあ滅入ってないで、ご一緒にやりましょう」という意図で、軽々しく開始した今大会。今年も昨年同様雨模様の沖縄、久志岳カントリークラブで24名がプレイ。「晴れ男」藤原の面目躍如たるところで、昨年同様、かろうじて雨を逃れて大会を開催できた。参加者のうち、障がいを持たれた方の参加が昨年より少なかったので、正直なところ、私はこの大会を開催する意味を見失っていた。障がい者ゴルフがそれなりに普及している様子であり、様々な障害をお持ちの方が、ゴルフを日常的に親しんでおられる現状を知った。わざわざ、夢のみずうみ村でこうした大会を開く必要はないではないか。前夜祭でお会いした「ジャパン・ハンディキャップゴルフ協会」理事の駒井清さんの一言で私は迷いから覚めた。彼は工事現場9階から1階に落ちて、命は取り留め、右下肢大腿切断にもかかわらずゴルフの名人である。彼の一言が私を変えることになる。

「世界には様々の障がい者ゴルフ大会がある。徐々に疾患別に大会が開かれる傾向になっているような気がする。しかし、『片麻痺』と冠がつくものはどこにもない。やめる必要は全くない。いや、もっと積極的に、『片麻痺ゴルフ』を拡げていこう」という話だ。昨年、片麻痺ゴルフを社会運動として全国に広げるきっかけにしようと、声を高らかに語り、大会を終えたのに、今年は、その広がりを作ることが結果としてできなかった。だから、落ち込んでいたのに、この、駒井さんの一言に元気づけられた。「たとえ、参加者一人になっても、この大会はやろう。そのための資金作りは必死に考えよう」。そう決意を新たにした。

 片麻痺の方でなくても、我が夢のみずうみ村ゴルフコンペは誰が参加してもいいのだ。脊髄小脳変性症のKさん。最近、転倒されて、それまでかろうじて歩行器で移動しておられたのに、それができなくなったので、楽しみにしていたこの大会を欠場されるとおっしゃったのである。「何があっても、お連れいたします」、そう申し上げたら、感動して参加を決意していただいた。我々の方が嬉しかった。スタッフと共に現地入りしていただき見事18ホールラウンドされた。2200歩、歩いたとのご報告を聞いた。ただただお見事というほかはない。

パーキンソン病のKさんは、普段、歩行器を押しながら移動されるのだが、カートと杖を使ってラウンド。この大会の特別ルール、ボールの落ちた地点を延長して、カートの脇から打ってよし、を適用されれば、ラウンドがもっと楽なはずなのに、そうしたくないとおっしゃる。正式ルールでいいとのこと。球が落ちた地点まで歩いて行かれて、そこでプレイされた。結果、ハーフで中断された。すさまじい歩行距離である。日頃の夢のみずうみ村での歩行距離も相当だが、ここは目に見えにくい土地の凸凹があっての距離だ。来年は、18ホールを目指しましょうと約束。

 私は、最下位だった。昨年初めてゴルフという競技を行い、ハーフでやめていた。しかし、今年は見事18ホールラウンドできた。しかし、途中、昨年同様、球がゲートボール状態、転がる専門で、空中を飛ばないのだ。他のメンバーが、カキーンと快音残してはるか向こうへ跳んでいくのに、私だけ、ちょっと前に転がり、何回も何度も、ちょこまかと打ち続けないとグリーンの上に行かないのである。いささか、飽きてきた。全く面白くない。しかし立場上そういう顔は絶対見せられない。そんな時は掛け声だけ大きくなる。それが逆にむなしさを助長させる。それでも、18ホールを完遂することが目標だったので、それなりに必死。すると、16か17ホール目あたりの、2打目あたりから、なんだか要領をつかめた感じがし始めた。球の下あたりをしっかりと叩けるようになったらしく、ボールが宙に浮き始めた。それが嬉しいのだ。しかし、どうだろう、感触を覚えた気になれたが来年まで持ち続けられるだろうか。間違いなく、いや、おそらく、来年の第3回大会まで、ゴルフには無縁で、1年後のこの大会に、今年同様参加するのだろう。クラブを持っていないので、打ちっぱなし練習場に行くこともできない。練習場ではクラブを貸してくれるのだろうか。行く時間がないこともさることながら、万が一、行ったとしても、今の状態では恥ずかしくて行けそうもない。打ったつもりでクラブを振っても空振り。せいぜい、50、60センチくらい先にコロコロとボールが転がる様を、他人には見せられない。身の程を知っている。だからこそ、この大会は貴重なのだ。ゴルフに無縁の方にも、門は広く開かれている。ハンディーとやらが72で最下位だった私。また来年も出場したいと本心から思えるようになってきた。

自己申告してそれに一番近い人が表彰されるというオネストジョーンという企画がある。58がここのゴルフ場の平均というのか。すべてパーで回るとそのスコアになるらしい。そいう設計なのだ。ちなみに私は153であった。自己申告は138だったのに散々である。

来年、私の結果を参考に、多くの方がやってこられることを願ってやまない

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現代版「山頭火」の訪ねる食べ物屋

山頭火は放浪の歌人だ。この10年間くらいの私は、まさにお金をかけて放浪する山頭火だ。飛行機、新幹線、レンタカーなどを利用し、ほぼ全国を巡った。まだ行ってなくて訪れたいと思っている場所は、下北半島、紀伊半島先端の潮岬、三宅島、礼文島、与論島ぐらいである。ずいぶん、周ったものだと、今、ANAの機内で、中部国際空港から、那覇に向かう機内の「翼の王国」を見ながら思う。気が付いたら「なじみの店」ができていた。そこに行くと必ず訪れる「食べ物屋」さんだ。いろいろあるが、とりあえず3か所を紹介したい。

白山市(石川県)に講演で出向かなくてはいけなかった。前日、小松空港から白山市に移動してホテルに泊まる主催者の誘いを断る。小松グランドホテル近くの日本料理屋「梶助」に行くからだ。北陸に出向く時は、「梶助」に行くと決めて宿をとる。そのいきさつは以前のこのブログに書いた。おそらく「梶助」に行くのは5回目ではなかろうか。

羽田発最終便で出向いたから夜10時過ぎ。目指す「梶助」の玄関に紙きれ発見。「予約客の方だけになっております」と。期待してわくわくしてやってきたのに、愕然。店をそっと覗く。全く偶然、幸運だった。若旦那、太郎さんがこっちを見ている。目が合った。私の顔を見つけて、さっと手を挙げ、おいでおいでをしてくれた。嬉しかった。入っていくと、二つある私の定席(と思っている)、カウンターの右端(もう一席はカウンターの左端)が空いていた。大将がいない。県から長年の功績で表彰されて夫婦で出かけているとのこと。一人で切り盛りしているから予約客優先、なじみと予約客OKという感じ。後からわかったのだが、息子、太郎さんが初めて、ひとりで店を切り盛りする日だった。

いつものように今日のおすすめをいただく。生の「いくら」が出た。赤く塩気があるものと思っていたが白い。昆布だしの中につけたものというが、「いくら」の真の味とはこれだと知らしめられた。海の匂いがして香ばしい。「いくら」のイメージが全く変わった。次に、3種類の蟹が小さく盛って出てきた。以前、札幌のカニ専門店で、たらふく食べ、「蟹の味」は知り尽くしたと思ったが大間違い。たらふく食べず、僅かだがしっかりとした味をじっくり味わうことを「梶助」で教えてもらった。こういう心境は、自分が老いた証拠だと実感しながら味わう。私の腹具合に応じていろいろ出る。それが快適なのだ。前々回、隣に座った客は2時間かけてここにいつもやって来ると言われるフランス料理店のコック長だった。「自分の舌を保つためにここに来ます」と言われた。料理とはそういうものであり、「梶助」はそういう「店」なのだ。今日は左カウンターに滋賀県から来たという4人ずれ。同業者のおもむき。「看護」「介護」という言葉が飛び交うからわかる。太郎さんが勧めてくれたので「天狗舞」という地酒を冷で頼む。2合瓶だそうだ。隣の方々に勧めればいいかと勝手に決めて注文。何年ぶりだろう、酒を自分で注文して飲むとは。中ジョッキ生1杯、赤ワイングラス2杯が昨今の限界である。うまかった。おちょこで5杯。お隣さんに声をかけ注ぐ。すぐに仲良くなった。そこに大将ご夫妻が帰店。一気ににぎやかになった。11か月ぶりに「梶助」に来たのだが、いつも来ているような錯覚に陥る。なぜ、ここが和むか、自分で分かっている。料理がうまいことは当然だが、大将が私の親父に似ているのだ。ここに最初に偶然舞い込んだ時から感じていた。細い目、細長い顔(大将のほうが若干肥っておられる)、よく似ている。我が親父は口数が少なかったが、酔えば饒舌だった。私が年を重ねるにつれて親父がいろんな場面で浮かんでくる。だからだろうか「梶助」にきて、大将や太郎さんと、カウンターで向かい合う。心地いいのだ。帰りにご夫妻と太郎さん3人がそろって玄関先まで見送ってくださった。今度来る時は、萩焼の皿、徳利、お猪口を自前で持ってきて「梶助」におくことになった。楽しみだ。

 

