月別アーカイブ: 3月 2012

「オーラ」は、「オイラ」でなく「ワレラ」だ

 私のブログが長いと皆が言う。それだけ、私の旅の移動時間が長いということなのである。 全て移動時間でこれを書いているからである。旅の慰め、暇つぶしなのだ。  今日は短い。  ある人を評して、あなたには「オーラ」があるという。「オーラ」って何だろう。私は、自分勝手な人間には「オイラ」があると呼ぶことにした。いつも、私は、とか、僕はねえ、とか、自分中心でものを言い、考える人間のことを指す。そういう人は「オイラ」が臭う。本来、「オーラ」なんてものは、ない。相手が勝手に感じる意識だから、自分には見えないし、わからないものなのだ。  「オイラ」しか発していない自分中心の人間は、「ワレラ」を目指せと申し上げたい。自己中心的な自分を、集団の中に溶け込ませ、みんなと一緒に、知的な自分に作り上げていくことが肝心だ。そうすると、仲間のほうから自分に溶け込んで来てもらえる。「オイラ」が「ワレラ」になる瞬間だ。 「オーラ」は「オイラ」ではなく、「ワレラ」の中から生まれる。  

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第7回 夢のみずうみ楽会 (2日目)

 二日目は、初日ほどの参加者数ではないだろうと思ったら大間違い。ちぎり絵の体験をしていただくために、テーブルを25台配置していたのだが、それが足りなくなった。100名を超えた証である。急きょテーブルを持ち出すような始末。  ちぎり絵作家、高澤裕美さんにご登壇頂いた。氏は、秋吉台で有名な山口県の秋芳町(現、美祢市)が、芸実家を招聘し、芸術活動を奨励する「まちづくり」をしようとした際に招かれたお一人であった。当地で、脳卒中を患われた。そのまま当地に残ってリハビリをされておられた延長線上で、夢のみずうみ村にお越しになった。  ひょんなことから、高澤さんが、ご高名な芸術家であることを総務課長が知った。芸儒家百選という分厚い専門誌に、ちぎり絵作家として掲載されている氏の名前を知った。  「夢のみずうみ村で ちぎり絵を利用者さんにご指導いただけないか」とお尋ねしたら、快くお引き受けいただいた。ただし、「片手でできますでしょうか」と尋ねられた。  作業療法士である私の出番だ。重しを置いて和紙を切ってみた。うまくいかない。わしは案外と固い。水彩画の筆で水をつけて目指す形よりやや大きめに塗り付け、その後であれば、たやすく和紙がちぎれた。高澤さんは、この方法で、片麻痺になられた以後、それまでよりも多くの時間をかけてではあるが作品を発表された。その作品は、国連のエイズ撲滅キャンペーンで賞をとったり、南アフリカの文化勲章を受けたりと、専門家の間では、片麻痺になられてから、さらなる評価を受けられたようなことだと批評文を拝見した。  今回は、「片麻痺でもできます ちぎり絵の世界」として、片麻痺の方はもとより、参会者は非利き手で、和紙に挑戦していただくことにした。白紙のはがきに、用意した和紙で花を描いていただくものである。花は、皆さんがわかりやすいのでチューリップを高澤さんは提案された。  ちぎり絵は、はり絵、塗り絵のように、あらかじめ輪郭が描いてあるものではない。全くの白紙に絵具等で絵を描くように、和紙を張り付けるものである。貼りつけた後、串を使って、はっきり線を作り出すやり方など、いくつかのテクニックを教わった。2台のカメラを使い、3つのスクリーンで手元を大写した。  チューリップ以外の花を作ったり、背景まで入れたりと、それぞれ見事な自作に酔っていたと感じた。  そのあとは、「片手で料理教室」「片手でゴルフ」「陶芸:フクロウづくり」の3つのプログラムに分かれて、各自が好きなコーナーに出向いて挑戦する趣向。  片手で料理教室は、料理教室の師範、臼田喜久枝さんに今回もご登壇頂いた。もう一方、体調を崩されていた師範代、米倉さん。この会にやって来ることを目標に、体調を回復され、見事に浦安に来られ指導していただいた。臼田師範は、この日のために、そば寿司とお稲荷さんづくりを用意。いつもの、3本釘を打ちつけたまな板を使って、そば寿司を片手で巻く。洗剤のキャップにすし飯を押し込み、握り状にして、それをアブラゲに包んでイナリ寿司の完成。  