小宮山洋子厚生労働大臣 防府デイ ご見学

小宮山洋子厚労大臣が225日夢のみずうみ村防府デイサービスセンターに見学に来られた。私より30センチ程度小柄でいらっしゃるが、スマイルは変わらず、美人アナウンサーでいらした当時の面影のまま、私の目の前に登場された。同じ年であると我がスタッフが教えてくれた。信じられないお肌の艶のよさだ。

一昨日と昨日、NHKテレビの衆・参と続いた予算委員会での映像で拝見していたので、強行軍での旅程であろう。テレビ画面からまさに登場である。

 大臣は謙虚であった。利用者さんの前では、必ず、目線は、同じか下にするべく、腰をかがめ、床にひざを折り、低い姿勢を保持された。それがごくごく自然になされるのがすごい。うなずき、相づちを打たれながら話を聴かれる。この方はカウンセラーではない政治家である、大臣である。感動した。やはり私は小宮山洋子さんのファンでよかった。

 小宮山大臣とは二度目の顔合わせである。そのことをお話したら、「当時は大臣ではなかったですよね」とお答えいただいた。日本アビリィティーズ社の伊藤会長の手合せで、晴海のビッグサイトの展示場でお会いしたのであった。それ以来である。

 厚労大臣が、夢のみずうみ村に見学に来られること自体が画期的である。ありがたい。

見学の最中から、「利用者さんの笑顔が素敵ですねえ。表情が生き生き、皆さんされている!」

という発言を何度も耳にした。圧巻は、「食工房」と呼んでいる場所で、食パンをオーブンから取り出した瞬間の場面に遭遇された時だ。いろいろ利用さんと会話された。相当感激された様子であった。

 利用者さんと大臣はあちこちの場面で会話を交わされた。パソコンを打っておられた方、麻雀ゲームをされていた方、パワーリハビリの訓練器具で手足の運動をしている方、パッチワークでバッグを作っておられた4人集団、園芸療法をされている方々、木工ろくろでお盆を作っておられた方など、ごく自然に会話が生まれた。利用者さんの方も、特別な振る舞いでなく、いつも通りの感じで語りあわれた。

大臣があれだけニコニコ顔で回られたことが嬉しかったですねと、山口県庁から付いて来られた役職の方も、また、マスコミ関係者の方々も、異口同音の反応であった。嬉しい限りである。

来年、世田谷で始める予定の「住民参加型通所介護施設」の話に及び、ご当地が大臣の選挙区であるということや、大臣のお供をしてきた厚生労働省秘書官が、私の中学高校の後輩であったことなど、「ご縁がありますね」という話になった。実に温かい見学であった。

 

今日の見学予定は、施設玄関で2時半にお迎えし、3時半に見学を終え、10分間、ぶら下がりというマスコミインタビュータイムをとり、340分にお帰りという、スケジュールであった。ほぼ予定通りで終了した。

 それにしても、大臣が移動されるということはすさまじい警備である。大臣にいささかなりともお怪我でもあれば、大変なことになるのだろう。驚くほどの警備体制が敷かれた。驚いた。玄関で大臣より1時間も早く警備担当の刑事さんが大勢着かれた。厳しいムードを醸し出される。警察の方だと誰もが直感できるような方たちである。福祉の現場の方では絶対にないとわかる。餅は餅屋だ。これでなくては警備にならぬ。

 事務次長が、何度も、事前に施設内図面を提示し相談を重ね、どういう経路で大臣が回られるかを詳しく下見され、予定順路ができあがっていた。今日私は初めてそれを見た。

 「順路通りにいかないと警備の方が困られますから、いいですね」と事務次長がうるさく私に言う。これだけ、がんじがらめに、厳しく言われると、私の虫が騒ぐ。「言うとおりにできるはずはないよ。現場は生きものなのだよ」と思い、思わず言葉を発した。

 「見学は施設内だよ。道路上ではない。なぜそんなに警備する必要性があるのかい?」

 事務次長に食い下がるが、県庁や労働局や警察の方々と何度も打ち合わせしてきた立場としては、私の発言は許されない範疇らしい。「だめです」と一言。当然の発言であったのだろうが、私には合点がいかないまま、大臣を迎えた。

「包丁や、のこぎりなどを棚の下に閉まっていただけないか」と警備のトップの方が、大臣がお着きになる直前に玄関先でおっしゃった。トップが、トップである私への依頼である。