沖縄、宜野湾市に「加藤食堂」がある。小柄な若奥様ママと、坊主頭だがまろやかな顔立ちのマスターのつくるソーセージや魚・肉料理が実にうまい。一番は、今日さっき食べてきた、ホタテとねぎのキッシュ、チーズのデリス・ド・ブルゴーニュがまずお勧めだ。ピザも手づくりでうまい。客席は24、5席程度。沖縄に来たら、沖縄料理と決めていた。同じ宜野湾にある沖縄料理「あしび島」の常連だった。以前、夢のみずうみ村の利用者さんが沖縄旅行に来られた時もここを借りきった。薬膳の汁物(名前をいつも忘れている)が必ず出てきた。これぞ、沖縄という雰囲気の店で女将にはよくしていただいた。そこを振り切っての常連となるほどの「加藤食堂」。最初は、琉球リハビリテーション学院の理事長、儀間君が「家の近くにいい店がある」と連れって行ってもらったのだ。以来、ほとんど毎月訪れるようになった。夢のみずうみ村で忙しいが、琉球リハビリテーション学院長の仕事にもついているからである。2回目に伺った時、遅れてくるメンバーから携帯を受け、店までの道案内をする場面となった。「ここの店の名はね、佐藤食堂だよ」と私が口走った。目の前でコップを洗っていた(?)ママが、そばに寄ってきて、間髪をいれず、「惜しい!」と一言。びっくりした。「このママさんの感性が素敵だ!」と。それが、僕がこの店に通い続ける原因になった。おそらく、普通の感性を持った人なら、店の名前を間違えているわけだから、「佐藤ではなく加藤食堂ですよ」と教えてくれる会話になるはずだ。「加藤食堂ですよ」と、正確な名前をそっと教えるのが通常だろう。それが、このママの口からとっさに出た言葉が「惜しい!」なのだ。こうした感性は天性のものだ。意識しては絶対にできない。そういう人が私は好きだ。この「瞬間しびれた話」を、何度も何度もここに連れてくるメンバー達に話をする。その度に、小顔のママの顔がゆるむ。微笑みながら、実に忙しく店を左右に走り回る。ご主人と二人で切り盛りしながら、客は予約電話を入れないと席の確保が難しいほど盛況なのだ。こうした感性を持っている人間が身近に欲しいといつも願う。そうは簡単ではない。このエピソードを店で赤ワインを飲みながら、学院の理事や職員にいつもくどいくらい語る。そうなってほしいと願うからだ。カウンターの中で料理を作って忙しいご主人もいつもニコニコ、ママも微笑む。この間合いが実に奇妙でもあり素敵だ。国際通りの高良レコード店で、いつものラジオ沖縄の番組で使うレコードを選び、ちっかうのコーヒー店でこの一文を推稿している。今日から沖縄2泊。今夜行こうかな。

 釧路の「幣舞(ぬさまい)橋」の先、釧路川河口に「岸壁炉端」がある。4度しかそこに行っていないが、天気予報で「釧路」が画面に出でるたびに思い出す。最初に行ったときは、冬だった。岸壁に、サンマ船が横付けされ、波音できしんでいた。その脇に、周囲を厚い透明ビニールで囲んだ細長い空間。長椅子に座ると膝のあたりに網がくる高さの囲炉裏が30近くも並べられ、4人から6人くらいが1つの炉を囲む。大きな網が炉の上にかぶされており、そこに、自分の好きな海産物を買ってのせて焼く。金券を買い、北海の海産物をずらり並べた店8店舗(?)が数珠つながりに細長く並び、客は好きな店で食べたいものを買う。さんま、ホッケ、ジャガイモ、カニ、何でも焼く。一人の私は、どなたかの網のそばに座る。たくさん焼いている脇に買ってきたものをのせて焼き始める。隣に座った若い二人連れは全く無関係に喋り捲っているし、真向いのおっさんたちも、酔って大声を出しているが、何も気にならない。私が間違えて、お隣さんのジャガイモを食べてしまった。「さんま」と物々交換。酔狂だ。札幌生ビールが、冬でもうまかった。秋口と夏場にも行ったが、ここは冬に限ると思っている。夏場は、ビニールも船もなかった。するとここは今一つだ。淋しくなれないのだ。ここに一人来て、岸壁脇の、この囲炉裏そばに腰かけホロ酔う。波間に漂うネオンを見ながら、持ってきたCDを聴きながら、何も考えないで酔う。淋しい。その淋しさに酔うためにここに来るのだ。いつのころからか、私は、こういう人ごみの中に紛れ込み、一人で「淋しさに親しむ」ことが好きになった。誰かとワイワイすればいいではないかといわれるかもしれない。それは付き合いであって、私の気が休まるというのとは違う。ひねくれ者なのだ。3回目に来た時確信した。4回目は利用者さんと来た。知床・釧路・根室と巡った第8回夢のみずうみ村旅行である。利用者さんは席に座っていただき、スタッフが店を走り回りながら、魚や、貝、ビール、ジャガイモなどなどを買って網にのせまわった。片麻痺があり、車椅子も利用する我々の一行30人は、縦横無尽に動き回った。それはそれで実に快活な「岸壁炉端」だった。

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第10回夢のみずうみ村旅行

 浦安に夢のみずうみ村ができたことを記念して、今回の夢のみずうみ村利用者さんの旅行は、東京・浦安となった。3泊4日を基本に、第1回 オーストラリアを皮切りに 第2回北海道道南(札幌・小樽・富良野)、第3回 沖縄、 第4回 黒部・飛騨高山、 第5回 韓国冬のソナタを訪ねて 、第6回 湯布院(この回のみ1泊2日)、 第7回 東京神奈川 、第8回 秋田青森、 第9回 北海道道東(知床・釧路・納沙布)。そして、今回、10回目。

 前夜、浦安から山口に戻り、仕事を処理して、帰宅午前1時。朝5時起床。厳しい。送迎車を運転し、萩市内の利用者さん4名(1組はご夫婦)のご自宅にお迎え、山口宇部空港へ。すでに他の皆さんは到着。今回は全日空宇部のご配慮を頂き、乗り込みはスムース。(以前,JALを60分近く遅らせた実績を持つ)

 羽田に到着したら、ボランティア(東京福祉専門学校・帝京大学作業療法学科)の学生達が待ち受けて、バスにいっしょに乗り込む。車体に夢のみずうみ村と横書きしたマイクロバスが、職員の宮本君の運転で、あの羽田空港脇の駐車場に横付けされている。その風景を想像しましょう。山口県のあの夢のマイクロバスが羽田空港ですぞ。横付けですよ。感無量でした。

 最初は明治神宮。砂利道があること、身障者トイレがどこにあるかなど難題。先発隊として、浦安デイサービスに、山口デイから1年間出向している井上君とボランティア2名に、明治神宮に先乗りしてもらう。駐車場確保、トイレ情報収集をしてもらい難なく砂利道も走破。山口から用意していった車椅子10台、現地のボランティア11名の存在が大きい。

 NHKのスタジオパークへ。いろいろな仕掛けを、自由に見て回る。朝の連続ドラマ「カーネーション」や、大河ドラマ「お江さま」などの模様、出演者の衣装などたくさんお番組の内情がわかり楽しい。吹き替えができたり、タッチパネルを触って、クイズに答えたり、近代設備満載に驚くことしきり。しかし、場内を歩き回ってみる。実に歩くこと歩くこと。日頃の夢のみずうみ村の中での歩行訓練がどれだけ生きていたかがよく自覚できる日程でした。

 ホテルは、浅草ビューホテル。いつものように、すぐにトイレ・バスタブのチェック。片麻痺の方が、どこまで車椅子で近づけるか、浴槽をまたいで入り、浴槽内で立ち上がって出てくることが可能か。おおむね、どこのホテルであっても部屋に備え付けの椅子にバスタオルをのせれば、おおむね浴槽の縁に腰掛る場が確保でき、それで浴槽をまたいで出入りする寸法だ。ここでもなんとかなりそうだ。ホテルの部屋からの眺めが抜群だとの参加者の声。2泊しました。

 二日目は、二重橋。いちばん近い駐車場からでも200メートルくらい移動する。長い横断歩道に、一同勢揃いして、車いすを押したり、杖をついて歩いて渡ったり。二重橋前で記念撮影。垂れ幕を出して移そうとしたら、お巡りさんから注意を受け垂れ幕はしまって撮影。ほっとする。

 二重橋の移動に時間を取られたが、明治座で「大奥」の舞台を見る予定時間にぎりぎり滑り込む。利用者さんのほぼ半分ちょっとの方を席に誘導したかどうかという時間に、始まりのブザー。暗闇で一部にお方を席に誘導。最後の方が席に着く際は真っ暗闇に懐中電灯を照らして着席していただいた。芝居は、テレビで見ていた「大奥」の舞台版。NHK大河ドラマの「お江さま」でも春日局が登場するが、まさしく、そのお局様のお話。昼食は弁当を配って客席で食べる。じっと見ているわけにはいかない付添職員。芝居がどうも合わないで中途退室される方、トイレ誘導、その他エトセトラの利用者さんの要望をなんとかかなえるべく職員大奮闘。

さてさてお次は、六本木ヒルズに移動し、各自グループに分かれてお店巡りの食事。ボランティアの学生と利用者さんがそれぞれ好きなところに移動。私は、みなさんがどこで食べておららえるか巡回。ところが、集合場所にどう戻ればいいか行方不明。あわてた。集合時間になんとか失態をせず、間に合って何食わぬ顔。そこは責任者。しかし、実情は情けない限りでした。それだけ六本木ヒルズは田舎者にはでかい。(都会人にも、でかいか?)