片手で自分が作れる驚き、それを自分で食べておいしい感動。にぎわった。  片手でゴルフは、隅谷さんのご指導。彼は、第3回の演者として、楽会に登場して、片麻痺ゴルフを紹介していただいた。その後、沖縄、久志岳カントリークラブ(沖縄)で開催した「夢のみずうみ杯片麻痺ゴルフコンペ」を運営していただき、そのまま、浦安デイサービスセンターが開設すると同時に職員になっていただいた経歴を持つ。 室内で打っても大丈夫なマジック付ゴルフで、通常のクラブを振りまわす方法で体験できる。彼が、今回も、実演しながら、参会者の多くに指導した。 後日談であるが、「来年の第3回片麻痺ゴルフ大会(沖縄、久志岳カントリークラブで予定)は、参会者が増える実感がしました」とのこと。 このブログをお読みいただいている方で、周りに片麻痺の方々がいらっしゃったら、経験者はもとより、未経験者でも興味をお持ちの方にぜひご紹介を頂きたい。 フクロウは幸運をもたらすのだという。防府デイ、山口デイ、いずれにおいてもよく作られている作品である。 講師の藤井美智子さんに、急きょ依頼したら、快くお引き受けいただいて実施したメニューである。萩焼の粘土で、作品は各自、心を込めてお作りになった。焼く時はどうするかということになった。急きょ、私が、野焼きの方法を紙にマジックで書きつけた。 業務用トマト缶(何でもいいが大きめの缶)の蓋を切り取り、落し蓋みたいに周りを狭める。缶の底に石ころを数個置き、落し蓋をおく。缶に風口を開ける。窯の用意はそれだけ。缶の中にフクロウを入れ、葉っぱ、細木、少し硬めの木を適当に加えながら、火で丸焼きにするわけである。注意すべきは、燃えるものを缶に入れる時に、作品に触れないことだ。どれだけの人が、素焼きのフクロウを完成させ満足されるか。私のにわか野焼きメモをコピーしてお持ち帰りになった。 最後に、全員が一堂に会した。今回の楽会。初日の舩後さんの話をまた私はした。 「生きていることがすばらしい」ということを再確認した体験を参会者全員ができたからだ。運営した職員一同、一人ひとりが同じく感動したことも後日談で聞いた。 素敵な第7回の楽会である。第8回は鹿児島で行うことを決めた。 舩後さんも、来年、鹿児島でハッピーミーティングをしていただくことを約束した。  購読をお勧めします あなたの生き方が変わります。 インターネットで 「しあわせの王様」でアクセスしましょう。ご購入いただけます。 舩後さんの著作「しあわせの王様」の本(小学館)税込 1575円 舩後ファミリー製作CD も どうぞ

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舩後康彦さんのエッセイ

衝撃的な題名ですが 最後までお読みくださいませ 作者の深い心がわかります エッセイ   『悔いなく死にたい貴方へ』 “自身への問い掛けをなさいませんか?”     舩後靖彦 一章.かつて私も  今、衝動的に死にたいと思っている貴方! 死にたいのに、どうしようかと迷っている貴方!  そして、悔いなく死にたいと思っている貴方! これを読んでから、あらためて行くべき道を選んで下さい。 ほんの、数分で読み終えます。 そして気が向いたら、後で申し上げる私の誘いと願いを、お聞き入れ下さい。  かつて私も、「死にたい 死にたい」と、2年に渡り願っていました。それは2000年5月、ここ2年で全身麻痺になるうえ呼吸不全を起こし、人工呼吸器で延命しなければ死亡する難病ALSに冒されていると、ある大学病院で言われてからの2年間です。「死にたい」 との願いは、最初の内はにわか雨のように気紛れなものでしたが、いよいよの頃には、つ まり呼吸があと数ヶ月で停止する頃には、その願いが竜巻の如く頭の中を逆巻いていまし た。それは、ALSとの告知を受けてからの2年で、麻痺により身体が急速に動かなくな ったり、口から物を食べられなくなったり、息を吸っても酸素が足らず目の前が薄暗くな ったり、同様酸素不足から来る、止まぬ頭痛に苦しめられたりで、体、ひいては人生その ものに絶望し、先に光りを見いだせなくなっていたからです。ましてALSと告知を受け る直前の頃の私は、宣伝マンに加え社長のアシスタントとして毎日のように海外とやり取 りをしたり、スイス・イタリア・香港などに二カ月ないし三ヶ月に一度は行くと言う、言 わば仕事人としての油がのり切っていた頃だったのです。