「我が施設はバリアありの施設です。危険なものありの施設ですから、隠す必要性がないし、そうすること自体が理念に反します」

と申し上げた。それしか言いようがなかった。隠そうが隠すまいが、どうでもいいと瞬間思ったが、それは、絶対まずいと直感。譲れない私の部分であった。

「スタッフをその近辺に重点配備しましょう。わかりました。結構です」

すんなりご了解を頂いた。よかった。

もう一つ、警備の方からおしかり(?)を受けた。どうしても順路を変えて、食パンづくりのオーブンから取り出すグッドタイミングに大臣が遭遇されるようにしたかったのである。私は勝手にコースを変えようとした。すぐに警備の方から、「それは困る。事前にだから何度も打ち合わせをさせて頂いたではないか」と食い下がられた。「事前の順路案に基づいて警備の方々,(総勢12名程度ではなかったろうか)それぞれに配置業務についているのだから、変更はやめてほしい」と言われた。

貴重な大臣のご訪問である。パンの出来上がり場面に遭遇されるか、パンを取り出した後の、においだけが残るオーブンを見て、そこを通過されるか。私は覚悟を決めた。

責任を私が負えばいい。

「すいませんが、コースを少しだけ、さかさまにしていただきたい」と申し出た。

現場のトップの方は、まさに刑事さんという凛々しい方であり、妥協を許さない厳しさを前面に持たれている方である。私は拝顔せず、ただ深く頭を垂れてお願いした。

良いともダメとも回答がない。そのことが彼の回答であると判断し、私はそのままコースを変えた。それが見事に図にあたり、ベストタイミングであった。パンが取り出された瞬間に、大臣が出くわすという展開となった。食パンの先生役である利用者さんの吉岡さんも、大臣にぜひ見てほしくて、必死にタイミングを図ってくださったとのことである

私は、あの気難しそうだった刑事さんに、このブログ上で御礼申し上げたい。事前相談し双方が確認したうえでの順路である。私は、その結果だけを事務次長から聞いてそれに従わなければならない立場でありながら、それを勝手に無視したのである。現場警備責任者の方は、当然、「それは困ります」とおっしゃらなければなるまい。それを無視した私を、無言で対処された。胸の中、腹の内は、相当煮えくり返るものを私が与えてしまったと察して余りある。その刑事さんは一番最後に村を離れられた。車で帰られる時、私はただただ感謝の気持ちで深く頭を垂れた。ありがたかった。警備される立場はかくあるものだと勉強になった。

大臣がお見えになるといっても、我が施設は、せいぜい、普段より丁寧に掃除したぐらいで、特別のことはなく、普段通り。当日の朝、利用者さんに、送迎車の中で「大臣がお見えになります。カメラや写真に写って困る方は、その旨おっしゃってくださいませ」と通常のマスコミ対策の手配。

大臣と一緒にぞろぞろ大人数が、利用者さんの活動されている場面に、ずかずかと入り込むので、その都度、スタッフがお断りを申し上げる。日頃から、見学者が多く、皆さん慣れておられるからだろうか。普段と変わらない。それが私は一番うれしかった。大臣もそういう反応でいらして、特別な感じではなく、ざっくばらんに、日頃の会話をされた感じであった。

「こういう夢のみずうみ村のような施設を、どんどんあちこちに作りたいですね」と、大臣がマスコミの方々に語っておられるのを、そばで聞いた。うちのような施設が本当にあちこちにできるといいなと今日も思った。

警備の方々も「尋常ではない施設」に大臣がやって来られたな、と、大いに実感を持たれたと思う。今日はそういう楽しい、素敵な日であった。

 

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帯広~沖縄の移動

マイナス11度の帯広から 沖縄に急きょ行かざるをえなくなった。予定変更は、多くの人間に迷惑をかけるが、これだけ手広く仕事を引き受け、展開していたら、致し方がないと思うのは私の勝手であろう。相手は相当困惑されるだろうし、私は信用を徐々に失っている。仕事の優先順位、行動の優先順位という判断を間違えず、即断することだろうが私は無能だ。流されてしまうことが多い。山頭火でいいと思い始めているから、益々信用を失うかもしれないが、私の人生はこのまま閃光のごとく朽ちていかざるを得まい。実際、夢のみずうみ村の腹心の部下はもとより、多くの現場スタッフに、十分な声や手をかけることなく、思い付きで指示したり、勝手に依頼したり、深く考えない一事を発して困らせたりしている。本当に、私は、望ましいリーダーたり得ていない。精進すべきだと反省。