 3日目は、お目当ての、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター見学でした。浦安のいつもの利用者さんと、山口県のデイサービスの利用者さん総勢65名ぐらいが、浦安のデイサービスセンター内をうろうろされました。ここにも、「夢のみずうみ村があるのだねえ」の声。いつも、通っておられる山口とは一瞬違って見えても、そこは夢のみずうみ村の、雰囲気、におい、プログラムが目白押しにあることに納得された模様。利用さん同志が意見交換されている場面にも遭遇しほほえましく感じました。浦安にも夢のみずうみ村を作ってよかったと実感しました。

さて、昼からはディズニーシーです。学生ボランティアさんが車椅子を押しながら、それぞれが自由に動き回りました。万が一のことががないか、私は場内を歩き回りますが、なんせ、自分がどこを動いているのかわからない。私の足も棒になるが、利用者さんたに移動の疲れがないかなと心配。すさまじい運動距離の旅行です。車いすを10台山口から持ち込みましたが、会場でも3台を追加。大勢の学生ボランティア(東京福祉専門学校中心)さんがあったので、満喫できたと思っています。明日は雨の天気予報。晴れ男を自称してきたから安心していましたが、さすがに予報は明日から2日間、雨模様。売店に、ミッキー、ミニーのポンチョが2500円で売っている。職員には、明日は、晴れるよ私が晴れ男だからと前夜のミィーティングで豪語していたが、そこは責任者。万が一を考え万全の対策をとることにした。30個も買い揃えたの店員がびっくり。

最終日。朝6時、インターネットで天気予報を見る。関東地方雨。あちこちパソコンを操作していたら、「浦安」気予報」とでてきた。地域限定の予報があることは知らなかった。開けてみた。「午前9時から12時、曇りマーク」。なんということだ。9時まで雨。12時から雨。その間曇り。万歳。晴れ男極まれりで自室で万歳をした。ディズニーランドに行く。曇りだ。少し雨っぽい時間帯もあったが、何とか最後まで持ったのだ。すごい。

ここでも、大勢の学生ボランティア(帝京大学中心)が参加していただき、勝手に個人個人が動き回ることができました。障がい者の方が優先的に入れるカードをもらっていたので、シンデレラ館に、たくさんの人が並んでいるところを、我々は優先的に中へ入ることができた。シンデレラ姫の生い立ちが紹介してあり、私も見るが、あまり感動がない。何とかスムースに会場をみなさんが流れて行くことばかりを気にする。「いい年をして、シンデレラもないもんだ」という感覚は、ディズニーランドを楽しむことができない私の性分に由来するものだと自覚。ただただ、利用者さんに旅を楽しんでいただき無事に終わればいいという思いがどうしても常に付きまとう。職業病だ。

 さて、いよいよ羽田空港に向かうが、「お台場」見物をしてからの予定であった。時間が中途半端になり、バスの運転手さん、ガイドさんに相談。「東京見物の最近の人気観光コースに羽田国際空港があります」とガイドさんから紹介あり。この日、私は、16時半過ぎ、韓国に出張する強行軍。利用者さんは16時40分発。神様は、私の無理な日程も、難なく素敵な利用者さんの観光メニューに変えてくれたと思えた。国際空港3階の店で抹茶アイスを食べながら、多くの見学者の賑わいに触れていただいた。

 国際空港前で、私はみなさんを送った。その瞬間、私の今回の利用者さんとの旅行は終了した。バスのテールランプを見送りながら、なぜか涙が出てくるのだ。今もってその意味が分からない。なぜ泣いたのだろう。さみしかったことは間違いない。自分一人が置き去りになった感がしたのと、自分は、頼まれて韓国に講演会にいくが、本末転倒ではないか。自分は、利用者さんお側に立つならば、なぜもっと密着しないのか、そんなことでは、今後の事業展開も…?!。短い時間だが、複雑な思いに駆られた。私はどうしても現場の人間であり続けたい。しかし、そうも言えない経営者の前途もある。さてさてと、思いをはせながら、韓国に向かった。

 利用者さん御一行は羽田空港へ。空港では、飛行機に乗り込む際のトラブルが予測通りあったとの報告。いまさらながら、私が、航空会社にガミガミ小言を申し上げる必要性があるなあと実感。常に、旅行社や空港各社に申し上げることは、「我々は、通常の障がい者、子どもの優先登場開始時間よりさらに10~15分程度は早めに、誘導開始させてください。さもなければ、時間がかかって、一般客にご迷惑になります。それは本意ではありませんから」という申し出る。しかし、それが却下されると、案の定、出発が遅れる。かつて、JALを1時間近く遅らせてしまった教訓からそう申し上げるのだが、航空会社の直接の窓口の方は、マニュアル通りにしか反応なさらない。今回も全く同様であったらしい。スタッフが申し出ても無理だったとのこと。

 いつもながら、思う。夢のみずうみ村の旅行は、障がい者が旅をするノウハウを、社会に知らしむる旅であると。社会を動かすために、我々は、大人数でぞろぞろ旅をしたい。他の障がい者の団体旅行がスムースに流れるとともに、旅行各社が障害の理解をより深めてもらうために旅を続けたい。

夢のみずうみ村の旅の 原則1:一番遅い人に合わせる 原則2:トイレ休憩を1時間おきにとる。

 

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63歳を過ぎる

2011年10月6日午前6時38分。羽田から沖縄行き全日空機の中。1948年10月6日、午後8時40分ごろ、私は山口県萩市に生まれた。沖縄につく時間には、ちょうど満63歳を迎える。今、私は、沖縄で琉球リハビリテーション学院長をしている。今日は、まず、ラジオ沖縄で、「ゴーインにマイウエイ」という、ラジオ番組のコメンテーターとして、2か月分の録音の仕事をする。この仕事は、すでに半年以上もやっている。1時間番組で、毎月第二日曜日の夜10時から11時という誰も放送を聞かないと思えるような時間帯に放送されているが、結構人気があるそうだ。知念常光さんというメインキャスターと一緒に二人で好き勝手を話し、6曲私の好きな音楽をかける番組である。今日も、那覇空港に着いたらタクシーでレコード店に行き、好きなレコードを買って局に持ち込むのだ。それが終わると、学校の仕事。そのあとは、沖縄で障がい者の方々が、自然卵の養鶏を中心に、農園を兼ねた就労支援事業所を作るための事業の打ち合わせで何人かと打ち合わせがある。2日間滞在して、札幌に向かう。気温はこの時期激変するだろう。着の身着のままで走っているわが身は、寒ければどこそこの巷で何かを買い込んで着込むという始末で何とか過ごす。常套手段である。今回札幌では、どうしても断れなかった講演会をこなす。終了したら、最終便で浦安に戻る。

夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターはまだ開設3か月。忙しい。朝から利用者さんの送迎か施設内掃除をし、その後、大体9時15分ころから「ほぐし」と名付けた、上田法治療(こわばりを除去する治療法)を、夕方4時前まで最大1日13名担当する。夕方も掃除(私は、大体、階段や椅子の雑巾がけをする)か送迎をやり、一区切りつくのが、午後6時過ぎ。それから、会議か打ち合わせが始まり、出前を注文し、みんなで食べるとますます夜は遅くなる。身体が疲れて、頭はさえない。考え事は明け方早起きしなければまずできない。63歳となった自分の体力、知力は、介護・リハビリの現役職員であるとともに、経営者としての手腕も問われる。職員現役続行は大変厳しい。

思い返せば、52歳の時,NPO法人を立ち上げ、53歳の時に山口デイサービスセンターを建設。57歳、防府デイサービスセンター。以後、デイサービスの利用者さんが徐々に重度化されてくることに対応して、夢ハウス仁井令、夢ハウス湯田、夢ハウス丸山と小規模多機能型居宅介護施設を立て続けに建設。その間、フランチャイズとして、富山に夢のみずうみ村アルペン、沖縄に夢のみずうみ村平安郷、鹿児島に夢のみずうみ村アルテン、福岡に夢のみずうみ村行橋を開設指導してきた。さらに、夢のみずうみ村のデイサービスに通ってこられてお元気になられ、要介護度が軽度化する方が、明日から、デイサービスに通えなくなってと困るとおっしゃり、就労支援事業所、スープ屋「夢結び」を作った。これが、この10年間の現実だ。

今、東日本大震災の仮設住宅にサポートセンターを作る事業を展開できないかと動いている。東京都区内でデイサービスを中心とした地域密着の交流センターを運営する計画案を練っている。地元の山口県で、開発事業の声がかかり、それにも手を挙げている。

いくつものプロジェクトを一気に抱え込んでいる。どうなってしまうのだろう。なるようになる。したいようにすすめる。だから、必死に走る毎日。かつて、沖縄県や、山形県さくらんぼ東根市、東京都清瀬市、品川区で提案してきた「健康リハビリ巡礼事業」を、愛知県高浜市で昨年来はじめ、今年度から本格的に具体的な展開が始まった。これは今もっとも力を注いでいる事業の一つだ。高浜の吉岡市長は、このメールを見られると、いいですか、高浜を優先してくださいと念を押されると思うが「ご心配無用。着実に動かせますから」と回答させて頂きたい。こうした同時多発的事業展開は今に始まったことではないからだ。これこそ夢のみずうみ村、いや藤原方式なのである。

「63歳、藤原君。君は、どれだけのことが、これから先できると考えているのかね」と、問われそうだ。夢のみずうみ村の幹部職員は、私に振り回されて辟易していることだと思うが、どっこい、みんなしたたかで、冷静に私についてきてくれている。