それだけに、その絶望感と消失 感は己(おのれ)でも計り知れないほどのものがありました。ゆえ、先に光りなど、とても 見いだせなかったのです。 二章.自身に問う  ところが、「あと何週間くらいの命かな?」と、月明りのようにぼんやりと考え出した頃 のある日、主治医の指導でピアサポートと言う所謂“人に尽くす活動”をしていたからか、 大袈裟な言いようですが、朝日に照らされた大地の如くクッキリとそしてハッキリと、 「自分自身が延命して、人に尽くすと言う生きがいの元、幸せにならなければ、俺がして いるピアサポートなど単なる患者による、ALSになってからの苦労話に過ぎず、無意味 だ!」と思いました。ピアサポートのことでさえこれです。もうとても、自分が心底「死 にたい」と願っているなどと言うことを、信じられる筈もありません。そこで、あらため て、次のようなことを自分自身に問い掛けてみました。 「俺は家族をこの人生のなかで愛し切って来れただろうか? 人や草花は? 自分自身は? そして、それらを愛することによって得られる喜びや楽しさがもたらす満足感は、この人生で得られたのだろうか?いや、得られたのなら、“こんな病気にならなかったら娘の結婚式に出て、妻とその喜びをわかちあえたのに”などと思い患って、真夜中に口惜し泣などする筈はない。俺はやはり、これまでの人生で得られる筈のものを得られておらず、それを、いやそれらを得られるまで“本当は、このまま病気ごときでおめおめ死にたくなどないんだ”と、思ってやしないだろうか?」  と、 “自身への問い掛け”をした結果、 「本当は、死にたくなどないんだ」と言うことを、あらためて、本当にあらためて確信するまでに至りました。 「死にたい 死にたい」と、2年に渡り願っていた私でさえこの変わりようです。 今、死にたいと衝動的に思っている貴方がもし、私のように“自身への問い掛け”をしたなら、「本当は、死にたくなどない」と思うかもしれません。一度、“自身への問い掛け”をしてみたらどうでしょうか? 三章,諦めずに ところで、元来私と言う人間は諦めが悪く、小学校6年からの17年間、長いブランクは ありましたが、ふられても、ふられても妻に付きまとったすえ、結婚と言う喜びを手に入れたり、去り行く髪にどうしても別れを告げられず、35年に渡り頭皮に育毛剤を摩り込んだりする、とにかく周りから嘲笑されてもしつこくやるような、先にも述べましたように諦めが悪い奴なのです。そんな私なのに、前述のような“自身への問い掛け”をするまで は、自分でも不思議な位、“生きてゆく”ことを諦めていました。 … 続きを読む

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第7回 夢のみずうみ楽会(初日)

第7回 夢のみずうみ楽会  「生きていることがすばらしい」をテーマに、第7回夢のみずうみ楽会を、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターで開催した。200名を超える参加者があった。驚いた。施設見学希望の意図もあってのことと思うが、過去最高の参加数であった。 障がいをお持ちの方から直接学ぶという目的で始めた「楽会」は、とうとう7回を数えた。不勉強な私でも、これまで、色々な学会に何回かは出向いて勉強した。しかし、そこには、当事者(患者、利用者さん)はまず誰もなく、治療者側の人間が集まり、頭を擦り減らし、経験したことを数字や写真で分析するものであった。それはそれでリハビリ医療の発展に寄与するのだろうが、私は、そのうち嫌気がさしてきて、学会を遠ざけるようになった。自分が何もわかっていないことに気付いたからに他ならない。 どうしても、自分にはわかりそうにないと思えたこと、いや、もっと、研究するよりやる使命があるのではないかと思えてきたこと、研究する時間、もっと、現場に出た方が性に合っていると燃えだしたこと、研究する意義は認めるが、わかったような感じで推測し、考察することは許されていいのか、と思い始めたこと、などなどが要因で、結局、現場に走って逃げてきたのだと思う。学会はどうしても好きになれないでその後今まで来ている。  