日別アーカイブ: 2012年3月23日

第7回 夢のみずうみ楽会(初日)

第7回 夢のみずうみ楽会  「生きていることがすばらしい」をテーマに、第7回夢のみずうみ楽会を、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターで開催した。200名を超える参加者があった。驚いた。施設見学希望の意図もあってのことと思うが、過去最高の参加数であった。 障がいをお持ちの方から直接学ぶという目的で始めた「楽会」は、とうとう7回を数えた。不勉強な私でも、これまで、色々な学会に何回かは出向いて勉強した。しかし、そこには、当事者(患者、利用者さん)はまず誰もなく、治療者側の人間が集まり、頭を擦り減らし、経験したことを数字や写真で分析するものであった。それはそれでリハビリ医療の発展に寄与するのだろうが、私は、そのうち嫌気がさしてきて、学会を遠ざけるようになった。自分が何もわかっていないことに気付いたからに他ならない。 どうしても、自分にはわかりそうにないと思えたこと、いや、もっと、研究するよりやる使命があるのではないかと思えてきたこと、研究する時間、もっと、現場に出た方が性に合っていると燃えだしたこと、研究する意義は認めるが、わかったような感じで推測し、考察することは許されていいのか、と思い始めたこと、などなどが要因で、結局、現場に走って逃げてきたのだと思う。学会はどうしても好きになれないでその後今まで来ている。  ところが、ある時、ある患者さんから教えられたのだ。それは、清水さんとおっしゃるALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんと出会ったことに始まる。当時勤務していたリハビリ病院が、清水さんの入院を拒否した。院長に詰問した。すると、総婦長に聞けとのこと。総婦長は「リハビリ病院レベルでの看護体制では、ALS患者さんをお引き受けすることができない。看護体制がない。ALSの患者さん個人が看護の時間をどれだけ独占すると思うのですか。」とびっしと言われた。いつもは、リハビリ科長であった私の言い分はすべて黙って納得承知されている総婦長からの一言。食い下がる気力も出なかった。  ALSの病名くらいしか覚えがなかった自分の無知を恥じた。毎日、外来で私のリハビリを受けに来られていた清水さんご家族と一緒に、病院探しを始めた。全く駄目であった。結局、行きついた先は、ALSの方が入院できる病院を、ベッドを開けてくれという運動を始めようと思い立ち、組織づくり(当初は、山口県ALS会)を決意して動き出したことだった。すると、日本ALS協会がすでに存在していることを知り、住所・電話番号を見つけて直ちに電話した。日本ALS協会の当時の松岡事務局長が早々に、私の勤務するリハビリ病院に来られ、清水さんともお会いして頂き、あれよあれよという間に、日本ALS協会山口県支部(全国で7番目に組織化した)の結成式を開催していた。大々的にマスコミも取り上げて、4名の患者さんが山口県内におられることが判明し組織化できた。  この、一連の動きの中で、私は、「患者さんから学ばずして何のリハビリのイロハか」ということを確信した。わかったような数字をいくら並べても、今この瞬間をいかに生きるか。この先ずっと、何をどういかして生活するか。すべては、毎日、毎秒、毎分の、生ものの生き様なのだ。医療の発展には、客観視も必要であろうが、リハビリテーション職は客観視より患者さんからの直感視であるべきだと強く教えられた。事実を知り、事実から推測するには、常に当事者から発せられねばならないと信じたのである。  大げさに分析したような表現になったが、結局、「楽会」を始めた動機を思い起こして書けばこういうことになる。当事者の方から学ぶことがあまりに多すぎる。それをもっと、深める研究、学習をすることが、この医療福祉には欠けていると実感していたのだと思う。夢のみずうみ村ができて、4年目だったと思うが、「第1回夢のみずうみ楽会」を、秋吉台国際芸術村で開催した。以来、山口県内で都合3回。第4回目富山市、第5回目沖縄県金武町、第6回目函館市。そして7回目である。    今回の基調講演は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者である舩後靖彦氏にお願いした。当初は、同病者であり、日本ALS協会2代目副会長である、松本茂さんを秋田からお迎えする予定にしていた。