2日前、常宿である、浦安の自宅から、浦安のデイサービスに40分立ち寄り、羽田経由で福岡。講演を終え、現地で主催者と懇談、宿泊。翌早朝、茨城土浦に向かい講演、終えて直ちに世田谷区で新しく始める予定の夢のみずうみ村新樹苑(仮称)にて住民説明会。終えて浦安のデイサービスで深夜まで会議。翌朝、羽田まで急ぎ帯広へきた次第。

昨日は、本別で講演会。宿泊先の本別グランドホテルを早朝出発。頬が切れるような寒さ。心地いい。レンタカーを飛ばして帯広空港に。360度白銀の世界は、心をいやすが、心曇る難題に追われて空港に向かった。左右一面の雪の中、直線がずっと続く北海道の一本道。凍っていた。

 

現在の私の行動、思考内容は、一貫性があるようでない。追い立てられているからだ。

夢のみずうみ村デイサービス3か所、小規模多機能型介護施設3か所、就労支援事業1か所、フランチャイズ施設4か所、琉球リハビリテーション学院長と山口コ・メディカル学院顧問。沖縄では、ラジオ沖縄の「ゴーインにマイウエイ」という番組(毎月第2日曜日夜10時から11時まで)を知念常光さんとやっている。来年7月をスタート目安として、世田谷区に、住民参加型通所介護施設を開始すべく区や住民と話し合ってゴタゴタ。愛知県高浜市の市長や市民と一緒に「健康自生地高浜」という“まちづくり事業”の推進、2年目に入り、住民40名と喧々諤々。山口県内に、農業を中心とする就労支援事業所と身体障害者の方々の入所施設を作りたいと動き始めた。職員の駐車場も限界、防府デイ、山口デイの増築相談。エルダー旅籠(介護付きホテル)、サービス付き高齢者住宅(夢のみずうみバージョン)の企画・建設案件を建築事務所と相談。厚生労働省のモデル事業は、スタッフが頑張ってくれているが、中味のチェック・思考に結構、時間をとられる。そうした中での、こうした合間に、講演会を引き受けている。さらに、今回の介護保険制度改定による対策検討。新しい評価法「精神機能評価法」のシステムづくりが急がれ、一人での思考はもはや限界。仲間の作業療法士諸君に呼びかけた。

これらのエトセトラが、現在、私が自分の身体と時間を使っているすべてだ。一貫性がないから、積み重ねが弱い。要は、いい加減なのだ。だけど私は必死で、目の前に与えられた課題、起こってきた難題に必死にもがき走り回り、最善を尽くすが、それがbestbetterは望むべくもなく。badってこともあるかもしれないが、それを反芻することさえできない。決してこうした暮らしがいいはずはないが、今は坂道を走っている。立ち止まれない人生だ。立ち寄る先々での周りの多くのスタッフに支えられながら、何とかこなしている実態だ。追われながら、走りながら、現場を離れることが多くなっている自分が怖いが、ただ動いている。雑多な事象が起こり、想定内のこともあるが、想定外のことが年明けからあまりに多い。今年はどういう年になっていくのだろう。愚痴ってこれを書いているわけでもない。ただ書きたいから書いた。おそらく、帯広が寒いからであろうか。この冷気が、原点に戻れと問うているのだろうか。

 

マイナス11度から、沖縄は21度であった。そして今、沖縄から福岡経由で山口に戻る機内。博多は寒そうだ。 

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1+1-4は-2 

写真を撮る際に カメラマンが叫ぶ 「イチ(1)たすイチ(1)は?」と。撮られる側は、一斉に「ニー(2)!」と答える。いつごろからはじまった口上のだろう。「ニー(2)」と答える口元が、かわいらしいとか、愛らしい顔立ちになるとか、いろいろ聞いた。硬い表情が崩れることは実に素敵なことだ。