ところが、ある時、ある患者さんから教えられたのだ。それは、清水さんとおっしゃるALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんと出会ったことに始まる。当時勤務していたリハビリ病院が、清水さんの入院を拒否した。院長に詰問した。すると、総婦長に聞けとのこと。総婦長は「リハビリ病院レベルでの看護体制では、ALS患者さんをお引き受けすることができない。看護体制がない。ALSの患者さん個人が看護の時間をどれだけ独占すると思うのですか。」とびっしと言われた。いつもは、リハビリ科長であった私の言い分はすべて黙って納得承知されている総婦長からの一言。食い下がる気力も出なかった。  ALSの病名くらいしか覚えがなかった自分の無知を恥じた。毎日、外来で私のリハビリを受けに来られていた清水さんご家族と一緒に、病院探しを始めた。全く駄目であった。結局、行きついた先は、ALSの方が入院できる病院を、ベッドを開けてくれという運動を始めようと思い立ち、組織づくり(当初は、山口県ALS会)を決意して動き出したことだった。すると、日本ALS協会がすでに存在していることを知り、住所・電話番号を見つけて直ちに電話した。日本ALS協会の当時の松岡事務局長が早々に、私の勤務するリハビリ病院に来られ、清水さんともお会いして頂き、あれよあれよという間に、日本ALS協会山口県支部(全国で7番目に組織化した)の結成式を開催していた。大々的にマスコミも取り上げて、4名の患者さんが山口県内におられることが判明し組織化できた。  この、一連の動きの中で、私は、「患者さんから学ばずして何のリハビリのイロハか」ということを確信した。わかったような数字をいくら並べても、今この瞬間をいかに生きるか。この先ずっと、何をどういかして生活するか。すべては、毎日、毎秒、毎分の、生ものの生き様なのだ。医療の発展には、客観視も必要であろうが、リハビリテーション職は客観視より患者さんからの直感視であるべきだと強く教えられた。事実を知り、事実から推測するには、常に当事者から発せられねばならないと信じたのである。  大げさに分析したような表現になったが、結局、「楽会」を始めた動機を思い起こして書けばこういうことになる。当事者の方から学ぶことがあまりに多すぎる。それをもっと、深める研究、学習をすることが、この医療福祉には欠けていると実感していたのだと思う。夢のみずうみ村ができて、4年目だったと思うが、「第1回夢のみずうみ楽会」を、秋吉台国際芸術村で開催した。以来、山口県内で都合3回。第4回目富山市、第5回目沖縄県金武町、第6回目函館市。そして7回目である。    今回の基調講演は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者である舩後靖彦氏にお願いした。当初は、同病者であり、日本ALS協会2代目副会長である、松本茂さんを秋田からお迎えする予定にしていた。以前、秋田大潟村のご自宅に伺い、その生活場面、日常のリハビリに驚愕したので、ぜひ来ていただこうと考えたのだ。残念ながら、体調を崩され、かなわなかった。代役で、千葉県在住の舩後さんにお引き受けいただいた。  「生きる」と題した舩後さんの講演は、すさまじかった。  会場に登場することから講演は始まったといっていい。浦安デイサービスセンターの中央部正面に「丸の内」と称するエリアがあるが、そこをメイン舞台とした。ビール箱を張り巡らし、その上に、コンパネを張り付け、ビニールシートをかぶせた「にわか舞台」だ。舩後さん(氏とは、友人になれたので、馴れ馴れしく、今後、「彼」と書かせていただく)は、やや大きめの車いすをベッド状に倒して寝たきりのまま施設会場内に玄関から入場された。ご自宅から、1時間程度の車移動を経て、ちょっと控室で休まれた後だ。車椅子が舞台には上がれない。カメラが3台、スクリーン3つで丸の内に車椅子に横たわったままの彼を映し出した。  彼の手足は全く動かない。寝たきりである。しかし、口から息を吐く力を利用して、パソコン上にカーソルを移動させ、文字盤から1文字ずつ選択し確定することによって、言葉をつなげ、見事に会話ができる。完成した文章をパソコンがしゃべってくれる。