以前、秋田大潟村のご自宅に伺い、その生活場面、日常のリハビリに驚愕したので、ぜひ来ていただこうと考えたのだ。残念ながら、体調を崩され、かなわなかった。代役で、千葉県在住の舩後さんにお引き受けいただいた。  「生きる」と題した舩後さんの講演は、すさまじかった。  会場に登場することから講演は始まったといっていい。浦安デイサービスセンターの中央部正面に「丸の内」と称するエリアがあるが、そこをメイン舞台とした。ビール箱を張り巡らし、その上に、コンパネを張り付け、ビニールシートをかぶせた「にわか舞台」だ。舩後さん(氏とは、友人になれたので、馴れ馴れしく、今後、「彼」と書かせていただく)は、やや大きめの車いすをベッド状に倒して寝たきりのまま施設会場内に玄関から入場された。ご自宅から、1時間程度の車移動を経て、ちょっと控室で休まれた後だ。車椅子が舞台には上がれない。カメラが3台、スクリーン3つで丸の内に車椅子に横たわったままの彼を映し出した。  彼の手足は全く動かない。寝たきりである。しかし、口から息を吐く力を利用して、パソコン上にカーソルを移動させ、文字盤から1文字ずつ選択し確定することによって、言葉をつなげ、見事に会話ができる。完成した文章をパソコンがしゃべってくれる。「Yes」は、眼の下の筋肉が動いて、こちらにはっきりわかり伝わる。  事前に、ご自宅に伺い、2度打ち合わせをさせて頂いた。舩後さんが書かれた「しあわせの王様」(小学館)を買って読んだ。文面の、色々な箇所で立ち止まってしまった。涙が止まらない。ただ、軽々しく、生きているとか死ぬとかということが口走れないことをそこに知る。  病気の発症から、現在までを、この本の目次になっている短歌を、障子紙を細く切って書き出し、垂れ幕として会場に並べた。 宣告   告げられて我も男子と踏ん張るも その病名に震え止まらず 発病   十歳の愛娘(まなむすめ)との腕相撲 負けて嬉しい花一匁(はないちもんめ) 予兆   指もつれ鞄掴めぬ通勤路 たすきにかけて若者ぶって 不安   病院に行けば二度とは戻れぬと予感し あえて診察受けず 失態   妻の肩 杖にするとは情けなや 大黒柱となるべき我が ALS   筋萎縮性硬化症 ALSの禍々(まがまが)しき名 絶望   何をする気力も湧かず引きこもる ただ絶望の海に溺れて 否定   「不治」という単語ばかりが聞こえくる 病名告げる医師の唇 怒り   奈落へと転がり落ちて得たものは 千々に(ちぢに)砕けし自尊心かな 受容   歩きでは、最後といった散歩道 地に素足つけ別れを惜しむ 気管切開 「生きたけりゃ喉かっさばけ」と医師が言う 鼻では酸素間に合わないと 胃瘻   チューブから栄養摂取サイボーグ われは人なり手術を拒む 迷い   死を望む我に生きる意味 ありと覚悟を決めし日の空 生きがい 我がふみを読む同胞に笑みこぼれ 俺に成せるはこれと火が点く 命のメール 自死望む友に「死ぬな」と 動かない足で必死にメール打つ夜 表現者  障害を俺が世間にさらさねば 病友たちは隠れ住むまま 今井医師 使命から鬼にもなれる我が主治医 その目に浮かぶ涙に驚き 母    介護苦を知っているのに知らないと 我看る母に菩薩を見た日 妻    鬱来れば妻の香以外薬なし 漂いくれば不安和らぎ 現在   芋虫か寝返りさえも打てぬけど 夢で大空舞う大揚羽(あげは) 王様病  病苦さえ 運命(さだめ)がくれたゲームだと思える我は「しあわせの王」 挑戦者  俺らしく いまやれることをやりぬいて 走り続けん いまこの瞬間(とき)を  このブログの中の「舩後短歌」(彼はそう自身の短歌を呼んでいる)を、順に目を通して頂く中で、おそらく読者は、彼の壮絶な病気の発症から今までを知ることができる。余命3年と言われる病。自分に置き換えてみよう。自分だったらどう生きるか。生きるか死ぬかをどう選択するか。  基調講演では、まず、短歌を一つずつ読み上げ、彼の病気の発症から、現在までをたどる。  次いで、舩後靖彦作 絵本「子ネコのメグ」を、大型スクリーン(障子紙2枚を糊付けし、物干し竿にくくり付け高くのばした、にわかづくり)に映し出す。朗読は、彼の自宅に訪問看護されているナース。バックに、彼のお姉さんが、ピアノ演奏されて、その童話を聞いた。柔らかな絵本だった。 … 続きを読む

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