ちょっと話は変わるが、昨日から、明日まで、第4回上田法多職種認定講習会を浦安デイサービスセンターで開催している。その最中の昨日の朝、甥っ子で、脳性麻痺の平井裕太が亡くなった。重度ではあったが、母親(義理の妹)がしっかり訓練してきたおかげで、長生きをしてくれたと私は感謝している。ずいぶん、訓練した。ボバース法、ボイタ法、そして、私が上田法のインストラクターになってからは、上田法の訓練をしてきた。無念にも亡くなった父親(義弟)に裕太は似ていて、遊具を手で触ってにっこりしてくれた顔を私はいつも思い出す。ひげ面になっても、あの顔が私の頭から離れない。なぜなら、日本作業療法士協会が編集した「脳性麻痺」というビデオに、裕太が写っていて、それを授業で使って見るたびに、幼い裕太がよみがえってくる経験を重ねたからだろうと思っている。裕太がなくなっても講習会を主催する私は、明日の閉講式が終わる迄身動きできない。お通夜に参列できそうだ。

全く、無関係のような裕太の話かもしれないが、この講習会の中で、思わぬ出来事が偶然、ふと私の口から洩れた。それは、上田法講習会参加者の集合写真を恒例により、表玄関前で撮影する際の話だ。夢のみずうみ村の職員、井上君がカメラマン役で、「はいチーズ」と言ってシャッターを切った。その瞬間は何も思わなかった。いつも通り、誰かれとなく、そう大きくもない声で「ニー(2)」と答えた。

その後、施設内の部屋に戻って、グループ別の集合写真を上田法国際インストラクターの水上君がとり始めた。彼が「1+1は?」と、メンバー全員に尋ねる。一同、「2」と答える。さて、次のグループに移って写真を取ろうとした彼の姿を見ていた私の口から、なんということか自然に言葉が漏れた。

「イチ(1) 足す イチ(1) 引く ヨン(4)は?」

一同が 「マイナス ニー(2)」と答える。 素晴らしい。「ニー」と返事しているのだ。ただし、その前に、マイナスをつけている。それが却って、口の動きを滑らかにしていいのではないかと思った。

単純に「1+1は?」「2」で答えるのとどこが違うのだろう。

私は今、ここに、メールを残しておこう。「1+1-4は?」という、写真を写る際の掛け声を発祥させたと宣言したいと思い、ここに書き記す。裕太が亡くなったからだ。裕太が亡くなった記念に私は、これを日本中に広まることを願いたい。広めてほしい。裕太がどういう人間で、どういう生きざまをしたが誰も知らなくていい。ただ、「1+1-4」は 裕太の亡くなった日の翌日に生まれた。裕太の死をしっかり、自分のものとしておきたいがゆえに、叔父の私は、このメールをしたためた。

いつの日か、日本どこかで、いや、どこでも、「1+1―4は?」「マイナス2」が広がっていくこととを信じている。裕太の生きてきたこと、亡くなったメモリアルとして、「1+1―4は?」「マイナス2」をこのブログに記しておきたい。このフレーズは、平井裕太と藤原茂の合作である。

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真っ黒な手帳

私のシステム手帳を除いた人は驚く。「これ? わかるのですか?」と聞かれる。その日の予定は、ボールペン、黒、赤、青サインペンが入り乱れ、最初は細かく書き込んだ予定が、ボールペンで横殴りで消されたり、〇で囲んだり、星印、米印がついたり、その上を、赤サインペンで覆ったり。これらの隙間を縫って、青サインペンで、ちょこっと、時間や、予定が入り込んだり。これぞ困ったというように、黒サインペンがそこいらを覆いつくしたり。それでも、どうしようもない日程が入り込むと、太赤サインペンが席巻して、覆い尽くしたり、隣のページまで入り込んだりする。書いた字を自分でも読めなくなったり、間違えたりすることもしばしば。スマートに、電子手帳や、携帯電話でスケジュール管理してはどうかというアドバイスを何度も受けた。しかし、このシステム手帳、すでに2代目であり、10年近くは使い込んだと思うが、これがいいのだ。重たいのがいい。ぐちゃぐちゃ・まっ黒けがいい。一目で、「今週は忙しい」「この辺りはまだ少し暇」とわかる。真っ白であれば、何も予定がない。来年3月末日までがすぐ見える。過ぎ去った日々を、この手帳の汚れ具合でいとおしむ。「ようがんばたなあ」と、自分に声掛けできる。これが、電子手帳だと、さっと、消えたり、流れてしまって味気ないどころかだ。まさに光陰矢のごとしで面白くない。私の日々は、過ぎ去っても、まだ、この手帳の中に残っている。だから、この手帳は離せない。常に、身の回りにおいている。スタッフはよく知っているが、この手帳をあちこち置き忘れ、慌てふためく。情けない。2日前小倉のホテル。一昨日、浦安の自宅。昨夜、ここ沖縄のホテル。どこに、自分は今いるのかすら手帳を見ないとわからないこともしばしば起きる。手帳は我が身である。3月下旬まで真っ黒だ。