「Yes」は、眼の下の筋肉が動いて、こちらにはっきりわかり伝わる。  事前に、ご自宅に伺い、2度打ち合わせをさせて頂いた。舩後さんが書かれた「しあわせの王様」(小学館)を買って読んだ。文面の、色々な箇所で立ち止まってしまった。涙が止まらない。ただ、軽々しく、生きているとか死ぬとかということが口走れないことをそこに知る。  病気の発症から、現在までを、この本の目次になっている短歌を、障子紙を細く切って書き出し、垂れ幕として会場に並べた。 宣告   告げられて我も男子と踏ん張るも その病名に震え止まらず 発病   十歳の愛娘(まなむすめ)との腕相撲 負けて嬉しい花一匁(はないちもんめ) 予兆   指もつれ鞄掴めぬ通勤路 たすきにかけて若者ぶって 不安   病院に行けば二度とは戻れぬと予感し あえて診察受けず 失態   妻の肩 杖にするとは情けなや 大黒柱となるべき我が ALS   筋萎縮性硬化症 ALSの禍々(まがまが)しき名 絶望   何をする気力も湧かず引きこもる ただ絶望の海に溺れて 否定   「不治」という単語ばかりが聞こえくる 病名告げる医師の唇 怒り   奈落へと転がり落ちて得たものは 千々に(ちぢに)砕けし自尊心かな 受容   歩きでは、最後といった散歩道 地に素足つけ別れを惜しむ 気管切開 「生きたけりゃ喉かっさばけ」と医師が言う 鼻では酸素間に合わないと 胃瘻   チューブから栄養摂取サイボーグ われは人なり手術を拒む 迷い   死を望む我に生きる意味 ありと覚悟を決めし日の空 生きがい 我がふみを読む同胞に笑みこぼれ 俺に成せるはこれと火が点く 命のメール 自死望む友に「死ぬな」と 動かない足で必死にメール打つ夜 表現者  障害を俺が世間にさらさねば 病友たちは隠れ住むまま 今井医師 使命から鬼にもなれる我が主治医 その目に浮かぶ涙に驚き 母    介護苦を知っているのに知らないと 我看る母に菩薩を見た日 妻    鬱来れば妻の香以外薬なし 漂いくれば不安和らぎ 現在   芋虫か寝返りさえも打てぬけど 夢で大空舞う大揚羽(あげは) 王様病  病苦さえ 運命(さだめ)がくれたゲームだと思える我は「しあわせの王」 挑戦者  俺らしく いまやれることをやりぬいて 走り続けん いまこの瞬間(とき)を  このブログの中の「舩後短歌」(彼はそう自身の短歌を呼んでいる)を、順に目を通して頂く中で、おそらく読者は、彼の壮絶な病気の発症から今までを知ることができる。余命3年と言われる病。自分に置き換えてみよう。自分だったらどう生きるか。生きるか死ぬかをどう選択するか。  基調講演では、まず、短歌を一つずつ読み上げ、彼の病気の発症から、現在までをたどる。  次いで、舩後靖彦作 絵本「子ネコのメグ」を、大型スクリーン(障子紙2枚を糊付けし、物干し竿にくくり付け高くのばした、にわかづくり)に映し出す。朗読は、彼の自宅に訪問看護されているナース。バックに、彼のお姉さんが、ピアノ演奏されて、その童話を聞いた。柔らかな絵本だった。 … 続きを読む

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生月島(いきつき)

こうしたブログに書く内容は、どれだけ私的なことを含めていいのだろうか。私は中学校3年から、2浪して大学に進学した20歳の頃まで、日記を毎日欠かさず書いていた。大学入学直後から児童養護施設で住み込み児童指導員を始めた。24時間勤務でメチャ忙しかった。欠かさず書いていた日記も、気づいたら2,3日空白が出始め、いつの間にか完全に書かなくなった。以来、日記はつけていない。 このブログは日記ではない。しかし、元来、書くことが好きなのだろうか、気づいたら、移動中の機内や路上脇のベンチなどで、ほとんどを書いている。日記は、どこかで、誰かに見られても仕方がないと感じて書くものだろうか。少なくとも、死後誰かの目に留まってもいいように自分をさらけ出しているのだと思う。ブログも限りなく日記だと考えようか。我が精神遍歴の原点と感じた「生月島」の旅をここに書きたい。 どうしても来たかった場所であった。私には行きたい場所がいくつかある。随分、あちこち巡ったので、これから先行ってみたい場所はあまりないのだが、あげてみると、やたら島が多い。利尻島、三宅島、宮古島、五島列島福江島。