 63歳、今、何をすべきかの答えは、「手あたり次第、馬車馬のごとく走る」である。20代、児童養護施設で児童指導員として、子どもたちと、先を考えず、ただ必死に育った。あのころを意識したい。その後の作業療法士として働いた病院時代も、様々な試みをした。精神科病院では、全患者さんを、毎日800メートル先の病院前の池の浮島までの散歩プログラムを提案し、看護部門と激突しながら、患者さんに感謝された。あのパワーだ。35歳頃の話だ。山口県初めての「リハビリ」と名がついた病院を理事長の一言で立ち上げ、朝、7時過ぎから夜10時過ぎまで、開設時、最高87名の患者さんを1人で担当した時のすさまじいエネルギー。もう40歳を過ぎていたが、土日も走り回り、山口子どもクラブ、萩子どもクラブ、在宅リハビリの会、脳性まひの子どもたちのリハビリの会。様々なボランティア活動をこなした。学習障がい児親の会山口県支部や、日本ALS協会山口県支部、山口県園芸療法研究会などを組織化した。当時のパワーは今も健在だといいたいがそうはいかない体力。気持ちだけはまだまだ老いない。我が力がお役にたてればどこでも何にでも参画したいと思っている。とにかく、我が人生、走り続けなければならないと思い込んできた。まだこれからも後先考えず走り続けたい。

 今日。63歳。周囲の心配の声は耳にするが、あっちこっちに手を伸ばし、できること、やってみたいこと、できそうなこと、できそうもないこと。そうしたいから、そうする感覚で、ことに臨んでいる。63歳、本当にこれでいいのだろうか。

総勢190名余の従業員諸君を抱える経営者として、迂闊なまねはできない。経営を安定させねばならない。そこで、今年、大学浪人時代、予備校で席を並べてひたすら勉強した親友の天井正明君を経営統括室室長として迎えた。この10年、事業が確実に発展してきた。今まさに、全国展開し始めた。今後はさらに広がっていく。だから、経営を客観的に見てくれる専門家が必須である。彼は、期待通り、就任直後より銀行筋、会計管理、対外事業折衝と適格に動き回ってくれている。

 私は70歳まで生きたい。それまで、走り回って、今、頭に浮かんでいる、日本の社会に貢献できると信じる事業を手当たり次第に芽を出していきたい。おそらく、芽を出すところで私の役割は終わるだろう。それで十分だ。私は、今、夢のみずうみ村を支える人材養成に躍起になっている。片手に余る以上に若手が伸びてくれている。新しい人材で夢のみずうみ村をさらに発展させる体制を築くことが私の使命だ。これからも、荒療法を、若者に強いたい。夢のみずうみ村のためではない。日本のために、日本の社会事業を支える人材に、夢のみずうみ村から育ってほしいと願って、厳しく若手を育てることに、余る時間が生まれたら絶え間なくエネルギーを注ぎ続けたい。今、浦安では、遅くまで仕事をこなし、若者を引き連れて、食べ飲み歩き、洗脳している。

 「身体に気を付けないといけませんよ」と、会う人話す人誰もが必ずおっしゃる。無論その通りだが、身体に気を付けていては、時間が生まれない。しかし、病気になると、即、時間を奪われる。その加減をどうするか考えている間に時は過ぎる。それもできない。63歳。「ゆっくりやりたいことを展開し、できることがあればやるができなければ仕方ない」と、健康重視で細く長くやることが、結果的により多くの夢を実現できるのかもしれない。「手当たり次第、やりたいことを走り続け始めていき、できるものは残り、やはりできなかったと、そこで止まってしまう」やり方。どちらの方法を選択するか。63歳を迎える今日、今7時43分。まだ沖縄にはつかない。沖縄につく8時40分の63歳の瞬間を待つまでもなく、私は、後者を選ぶ。いや、もうすでに走りまわっている。

「体調は?」と問われるが、「いいのか悪いのかわからない」と答えることにしている。

無理をすれば当然どこかにガタがくる。私はポンコツ車である。若いころから随分あちこち修理している。しかし、私の車は5速ギアであることに50歳を過ぎたころ気付いた。忙しい忙しいと40代は走っていた気がするが、当時はまだ4速ギアで根をあげていただけだ。20代から40代も随分と忙しかった。しかし、それは3速ギア程度でアクセルを最大限踏み込み「もうだめ、忙しくてたまらない」と根をあげていたように、この歳になって思う。50歳前後で、様々な活動を、時間に追われてやっていたころでも、今から思えば、いくらでもゆとりがあった気がする。

今は5速にギアを入れ、アクセル全快だ。最近のポンコツ車の走り具合は、自分で自由に使える時間が本当に消えた状態、すなわち、5速ギアのフル稼働状態。それでも、ゆっくり走ったりすることもある。時折、アクセル全開で、息も上がっている事態を経験する。「忙しい」ということは、何をもってそう言うか、よくわからなくなってきた。ナポレオンは3時間しか寝なかったという。本当だなと昨今感じる。寝ていて思いついたのか、起きているときに考えたのか、全くはっきりしないが、アイデアが浮かび、すぐ、メモをしないと忘れてしまうこともしばしばだ。そういう暮らしが日常的になって久しい。

こういう中で、夢のみずうみ村は全国に広がっていくのだ。一人では何もできぬ。しかし、まず、一人が始めなければならぬ。

 63歳になる。これからは、毎年、誕生日に遺言を残していこう。いつ死んでもいいように。走り回るからだ。おそらく私は、走っている最中に、どこかの巷でぶっ倒れることを想定したほうがよさそうだ。無論そうなりたくない。しかし覚悟して毎日に望まないと職員諸君は夢のみずうみ村の現状、将来を案ずるだろう。そんなことがあってはならない。長嶋茂雄ではないが、「藤原茂はいなくなっても夢のみずうみ村は不滅です」と、そう宣言したい。私は必死に努力する63歳でありたい。

 8時3分。沖縄に向かって飛んでいる。まもなく、私は本当に63歳を過ぎる。

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夢のみずうみ村開村10周年・社会福祉法人設立記念式典

  夢のみずうみ村は満10歳になった。平成13年4月1日。朝日が照るが小雪が舞うという思い出深い天候の中、山口市から秋吉台に向かう途中の、街並みとの切れ目になる小高い山の中央の一本の杉の大木を私はチェーンソーで切り倒した。それが夢のみずうみ村の始まりであった。平成13年9月1日山口デイサービスセンターを開設した。以来10年間。特定非営利活動法人(NPO)で始めた施設は、平成23年8月1日、社会福祉法人になった。新しい時代の社会福祉法人の在り方が問われて久しい。今まさに改革がなされていく中でなぜ、社会福祉法人なのかと何人かの方々から質問を受けた。なぜだろう。よくわからないが、そうすることがより安定して社会貢献できそうな気がした。いやそれとも違うかな。私は、21歳になろうとするとき、社会福祉法人「至誠学舎」、児童養護施設「至誠学園」の児童指導員として大学在学中にもかかわらず住み込んだ。施設での体験を通じて、福祉を行うには、社会福祉法人にならなければできないものだと思い込んでいた。社会福祉法人になるためには私財を投げ打たねばできない、資金を蓄えないとできない、その額3億円。常にそれが頭にあった。財力は私には全くない。話にならないと半ばあきらめていた。

「夢のみずうみ村は、社会福祉法人になれる財力、運転資金が備わっています」と、県庁からの報告を事務次長の吉岡さんから受けた。「まさか?」、不思議な気持が先に立った。まだ相当の借財が残っているし、施設は銀行の担保物件にもなっているのだ。しかし、県の担当者に様々な資料を提出し吟味精査してもらっての結果である。間違いはあるまい。しかし、こうも簡単(?)にOKになるとは、意外な回答であると正直に感じていた。私の指導員時代(今より40年も前)より、社会福祉法人の設立要件が相当緩和されているのだろうか。1億円の資産でいいのだが、それがあるか? 「ある」という。どうも納得いかない。説明を受けた。うわっ! 資産ありだ! 手持ち資金5000万円以上が必要とのこと。ないぞと思っていた。通帳に、しっかり、介護保険料収入が入り、5000万以上の金額が通帳に刻印されている。それで十分という。社会福祉法人の要件は整っていたのだ。ただし条件があった。根抵当権を銀行が放棄してくれるか否か。ことは早かった。短期間の間に、事務次長は孤軍奮闘した。ずいぶんと、山口県の担当者、山口銀行と萩山口信用金庫と、時間をかけ、書類を作り加筆修正を繰り返し、いろいろ話し合い相談し、山ほどの書類を作り上げ、今日を迎えた。様々な方々に感謝したい。

さて、記念式は山口市内の会場で行われた。私は、浦安デイサービスセンターが7月1日に開設していたので、そちらで陣頭指揮を執っており、記念式典の準備一切に全く関わらなかった。ただ、仰々しい、権威的な会だけはやめてくれと、代表代理の岡田君には注文していた。利用者さん、職員、村民、協力者の方々が集って、10年間を振り返るという企画になり、意図は明確に実践された。

第一部は、利用さんであり、料理、俳句、ちぎり絵の先生として、開設当初から10年間、施設利用と指導者の役割を継続してこなされた3名の利用者さん(臼田さん・島田さん・高澤さん)の表彰を行った。開設当時は、数名の利用者さんであった。1名も利用者さんが来られない日もあった。3名の方は、徐々に増えてきた利用者さんの先生役であり、自己選択自己決定方式の展開を可能とする重要な役割を担っていただいたのである。感謝いっぱいである。一番前の席に陣取られているお三方に記念品を贈呈させていただいた。