島でないところと言えば、下北半島と潮岬くらいだ。ほとんど全国を回り歩いた。そうした中で最も行きたかった生月島である。(今、このブログを見直し校正している場所が、新潟県村上市から一日2便しか連絡船が出ていない「粟島」行きの船を待っている待合室にいる。人口340人、周囲23キロの島。海には雪が舞っている。その島の高齢者介護をどうするか相談を受けたのだ。) さて、話は生月島のことだ。「生月大橋」ができる前は連絡船でなければいけなかった島。今は大きな橋が架かっている。だから、講演会の合間に、僕はここに来られた。 佐世保駅から休まずレンタカーでここまで来たので、橋のたもとの道の駅に立ち寄る。旅に出る度に、景品買いをする習慣がいつのころから身についている。年末の望年会の景品買いである。望年会では、藤原の景品を贈ることが恒例となった。1年をかけて、全国あちこち訪れる度に買いあさる。日持ちがするもので、もらってうれしいもの、300円から1000円以内のもの、これが目安。店員の二人の女性は、「もう、望年会の景品ですか?」と驚きながら、「これどうですか」と目の前にいろいろ差し出す。「いいね、いいね」と調子に乗った。 目指す生月島の宿には5時半についた。ついてすぐ6時から、実は夢のみずうみの仕事が待っているのだ。完全休暇というのは今の私にはありえない。まずは、仕事だ。 防府デイ、山口デイ、浦安デイ、さらにはこの日、別場所にいる二人、私と、もう一人、宮本志郎首都圏統合施設長との5か所を結んで、V-CUBEというテレビ会議をするのだ。「介護保険制度の改定に伴っての対策協議」3回目。 「7時過ぎには夕食にしてください」と宿の女将から言われていた。30分遅らせてくださいと頼んでいたにもかかわらず、会議は終わらない。 女将が何度も「食事です、準備ができております」と声をかけてくださる。申し訳ないが、会議の方が重要だ・・・!!!  夜は更けてどっと疲れが来た。 明けて3月3日、午後1時半から平戸で講演会をこなし、夕刻福岡まで戻り、常宿の博多西鉄イン泊。翌早朝、羽田に戻り、新横浜で講演するまでの「生月島休暇」である。  生月島は、14歳の時に、生月町に手紙を出した話から書こう。「あの橋のたもとで」というメロドラマがあった。戦後ラジオ番組で有名な「君の名は」の作家、菊田一夫が書いた脚本である。そこに生月島が出てくるのだ。テレビドラマは見ていないが、30代の島倉千代子が出演したそのドラマ。広告が新聞に載り、マドンナお千代さんに心がときめいた。本屋で小説を見つけて読んだ。そこに、主人公の彼女が、生月島に行く設定になっていた。「生きる」「月」「島」という言葉から醸し出すロマンチックな響きと、大好きな島倉千代子と悲恋話が少年の心を揺さぶったのではないかと思う。小説を書こうとしたこと自体理解できないが、どうしても尋ねてみたいと思い込んだことも今となってはよくわからない。しかし、やっと念願がかなった。 14歳の子供が、新聞に出ていた生月町役場の住所を頼りに、『小説を書くので、生月島に関する資料を送っていただけないか』と手紙を出したのである。ほどなく、町役場のどなたかから、結構な量の小包が広島の下宿先に届いた。いっぱい資料が包まれていた。今は跡形もない。その資料を片手に、いろいろイメージを膨らませたものだ。脚本も少し書いた気がするが手元にないし思い出せない。いい加減な性格そのもののエピソードだと我ながら驚くが懐かしい。50年に近い歳月が流れたことになる。 生月の最初に、「大バエ灯台」という場所を尋ねた。島の突端、高台に建つ。強風だ。以前、襟裳岬に立った時、やはり強風に吹かれた。その時よりはまだ緩い。襟裳岬では立っておられず、地面に手をついた記憶がする。しかし今日も結構な風だが立っておられる。 殉教の島、生月島に来て、熱心なカトリックの信者であった自分が突然変貌し始めている。それになんとなく気づきだしている。おそらく20代はじめだったろうか、ある時期から、「キリスト教は捨てた」「私は転びキリシタンだ」と吹聴していた自分がいた。いま、ここ大バエ灯台という島のはずれの寒風吹きすさぶ場所に立って、そのことを悔い始めている。なぜだか、悔いている。不思議な感情が湧き出てきている。キリスト教信仰ではない。宗教心とも違う。自分自身の内面から浮き出てくる感覚。過去の自分が今ここにいるという感覚であろうか。「捨てたのではない、離れたのだ。いつでも近づけるんだ」という思いがする。なぜだろうか。この場所、この生月の殉教者の聖地。 灯台の上に登って、360度東シナ海を眺める。灯台がかすかに揺れているような感覚がして、あわてて手すりを握りしめた。そんなはずはない。こんな灯台が揺れるかい? 「強風に気を付けてください」という看板の文字が恐怖心をあおったのか。本当に揺れている気がした。そんなはずはあるまい。しかし、高い灯台は、今、かすかに揺れて立っているのではないか、高い塔はそういう構造で強風に耐えているのではないか、などと勝手に想像しだすと、景色を眺める余裕などなくなり、怖くて下に降りた。 (パソコンを取り出し、レンタカー車内でここまで一気に書いた。) 「黒瀬の辻殉教碑」の前の祭壇にパソコンを置いて再び書きだす。ここが、生月のキリスト教徒の聖地である、(ここまで書いていたら、タクシーに乗って他の観光客が見えたので、すぐ下に続く公園の石のベンチに場所移動)  この聖地で、イエズス会神父が殉教している。「妻と子供と共に殉教」と碑文にある。 「え? イエズス会の神父は結婚してはいけないのではないか?」  かつて、高校1年生の時、広島学院の教師で神父でもあるアメリカ人のスミス先生から 「イエズス会の神父になれば、君の福祉の夢は実現できるよ。君は熱心な信者だから、どうイエズス会に入らないかい。考えてみないか?」と誘われた。 独身で生涯過ごす覚悟は16歳の少年にあったのだが、教義についていく自信がなかった。 だから、神父にはならず、イエズス会にも入らなかった。 生月島の大バエ灯台はすさまじい風だった。今、この黒瀬の辻殉教碑の前の祭壇は、風は収まって陽だまりに身をさらしている。 ここで殉教された神父は、妻帯されたようだ。そして子供も生まれた。少し驚いた。カトリックの神父の妻帯は許されないはずだ。プロテスタントの神父は許されている。この地で神父さんは、妻子ともども殉教された。そして、ここが生月島、隠れキリシタンの聖地となった。 涙が涌いてきた。 「なぜ、お前は泣くんだよ」と、叫んでみた。周りに誰もいないと思ったから、私は自分に声をかけた。 「わからない」 人を思う精神、弱い人(もの)をいとおしく感じる意識、強い権力を嫌う意識。お前は偽善者ではないか、そう、語りかけた時期も、若い頃随分とあったことを思い出す。結婚する前の20代前半ごろだったか。お前の福祉は偽善だと、高校時代に誰かと語り合っていたことも思い出した。養護施設時代は、もう、偽善もへったくれもない、ただ子どもが好きで、かわいそうな子供と思ったことなど一切なく、子どもたちと生活することをよしとした。大学に入って誘われたボランティアサークルの活動の延長で施設に住み込んだのだし、ただ性に合って、そのまま活動先の児童養護施設に住み込んで、福祉の道に入り込んでいたのだ。そのまま63歳まで、福祉の現場にいる。 「強くなくていい 弱くない生き方をすればいい」という拙著を書いた。その時、弱いものに自分が触れていく要因、幼いころから福祉を志した要因について書こうとした。その時には、この「殉教者」「迫害した者」ということを全く思い出さなかった。それほど、我が精神遍歴に影響していなかった要因かもしれない。しかし、生月島に来て、自分は全く忘れていた自分を思い出している。 ガスペル神父の記念碑があるが石が積み重ねられただけのものだが、そこに花を生ける筒が両サイドにおかれ、新鮮な花が活けて有った。石組みの後ろは、松の根元がむき出しになっている。お墓の前で十字を切った。自然とそうしたくなった。私の身体の中に秘められていたのか。何の不自然さもない。ただの石ころには見えなかった。見知らぬ神父の意思に十字を切ったのか。わからない、ただそうしていた。それが、私をして、我がキリスト教観、宗教観を考えざるを得なくさせていたと思う。 「迫害」「殉教」という事実に触れることによって、「弱いもの」「弱さ」と「真の強さ」というものに気付かされたのかもしれない。いや、それ以上に、実に何十年ぶりかで、神父さんの墓(というよりただの石のかたまりが置いてあるだけのモニュメント)を前にして、十字を切った自分。その自分のとった行為に自分で驚いている。