次に、ボランティアとして長年活躍していただいた、お二人(山根さん、倍地さん)を表彰させていただいた。山根さんは、下関から早朝に自車で来られ、施設が(営繕的な部分で)一番困っていることは何か、独自に察し、炎天下であろうが、極寒の大雪であろうが、黙々と外仕事が中心での作業をされ、昼食を、利用者さんとともに召しあがり、夕方、利用者さんが帰られる4時ごろに作業を終え、シャワーを使われ、自動茶器から、ご自分でお茶を入れて飲まれ、しばし、休息されて、そっと去って行かれる。それを10年間継続された。ボランティアとは山根さんのことをさす。あり難い存在である。この日を待ってお礼を申し上げたかった。当日、レセプションを会場のホテルにご宿泊いただいた翌日。さっそく、夢のみずうみ村山口の入口の急斜面の伸びきった雑草を芝刈り機で刈っておられる山根さんに遭遇した。いつもこうだ。本来、こうした作業は職員がしなければならない。しかし、後回しにする仕事か、やらないで見過ごさざるを得ない作業をこなしていただいてきた。感謝してもしきれない。

お二人目の倍地さんは、ご自身が、障がい児と長年かかわってこられた経歴をお持ちの方である。NPO法人夢の湖舎の設立組織の一つである「ラ・ベルヴィ」(脳性まひ児を持つ親の会)の子どもたちのお世話をするボランティアとして、夢のみずうみ村とのかかわりが始まった。創生期、「ラ・ベルヴィ」のお母さん方の3人が職員となられ、2人がボランティアとして、我が子を連れて、村に出勤される、その子どもたちのお世話をしていただいた。介護保険事業に併設して、自立支援事業が始まり、特に、児童デイサービスが始まってからは、職員とともに、いや、職員以上に子どもたちを、責任を持ってご指導いただくことになっていった。職員になっていただきたいとお願いするが諸般の事情を語られ、それをやんわりと断りながら、ボランティアを続けてこられた。児童デイサービス、自立支援事業の職員はこの間交代をしていったが、全く変わらず倍地先生は子どもたちのお世話をしていただいた。職員以上に、夢の湖の子どもたちのことや、施設のことを承知されているほど大切で重要な存在になっていただき、ご心痛やご支援をいただいた。ありがたい限りである。

いよいよ、職員の永年勤続表彰を行うことになった。10年前私を含め7名の職員で夢のみずうみ村は始まった。そのうち、もともと「ラ・ベルヴィ」のメンバーであった原田さんは、同会が夢のみずうみ村から発展分離していったときに「ラ・べルヴィ」に転勤されていったが、開設時のメンバーがそのまま今日まで残っているのである。自慢したい。開設時に一緒にいた私が、他の5名の職員を表彰するのである。泣いてしまって表彰ができない様では情けない、どうしたらいいかとずいぶん案じていた。岡田代表代理が表彰状素案をメールしてきた。どうもしっくりこない。紙切れは私なら欲しくない。記念品だ。そうだ、何か記念品を探すのだ。すぐに、萩ガラスにしようと頭に浮かんだ。生活の中で使う道具を記念品にしよう。置物をもらっても僕はうれしくない。記念式典の前日、浦安から山口に戻り、萩ガラス工房に出向く。同じものが2つとない創作ガラス。萩市の日本海べりの火山「笠山」の岩石を使った独特のガラス細工品である。社長の藤田浩太郎さんは私が会長を務める「いい萩をつくろう会」の仲間であった。5人の職員の顔を一人ひとり思い浮かべ、ガラスと漆の合作カップ、コーヒーカップ、花瓶、ジョッキ、色違いグラスを求めた。翌日、5人の職員に手渡すとき、僕は声がつまり、言葉にならないと思った。前日常宿であるホテル喜良久の部屋に、神と筆を買い込んで、一言を、一人一人に書き始めた。何度も何度も書き換え言葉を選んだ。

まず、吉村恵子さん。施設長として、ずいぶんと私は彼女を困らせた。言いたい放題、頼みたい放題。難題を持ちかけ、それをこなしてほしいとずいぶんと走っていただいた10年だった。「型の崩れない豆腐」。彼女につけた私からの称号である。どんなことも、どんな職員の悩みも彼女は吸収する。聴いてくれるのだ。利用者さんが困ってしまうようなことが予測されたら、休暇であろうが日曜日であろうが昼夜を問わず施設に出入りして、対策を黙々ととる。事務所に腰を掛けている姿を見るのは、夕刻の仕事が一通り終わった後か、緊急に会計処理ないしは事務処理をしなくてはならないちょっとした時間以外にはない。常にじっとしていない。広い施設の隅々を、ちょこまかちょこまか、左右に眼をこなしながら歩き回り、掃除し、ごみを拾い、ものをセットしたり移動したり、何かと仕事を見つけては動いている。じっとしていないのだ。今、私は、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターに常駐している。そこで、久しぶりに現場を取り仕切っている。朝夕の掃除に始まり、職員の動き、仕事の分担決め、洗剤からちり紙一つに至るまで、なんとも細かい雑多な仕事が数えきれないほど次から次に発生する。しかも毎日仕事だ。「吉村さんならどうしていたか。彼女ならどうするだろうか」それが、私と、山口県から浦安に期限付きで転勤赴任している、渡辺愛さんとの口癖である。浦安に来て、吉村さんの動きにまたしても私は気付かされた。「目につくことは誰もがやりこなす。吉村さんはただやる。しかし、目につかないことや目につきにくいことに気づき、それを黙々と自分でやっている」。誰も見ていない、誰もそれを吉村さんがやってくれていることを知らない。知っているか知らないかよくわからないがやってくれている。吉村恵子さんはそういう人だ。「若い人が、あなたのあとを追いたい。あなたを目標としたいといいます」と、私は書いた。それを壇上で読み上げた。職員みんなが、「そうだそうだ」と応じてくれているような気がして、涙があふれた。いい人が私たちを支えてくれている。

2番目に、藤村美智子さんを表彰した。萩市にケアマネージャーがいて、もしかしたら就職してもらえるかもしれないと、夢のみずうみ村を建設してくれた浜村工務店のかみさんが私に何かの折にポロッと語ってくれた。ケアマネージャーは、介護保険創生期で希少な存在であった。萩市の大病院から、見も知らぬ、わけのわからないNPO法人の施設などに転職してもらえるはずもないと思った。しかも、通勤に1時間半程度は楽にかかる。冬場は中国山脈の凍結との戦いが不可欠だ。案の定、最初は返答が頂けなかった。どうも難しいという返事だよと浜村さんから聞かされた。私は初対面でこの人だと決めていた。だから何度か声掛けして会って説得を重ね、ようやくOKをもらった。通勤hやはり大変であった。同じ萩方面から通勤するのは、藤村さんと片山さん、それに私の3人である。実際、冬場に凍結し、当時私が冬場対策用に自車は四駆であったので、それに、市民体育館前に駐車して、二人に同乗してもらって通勤したことが3,4回はあった気がする。よくぞ、山越えの就職を決断していただいた。初期の頃、中古プレハブの室内は夏場35度以上ある中で、黙々と仕事をこなして頂いた。一人ケアマネージャーとして、実に多くの方の面倒を見ていただいた。今は、山口デイサービスの居宅支援事業所に3名、防府デイサービスに2名のケアマネージャー体制である。その第一号が彼女である。家族の話をしながら、涙する場面に、何度か出くわしたことがある。クレームが来たご家族のもとに、私も一緒に出向いていったこともある。やや首を右に傾け、ええ、ええ、とひたすら相槌を打つ彼女。私は。腹が煮えくり返っているのだが、彼女のスマイル交じりのひき釣ったよう顔を垣間見ると口がはさめなかった記憶がある。どういう場面かは忘れたが、彼女のスマイルと真剣なまなざしには、人を吸い込む「目力」があるように思う。ずいぶんとこの10年間は嫌な思いもあったのだろう。感謝したい。

3番手は、一緒に冬場の中国山脈山越えをした、片山康成さんだ。萩子どもクラブという自閉症児の訓練ボランティアサークルを萩市で開始した当初からのボランティアである。郷里に戻ってこられて、建築設備会社に勤務している傍ら、ボランティアとして子どもクラブの活動に参加された。現場の作業服のままボランティアに来られてこともあったように思う。子どもとのかかわりなど無縁の方のように思えたが、実にこまめに動かれた。萩子どもクラブ忘年会では、彼の同僚のボランティア(太田さん、藤本さん)と3人でど演歌をうたわれるのだが、どうもその光景と障がい児と遊ぶ姿が結びつかないが、実に3人とも見事に子ども達の輪の中に入って活動していただいた。夢のみずうみ村に就職していただいた年だったと思うが、クリスマスも近い寒い日の夜中12時近く。戸締りして帰ろうとする私の耳に金づち音が響く。まさか、こんな時間に誰かいるのか!?。近寄って見る。小雪舞う外の壁に、巡礼札所の木工細工を作っているのだ。88か所をつくろうと躍起になっていた、その一つを真夜中につくっているのだ。近づいて行って私は彼を叱った。「クリスマスも近いのに、子供たちも家で待っているだろうに、なぜ、君は家に帰らないのか!!」・・・・(早く帰って子どもたちとクリスマスを祝ってほしい、そう願ったのだ)。私は、彼の子どもたちもよく知っている。ボランティア活動に奥さんともども一家で参加してくれているからだ。せめて、クリスマス前ぐらいは家庭サービスをしてほしいと感じたのだ。「早く帰ってやってくれよ。なぜ帰らない!」と叫んだ私に、鼻水を袖でこすりながら、「楽しいのです、これ(大工仕事)」と答えた。巡礼札所の数が一つ二つと、自分の手作りで村に増えていくのが楽しいというのである。私は声にならず、ただ、片山君の手を握って泣いた記憶がある。「君は、夢のみずうみ村の原点だ」。そう、記念式典の表彰メモに記した。

4人目は、石田陽子さんだ。高2の時、当時山口リハビリテーション病院に勤務していた私のもとに患者さんとして現れた。外来リハビリに必ずお母さんが車で送迎し、半日以上訓練して帰っていく。彼女は脳卒中後遺症左麻痺なのである。高校三年生を卒業して進路を相談された。今の彼女の機能レベルであれば、作業療法士がいいよと煤円たはずだが、私は作業療法士は厳しいと進言したと思う。彼女はあん摩マッサージ師を選択し学校も決めて私に報告に来た。しばらく私の前に現れなかった彼女が、その学校を卒業した直後に母子で私のもとに来られた。「先生はお顔が広いから陽子の就職先がないかとおもって」とお母さん。「ありますよ」と答える私。「どこですか」と陽子ちゃん。「夢のみずうみ村です」。6月から開所する予定でいたのである。ほかにも就職先を探せばあったと思うのに即断された。「陽子は山口百恵よりかわいい」というお母さんが、就職とはいえ、陽子さんを単身遠方に出すはずもあるまい。山口なら自宅から通える。ならば夢のみずうみ村就職OKだったのではなかろうかと勝手に思っている。彼女は1時間以上もかけて、車で通勤する。ラッシュを避けるために早朝暗いうちから家を出て、7時過ぎには、もう施設につく。早朝は予想外に利用者さんから施設に電話が入る。「今日は休みたいが・・・」という類のものだ。出勤者を早朝から配備することはいろんな意味で難しい。しかし、我が施設は石田陽子さんによって、朝の電話対応は完璧であり、ドアや窓の開閉はまず彼女一人がやっているといっても過言ではない。彼女は、悪い方の左足を引きずりながら走る。両手両足が効く人間よりも素早く反応できる。障がいを持たれた方の目標に彼女はある。本当にすごい人が、夢のみずうみ村に就職していただいたと感謝している。

最後は、宮本史郎君だ。社会福祉主事か、社会福祉士がいなければ相談指導員不在となるので、人集めに躍起になっていたがどうしても誰もいない。4月に入りかけたある日、「来年大学を受験して社会福祉士になろうとしている、社会福祉主事任用資格をもっている青年がいる」との情報が入った。すぐさま電話して会いに行ったと思う。彼に初めて会ったときの印象は「素朴な青年」というものであった。それは今も変わりがない。私は、この10年間、何度となく彼を叱り飛ばした。ある時は私の感情に任せ、どうしてそうしない、こうならないと、微に入り細に入り、彼に語り、一緒に夜遅くまで残って、書いたり作ったり、考えたり、様々なことをし尽くした。とりわけ、「おやじ表」「おふくろ表」というエクセルで自前で作った「収支見通しソフト」は、経営状態をチェックし現金の過不足をチェックするものであり、給料が払えるか否か、いつの段階でお金がショートするかしないか、それを確かめるものである。その表を、仕事で疲れ果てた夜中の十時過ぎころから深夜に至るまで入力しチェックし、赤字か黒字か、資金ショートするかしないか、一喜一憂した。彼は目を真っ赤にしながら、いつも必ず最後まで黙々とついてきてくれた。平成18年の介護保険の改正で、夢のみずうみ村が大赤字になった時、47都道府県を私が講演して回って資金稼ぎすることになった。第一回目は途中まで1人で回っていたが、私が大変ではないかということになり、彼が運転する車で全国を回った。時々ほかの諸君と回ったこともあるが、大半は、彼と全国津々浦々回った。ある年、夢のみずうみ村を出発した季節はまだ秋の始まりかという9月半ば。巡り巡って、東北自動車道で、青森あたりまで講演して回っていた時、高速の路面が凍結していることに気付かされた。車が横滑りしたのである。ノーマルタイヤで夢のみずうみ村を出ていた我々に、冬が押し寄せていたのだ。高速を時速30キロで走る。スリップする。この知己は本当に怖かった。真っ暗闇を走りながら黙々と、その日の宿まで移動する。めったに彼と会話を交わすことなく移動するのだが、腹がすくと、運転している彼に私が声かける。「今日何食べたい?」。彼は「○○を食べたい」と1回も行ったことがないのでさる。「別に・・・。何でもいいです」と答えることはわかっているのに私は問う。車を走らせながら、道路わきに、気を挽く店があると私が「ここにしよう」と決めて、晩飯となる。お互い疲れたときは道端の看板に書いてある温泉(健康ランド)に立ち寄って、つかの間の休息をとる。そうしなければ、宮本君は5時間でも6時間でもぶっ通しで、トイレ休憩もろくにとらず走る。隣で寝ている私は楽なのに彼はひたすら走る。これまで講演会は全国5周し、夢のみずうみ村の危機を救った。彼がいなかったら、夢のみずうみ村はここにない。そういう夢のみずうみ村の背後を彼はしっかり支えてくれた。

式典が終了し、歩いて5分もかからない隣の会場で懇親会である。200名近くの方々が参加された。多くの利用者さんがご家族とともに参加していただき10年を振り返っていただくという試みは素敵な会の骨格となった。友人知己も数多く足を運んでくださった。こぞって、開設当初の様子から考えて、夢のみずうみ村が今日、これだけ発展するとは信じがたいという声であった。私が司会進行役を申し出て、一人ひとり、人物紹介をしながら、メッセージをいただく方式で動き回ったものだから、少し、藤原が目立ってしまったことを反省している。私とのつながりを随所に語らえるのでいささか照れ臭かったが、お一人おひとりのお話を聞きながら、ずいぶんこの10年は長かったなあと感じた。あまりに、たくさんのエピソードがあり、結構、忘れていた話も飛び出し驚いた。

慶応大学のボランティアサークル仲間の佐藤貢一君は東京より来てくれた。若いころから、施設をつくりたいと思っていた思いを紹介してくれた。山口リハビリ病院時代、「温泉病院という名称やめてリハビリ病院にしましょう」と一緒に旗を振った神経内科の川澤先生や、野垣先生も久しぶりにお会いして、今日こうなったことを喜んでいただいた。かつて一緒に精神科の病院で働き、現在岩国市の市議会議員をしている渡辺靖君が、私の30代の頃のすさまじかった動きを披露してくれた。今は医療法人和同会の常務理事になられた中村さんから、開設前の研修の話が飛び出した。山口コメディカル学院の同僚の先生たちも、ただただ今日の発展を祝っていただいた。いろいろな友人知己のお話を聞けば聞くほど、自分の人生がいかに充実していたか、必死に生きてきたかということを再確認できて実に心地よかった。利用者さんも、ご家族でご参加いただいた。「夢のみずうみ村に来て、絶対不可能といわれていた自動車免許が再取得できた」という少し長い話も、利用者さんの生の声は実に感動的であった。

会の終わりは、恒例の「夢のみずうみ村締め」である。しめ方は私が一番だと自慢している。「ちゃちゃちゃ・ちゃちゃちゃ・ちゃちゃちゃっちゃ」。小指と小指を1本立て、互いに交差させたたく。次に薬指が立ち、中指、人差し指と徐々に一本ずつ増えていき、最後は5本指同士の拍手で終わるというものである。最初は音がないようなので声で「ちゃちゃちゃ」と補強してやるが、最後は両手をたたく大きな音で、声は不要となるという代物である。実に夢のみずうみらしいしめ方で終わったとも思う。権威的でなく、儀式的でなく、みんなが祝う、みんなのための会。ただただ、和やかな、素敵な会となった。

多くの方々にご祝儀や、お花などを頂戴した。この場をお借りしても御礼を申し上げておきたい。

ほとんど料理を食べる暇はなかったが、時にふと、料理をつまみ、アルコールを座って飲んだ。ふと、「さらに10年、夢のみずうみ村は進化し続けるなあ」と感じた瞬間があった。職員のどの顔も和らいで、にこにこしており、元気溌剌に見えたのだ。夢のみずうみ村はこの先も強いぞ。

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浦安市に夢のみずうみ村 開村

夢のみずうみ村浦安 開村式のお話 

 6月26日 夢のみずうみ村浦安「開村式」が行われた。その模様をブログにのせようと書き出したのだが、忙しいので書く時間が取れない。おまけに、書きだしたら、あれもこれも書きたくなり、いつまでも完成しない。かろうじて、大まかな話だけは書き上げたので2か月遅れで掲載する。

当日は録音していたわけではないので、私の記憶だけが頼りの内容である。ご来賓の方々の祝辞を私が思い起こして書かせて頂いた。文責はすべて私にあることを前もってお断りしておきたい。

 「開村式」を仰々しいものにしたくなかった。みんなで語り合う和やかな会にしようと前から決めていたので、深くは考えずその日は来た。

首都圏での夢のみずうみ村が浦安の地に決まり、開設に至るまで、多くの方々を私の荒波に誘い込み、ご心配やご迷惑をずいぶんとおかけした。本当に厚いご支援をたくさんの方々よりいただいて完成にこぎつけたから、何としてもその方々と一緒に喜びを分かち合いたかった。しかも、名だたる方々から、町の和菓子屋の女将にいたるまで、登場人物は多分野多彩な方々である。

いつものように、式の打ち合わせという特別なものは一切なく、司会を私がやることくらいを事前に宣言していた程度。当然そうなるだろうと周囲も思っていた節がある。

いざ式典の時間が近づくと、芸人を自称する私も気持ちの切り替えが必要となる。計算はしていないが、臆病者なのである。「会場の雰囲気が今一つだなあ」と開始直前に気付き、あわてて「式次第」をホワイトボードに書く。模造紙などにあらかじめ書き出してあるのが通常であろう。