迫害した人間のことを考えようとした自分。これまでは、殉教した人のことを主に考えていたような気がする。今日は迫害した人間のことも考えている。 キリスト教を捨てたのではなく離れているのではないかと思った自分。それもはっきりしないまま、生月島に浸っている自分がいる。 「殉教」という人間が人間に施した所業、権力が、人間の自由と精神を踏みにじった恐ろしさ。そういうものが我が精神の底にこびりついているのではないか。生月島はそれを私に教えている。 今、この生月の殉教の聖地に座っていて、自分の福祉の原点が、(もしかしたら、いや、確かに)“殉教”ということにあるのだと意識し始めている。島根県津和野町の乙女峠で迫害された少年たちや、殉教者の巡礼に参加した時のことを、如実に想起できる自分。今日、自分が無意識に切った十字架。自分の意識に潜在的に埋め込まれた、この“迫害と殉教”の人間業とそこに関わった人間の皆々。そして、この私。 ここに今立って、こうして風に吹かれ、そろそろ寒さを感じだした中、このワープロを打ちながらいろいろ書いて、感じている自分が生々しい。そのことを嬉しく思う。 どうしても、どう見ても、私はキリスト教の影響を受けている。それを生月、この地は知らしめてくれた。 また涙が出る。なぜ泣くのだろう。何に泣いているのだろう。無性に落ち着くこの場。私はキリスト教の教義を信仰していない。それは明白だ。しかし、キリスト教的環境の中で自分は落ち着いているし、落ち着く自分になることがわかる。それは生育歴から来るのか。 弱いものを迫害した権力、命を奪われても守ろうとしたもの、そういう強さと弱さというものの中に、自分は何かを感じ、血肉にしたのだろう。涙が出る。なぜ泣くのだろう。何に泣いているのだろう。無性に落ち着くこの場。 涙がどんどん涌いてきた。 … 続きを読む

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大失態

大失態をやらかした。9時羽田発に乗って福岡空港に行き、佐世保に行く予定であった。浦安から東西線にのって、羽田に近づくが、時間が間に合いそうもない。15分前には、手荷物検査を終えておかねばならない。間に合わない。 「キャリアーの中から、パソコンを出しておこう。少しでも早く、手荷物検査を終え、搭乗口まで走ろう」 決めたまでは正解だった。京成電鉄で、一番端っこの席に座っていながら、キャリアーから、パソコンを取り出し、左横において、身体をかがめて、キャリアーのファスナーを閉めた。準備万端。京成電鉄は羽田空港についた。  走った。キャリアーバックを右手に持って転がし、走った。この時点で10分前だから、もう間に合わないとは感じていた。もしかして、何らかの事情で飛行機の出発が遅れる場合もあるかもしれない。それに賭けよう。走った。エスカレーターを走り昇り、 「さあ、降りて手荷物カウンターに行くぞ!」と思った瞬間、 「あれえっ! パソコンがない! 手に持っていない!?」 すぐに、京成線に忘れたと気づく。逆戻り。あのパソコンを紛失したら、今日の講演会はもとより、今後にも大影響を及ぼす。あせった。走った。走った。こういう時は心臓が苦しくならない。やっとこさで京成電鉄改札口。事情を報告。乗っていた電車はすでに折り返したようだとのこと。[困った!!] 「何両目に乗っておられましたか」 職員はあわてて、到着駅に電話をかけながら私にどなる。 問われても覚えていない。しどろもどろしているうちに、目の前を、女性の係員が、見慣れたパソコンを持って向こうを歩いてきた。 「あれです。あのパソコンです!」 大声、身を乗り出していた。 「階段の上に落ちていましたよ」とその女性職員。 そんなはずはない。持って電車を降りた記憶はない。それでキャリアーバックを引っ張りながら落とす? ありえない。  飛行機の次の便を早く予約し直さないといけない。落ち着かず、また、カウンターまで走った。 結局、1便遅れて福岡行きに乗れた。とんだ醜態である。   私は、近年、こうした失態が連続している。随分、周囲のみんなに迷惑を変えている。 忙しいからだとみんなは言う。それは違うことを僕はよくわかっている。 

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