 前日まで、開所式は大会議室で行うつもりでいた。紅白幕でめでたい雰囲気をつくるのに格好の場所だと思っていた。前々日になって、便利屋さんあたりに借りようとしたが、らちが明かない。あちこち伺いの電話を掛けるが、急なことでどこからも借りられない。人数分取り揃った椅子を並べて式典らしくしようとなると、折り畳み机や椅子も数が足りない。式典会場の厳かな雰囲気は到底出せない。しまった。どうしようもない。早くから準備しておけばいいのに、いつものいい加減さだ。そこで、急きょ、会場変更。いかにも夢のみずうみ村らしいと、勝手に納得するに至っては、何をかいわんやと、お叱りを受けるかもしれない。

「丸の内」と名付けた、施設内の「広場」に会場変更。施設で利用者さんに使用していただく予定の不揃いの椅子200個を使うことにした。どうしても、この椅子は最初使うつもりはなかった。なぜなら、家庭的過ぎて、式典というイメージにふさわしくないと、変な理屈が頭を支配していたからである。

夢のみずうみ村で使う大半の家具等は、千葉県内の中古の店を買いあさって集めたバラバラのものである。当然、調和のとれた式典会場の雰囲気になじまない。厳粛な会場になぜ私はこだわったのだろう、浅はかであった。「夢のみずうみ村」らしさは家庭的雰囲気そのものである。何を悩むのか、会場はそこにあるではないか。にぎにぎしい、不揃いの、ごみごみした会場が、開所式典会場にふさわしい。家庭的な居間・台所感覚の式典会場こそ、我が夢のみずうみ村らしい、和やかな雰囲気を醸し出す会場ではないか。なぜ、仰々しい式典会場というイメージを抱いたのか。それにどうしてすぐ気付かなかったか。自分でも不思議であった。紅白幕などない方がいい。この生身の夢のみずうみがあれば十分だ。そう思えた。万事がこうだ。きちんと決めた時ほどあまりぱっとしない。いい加減が似合うのが夢のみずうみだ。いや藤原だ。スタッフはきちんと準備万端構えていてくれたのだ。

自称芸人の私が、司会進行役。マイクを握る。いよいよ開式だ。いかん、涙が出そうだ。やっと開所にこぎつけたのだ。つばを飲み込む、せき込む。絶句。いかん、いかん。泣いてはいかん。まだ始まっていない。声を張り上げた。

「やっと、首都圏に夢のみずうみ村を開所することができました-ぁ!」

大勢の皆さんの前で第一声。

なんだか身体が軽くなった。極楽感覚。準備に忙しすぎたスタッフも、裏方にいる者を除いて、来賓の皆様方の後ろのほうで直立している。同じ思いなのだろう。皆が涙をこらえているように見えた。そう感じたら、また涙が止まらなくなった。よく、今日の日までにこじつけた。みんなよくやった。嬉しさが湧き出す。スタッフの顔を見ながら徐々に涙が沈めるのに時間を要した。

「なぜ、夢のみずうみ村が浦安に登場することになったか。本日ここに、お集まりいただいた方々からお話を承りたいと存じます」

最初の語り口はぎこちないと思ったが、話を切り出すと、芸人魂が騒ぎ出した。

これまで、資金調達で苦心苦労したし、約2か月近くの「床張り」と「ペンキ塗り」作業でスタッフも私も身体を酷使した。その挙句の開所式。いつできるか、本当にできるだろうかと案じていたものが、まさに始まった瞬間。至福の時であった。

来客者の一番手は、どうしても、この方に話してほしかった。「必ず出席します」と電話で伺ってはいた。しかし、激動する政治情勢の中枢にいる方だから、急に来られなくなっても仕方ないと覚悟もしていた。

いつもの、にこやかな顔が玄関先に見えたときは本当に嬉しかった。山崎史郎さんである。首都圏に夢のみずうみ村を作るべきだと、声を発したのがこの人だった。厚生労働省でミスター介護保険といわれた山崎史郎さん。現内閣府総理首席秘書官である。この方との出会いがなければ、夢のみずうみ村の今日はなかった。

山崎さんは、まず褒めてくださった。山口の施設をご覧になった時の感動話に始まり、これを日本全国に作るべきだと感じたと率直に話され、介護保険の質を高めることにこの施設が首都圏にできた意義は大きいと力説された。

思えば、平成18年の介護保険改正の直後、大幅赤字で苦しんでいた我が施設に、突然、山崎さんは見学に来られた。素早い足であちこちを見学。「いいねえ」「うん、いい」と何度も独り言のように随所でもれる一言。「防府市にも施設がある」と話すと、「そこも見たい」といわれ、急きょ、私が運転する「夢のみずうみ送迎車」で移動することとなった。移動に40分かかる車中で、山崎さんは、手あたりしだいに携帯電話を掛けまくられた(山崎コールと勝手に名付けた)。介護保険にかかわる重鎮の方々に、やや興奮気味の早口。電話口で聞かされている方々には、山崎さんの真意が今一つ伝わりにくかったのだろうか。「とにかくすぐに見に来なくてはだめ」とピシャリ。どなたにもその一言の連発であった。

この山崎コールがきっかけで、厚労省の方々はもとより、実に多くの介護保険関係者の、それも重鎮の方々が来所された。皆さんが、異口同音に「目からウロコ」とおっしゃった。今日の夢のみずうみ村のすべての始まりである。

(ちなみに、山崎さんが、山口デイサービスを朝から昼のバイキングまでを見学され、移動して、防府デイサービスに向かい、3時のカジノや4時のお見送りリハビリまでの一連を見学された日程を、以後、「見学フルコース」と呼んでいる。多くの方々がフルコースを堪能?しておられる)

資金繰りの苦労話がある。できない銀行の資金調達が暗礁に乗り上げ、融資OKだと思っていたM銀行から融資無理の一報が来た。「国からの何らかの支援がなければ融資が難しい」「介護保険事業やNPOに融資することは銀行としての実績がない」と告げられた。大銀行ならではの、あっさりとした融資困難宣告。すぐに、知り合いを通してR銀行本店に資金調達願い。並行して、必死に資料を作り、頭をひねり、どうしてもすがりたかったY銀行をはじめ、関係筋を手当たり次第に訪ね歩いた。それまでなんとなくいい感じだと一方的に思っていた銀行筋から、ことごとく、実にあっさりと断られていった。今にして思えば、当然である。これまで、首都圏に夢のみずうみ村建設と、誰彼となく声高に語っていただけに、実現不可能という目の前の現実は、私の存在否定(ほら吹き男)につながるような衝撃を感じて落ち込んだ。

あちこちの銀行に、手当たり次第門をたたいていた冬のある日。山崎さんから携帯に電話が入った。その時、私は、夢のみずうみ村主催の講演会(この収益が職員の賞与資金に回る)のために、全国行脚の講演会をしており、ちょうどその日は札幌に出向いていた。札幌に行くと必ず出向くラーメン横丁の「ひぐまラーメン」に行こうとしていたタクシーの中であった。

電話は25分くらい続いたと思う。「勝手に、藤原一人で悩むな。なぜ、もっと、私やみんなに相談しないか。名案をもっと考えようとしているのに、君が勝手に動いてしまっては、元の子もない。勝手にしなさい」すさまじいお怒りの電話であった。

「勝手にはしません。山崎さんの思いと私の思いは一致しています」と叫ぶのだが、山崎さんの話の勢いは一向に収まらない。何とか思いを伝えようとするが、山崎さんの強い口調は私を徐々に黙らせた。

「とにかく、夢のみずうみ村を全国に作るのだ。山口県もいいが、首都圏で多くの人に示すのだ。そのために、どうしたらいいか考えているのだ。わかるか君。人の輪、力を結集しよう。一人で悩むな。右往左往するな。足元をしっかり見ろ。一緒に考えていこう」。そういう話であった。力強い声と内容であったが、小雪吹く中、心細くなっていた。

電話口で、その声を聞き漏らすまいと必死に思っていた。15分くらい、すさまじい山崎節が続いた後、やっと落ち着いて聞けるような感じになり、最後に「大島に言っておくから、よく話し合うようにね」とソフトに静かに電話は切れた。エイペックで、菅総理が韓国から帰国された夜、零時過ぎの話である。ありがたくて涙があふれた。

それから、5分もしないうちに大島一博現内閣官房長官秘書官から電話が来た。

「山崎さんに叱られたんだって?」。やさしい声だった。

山崎さんは、忙しくても、やはり、ちゃんと、しかもすぐに、大島さんに電話してくれていたのだ。そこにもまた感激。

「忙しいのに、僕みたいなものに20分以上も時間を割いてもらったことがうれしいですよ」と、素直に感じ、大島さんに語る。大島さんは官房長官秘書官なのだ。忙しいご両人なのに有り難い。

「夢のみずうみ村をね。日本全国に作りたいと思っているからだよ、山崎さんも僕も」と、大島さん。

どっと涙が出てきた。山崎さん、大島さんという、重責にある主要官僚が、一介の施設経営者である私に、夜の夜中、くそ忙しい政務の合間に、長々と一声かけ、支え、励まして頂いたのである。このエピソードを式典会場では、手短かに紹介し、大島一博内閣官房長官秘書官にマイクを向けた。

いつもの、穏やかな声で完成までこじつけた労をまずねぎらってくださった。設立までの暗中模索状態の中、夢のみずうみ村設立のためのいろいろな経緯や、夢のみずうみ村をなぜ全国に広げたいと感じたかという話をされた。高齢者の自立を目指すことを忠実に展開していることが素晴らしいのだ、しかも首都圏にできた意義が大きいと。日本の介護保険制度、とりわけ、通所施設の質を高めるために、この夢のみずうみは発展すべきだ。

「日本の介護保険を発展させようよ。ね」。結びの大島さんのこの一言は私たちを奮い立たせて頂いた。今日の日を迎えるまでに、何回かご足労願って打ち合わせしたり、携帯電話に留守電を残しておいて、大島さんから電話いただいたりした。電話するたびに、心があらわれ、困惑し、苦悩していた自分に元気をよみがえらせて頂いた。感謝いっぱいで話に聞き入っていた。

話の3番手は、松崎浦安市長の登場である。東日本震災で液状化の大被害に見舞われた市長は防災服のまま施設に来られた。

紹介のまくらとして、浦安市の広報に事前にのった話や、福祉自治体ネットワークの菅原事務局長にご紹介いただいた話などを紹介した。首都圏に夢のみずうみ村をつくるといっても、なぜ浦安市なのかという疑問にお答えしておこうと思ったのだが、市長はすべて語っていただいた。

私が出演したNHK「プロフェッショナル」のDVDを「素敵な介護施設です。見てください」と菅原事務局長から渡されていた話から入られた。DVDをもらうことはよくあることなので、またいつものやつかと隅にほって置いた。ところが、事務局長から、「どうでした?」と聞かれ、後日あわてて探し出して見た。「目から鱗だった」と。すぐに山口に見学に行き、これを浦安に作りたいと思ったことを昨日のことのように語られた。

(市長は4選目の選挙を迎えられたが)選挙公約(マニフェスト)に、「夢のみずうみ村をつくる」と高々と掲げた話(見事4選を果たされた)。国から支援を受け、誘致できると思ったが、できないとわかって何とかしようと苦心した話。市からは資金的支援はできないが、その発想、中味をぜひ、浦安市で実践していってほしいと願って、藤原理事長と苦心したが、その甲斐があったと、情熱的に語っていただいた。市長さんが、山口県の安倍晋太郎先生(安倍信三元総理のお父さん)にそっくりなので、私は初対面から、実に親しみやすさを覚え、ずいぶんと市長室に気安く通させて頂いた。「困り果てたら、私のところに来てください。一緒に悩みましょう」とおっしゃっていただいた言葉が深く心に残った。これほどの人間的な首長さんの所(浦安市)には、必ず夢のみずうみ村は生まれると、市役所を去る車中で最初に訪問した折から感じていた。いつも、ありがたいことに、公用車で、石田秘書課長(当時)さんが浦安駅まで送ってくださった。松崎市長と語り合った話の余韻を車中で再確認しながら、浦安に夢のみずうみ村を必ず作ると決意を強めていった気がする。

私は、満を持して、池田省三龍谷大学教授(現在退任)に登場願った。大腸がんに罹患したことを公開されていた。周囲の誰もが、先生の介護保険に関する英知をさらに余すところなく結集していただきたいと懇願して出版された書籍「介護保険論-福祉の解体と再生-(中央法規出版)」の出版記念会でお会いして以来である。

池田先生とのつながりは衝撃的であった。平成18年度の介護保険改正時に、大規模減算(大規模施設はスケールメリットがあるとの理由で、通所施設の月間の総利用者数が900人を超える施設は、その介護保険収入の1割をカットするという厚労省の通知)を行い、夢のみずうみ村が、経営的に傾いた責任は私にあるとまでおっしゃった。ところが、山崎コールに反応され、山口のデイサービスに早々に来られた。

「高齢者の自立を目指す通所介護施設はまさにこれだ」と感じ、以後、私は罪滅ぼしに全国いろいろなところで夢のみずうみ村の紹介をさせてもらっていますとおっしゃった。

自立を引き出すことこそ、人間が生きている尊厳にかかわる最重要課題であるとの重い発言であった。 

社会保障審議会介護保険給付費分科会委員長であり、東京大学名誉教授である、大森彌先生も来られた。難しい問題を気さくに、わかりやすく、丁寧に、かつ人間臭く語っていただくことが素敵であるという私の「先生の印象」を前置きとして紹介させていただき、マイクをお渡しした。以前、「勉強のために見学に来ました」とおっしゃり、宮島老健局長とご一緒に施設見学され、夕方の利用者さんお見送り場面では、タイタニックラインと私が名づけた手ふり送迎の坂道で、お二人が並んで送迎車に手を振っていただいた写真が今でも村の宝である。

介護保険の質を高めることと経営をいかに両立させるかが問われますとズバリ。介護保険財政の安定化に資するようなものであり、サービスの質をますます高めていくことが肝要だとまず強調された。次いで、以前見学に来た時の利用者さんの顔つきにまず驚いた話。水先案内人と呼ばれる利用者さんが施設内を案内され、藤原は登場しないという楽しさ。ユーメという施設内通貨という発想、などなど。ユーモアたっぷりにお話しいただいた。

次に福祉ジャーナリスト村田幸子さんにお願いした。NHKのアナウンサー時代から勝手に存じ上げていた。生涯教育である江戸川大学の教授でもあり、3回ほど大学の教壇に立たせて頂いたが、同校の多くの学生さんが、ボランティアとして、浦安の施設の床張り、ペンキ塗り、家具の組み立て作業にご尽力いただいた。当日も、何名かの方がご出席いただいた。山口の夢のみずうみ村に見学に行って、夢のみずうみ村のファンクラブの一員になったと口火を切られた。ラジオ深夜便で「夢のみずうみ村物語」を紹介された話、人生の現役を養成していこうという試みが素敵であり、首都圏にできたことで、さらに多くの人たちに、この素敵な場所が知られていくことがうれしいと話された。村田さんのラジオ番組では、その後も何度か夢のみずうみ村のご紹介をいただいている。その反響は、放送翌日から問い合わせの電話が殺到するので、すぐに放送があったことが知れるのである。

市長の話に登場していただいた福祉自治体ネットワークの菅原弘子事務局長にマイクを向けた。「感無量ですね。」という言葉から話は始まった。この方が、いらっしゃらなかったら、夢のみずうみ村浦安は全くこの世にない。市ヶ谷にある福祉自治体ネットワークの事務局に何度も出向き、話し合いや、検討や報告の会合を重ねた。その都度、菅原事務局長は嫌な顔一つせず、熱心に、いろんな人たちとの難しい間を取り持っていただいたり、黙って見守っていただいたりした。スパッと、切れ味鋭く「やめた方がいいですよ」「それがいいですよ」と、判断が鈍る私に声掛けしていただいた。それがありがたかった。

山崎コールがあって、夢のみずうみ村に見学に行った話。大規模減算の影響で夢のみずうみが苦しんでいるのを見て、何とか安定化を果たさなくてはいけないが、藤原さん一人の力では限界がある。もっと、周囲の力を生かして運営を安定化させることが重要だと感じたと。浦安市の松崎市長さんは福祉政策に熱心に取り組まれている首長さんなので、夢のみずうみ村を知っていただいたら、必ずやってみようと即断されると感じて,NHKプロフェッショナルのDVDをお渡ししたと話された。

夢のみずうみ村浦安の土地と建物は、元ビクターの工場の跡地であり、地主は株式会社山崎商事さんである。会長の山崎登さんには、どうしても一言お話ししていただきたかった。施設の玄関前に掲げてある「人生の現役養成道場」の看板を直筆で書いていただいた。素敵な筆である。書いていただくまでのエピソードをさらっと紹介しお話しいただくことにした。

建物を壊すことなく改装していただいて活用していただくことがありがたい。しかも、松崎市長さんから、ぜひ素敵な施設なので作ってほしいといわれて、実際家族で山口の夢のみずうみ村に行ってみて、こういう素敵な施設がここで作っていただけるなら地主としても感謝したいと思ったと述べられた。店子としては、ありがたい言葉であり、長期間、夢のみずうみ村が発展していくことを誓いますと会場でも宣言させていただいた。

建築を担当していただいた、豊田工業の社長さんには、どうしても登場していただきたかった。「私はいいよ」とご遠慮されたが、この方のご尽力がなかったら、実質、首都圏に夢のみずうみ村はできなかった。

こうして、開村式の報告を読んでおられてお気づきと思うが、「この方がいらっしゃらなかったらできなかった」、という方々ばかりである。本当にそうだからそういうしかない。

みなさんの前で感謝の気持ちを表したかった。社長は浦安市内を、ご自分で運転する軽自動車であちこち回られる。腰の低い、謙虚そのものの社長である。社員がいかに素敵であるかがうかがい知れる。実際に素敵な現場監督、主任の皆さんであったと正直に私は会場で伝えた。素人集団である、我々職員や、ボランティアが、ヘルメットをかぶり、現場に入って、床張り、ペンキ塗りをすることを許して頂いた。おそらく、事故を起こしては大変であるにもかかわらず、神経を相当使われたのではあるまいか。現場管理者の石井さん、現場主任の大江さんに感謝を述べさせていただいた。

開所式に記念品として熊本の手作りうちわを用意したのであるが、それが当日間に合わないという不手際も、実に夢のみずうみ村らしい不始末であった。引き続き、懇親会を村で開いたのであるが、その料理もすぐには間に合わずあたふたした。ドタバタが夢のみずうみ村だと言い訳めいたことはしたくなかったが、やはりそうなった。情けない。

総勢210名ぐらいであったと思われるご来賓の方々に十分なご挨拶もできず、大変失礼をした。この場を借りてもお詫び申し上げておきたい。

会場でご祝辞をいただけなかったが、実に多くの関係者の方々から励ましをいただいた。ありがとうございました。

夢のみずうみ村は、こうして日本全国に発進する第一歩を刻みました。

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