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23年末から24年始、早々の出来事

この、ブログを書き出したのは年末30日だった。いまこれを書いている今日、1月19日。やっと、公開できる。浦安、長久手、高浜と移動し、沖縄に向かう機内だ。明日は八王子だ。相変わらずの毎日である。

 私は、書くことが好きだ。このブログは、私の生き様であり、私自身の内部、感性を知っていただくことにつながると思って書いてみようと覚悟していつも書く。私は、個性が強く、豪気に見えるかもしれない。身勝手で、自由奔放で、我がままで、いい加減・・・という印象を持たれる方も多いのではあるまいか。顔がああいう顔だし、声がでかいし、話すと自分の言いたいことを言いたくて止まらない。そういう点が誤解されるきっかけだと思う。私の血液型はA型である。私と付き合った方はそれに気づく。付き合いの浅い方は、「O型ですか」と聞かれ、事実を知って驚かれる型が実に多い。私はA型そのもの人間なのだ。自分で言うのは実に僭越だが、繊細なのだ。自分で言えば世話はない。誰にもわかってもらえないが、この歳になって、そんなことはどうでもいいと感じだした。自分で、自分にうまく付き合い始めたからだ。「自分」で、「まだ気づかない自分」に気付くことは面白く楽しい、感動ものである。62歳を過ぎ、63歳になるかどうかという頃から感じ始めた気がする。年を取ってしまったのだ。

 自白の話は、これくらいにして、今回の話題、年末年始の話を書こう。

  昨年末28日に、浦安デイサービスセンターの望年会(出席者28名)、浦安の、ホテルで行った。会の最中に、ディズニーランドで打ちあげた花火が見えたことが忘れられない出来事になった。29日は防府市で山口地区、防府地区の合同望年会。参加施設は、山口・防府デイサービスと3つの小規模多機能型施設、夢ハウス仁井令、夢ハウス湯田・夢ハウス丸山、および、就労支援事業所「夢結び」の職員と、社会福祉法人理事や評議員の方々で、総勢149名。多くのスタッフが、夢のみずうみ村づくりに参加しておられるという証である。恒例の5年勤続職員お表彰を壇上で行った。今、本部で活躍してくれているメンバーや、システム部の二人ほか、重鎮が目白押しだった。夢のみずうみ村の5年は、おそらく密度の濃い年月なのだと顔ぶれを見ながら感じた。永年勤続表彰ほど素敵な機会はない。何人になろうと、私は、「以下同文・・」ではなく、おひとりお一人に、全文を読み上げて、感謝状をお渡ししたい。今年もそう思った。

  私はひねくれ者なので、正月を控えても、車の洗車、大掃除はあえてしない。元旦は、ここ3年、決まって本部事務所の個人の机の大掃除。元日恒例となった。1年間で最もゆっくりしている時間帯だ。自分のデスクの後ろの狭い空間に座り込む。部屋の暖房をつけ、背中からストーブ。山ほど積み重ねられた書類の整理。今年はビニール袋7個のごみ出し。何も元日にしなくてもといいではないか、声が聞こえる。普段は掃除をする意識が私にない。いや、前しか向いて走るしか意識していないのだろう、片づけようというちょっと立ち止まる時間を使わない性分なのだろう。昨年は元日と翌日の2日間かけた。今年は1日だけで終わった。それだけ、山口の本部デスクに座る機会が少なかった証だ。

 子どものころから、「使ったら元に戻しなさい。ただそれだけのことがなぜできないか」と母からしばしば叱られた。夜中、寝付く前、母が、私の机の中を見て、ごちゃごちゃ整理ができていないものだから、すべての引き出しの中味を机の上にさらけ出し、それをきれいにすべて仕舞いきるまで寝るな、と叱られる。冬の寒い時などは、寝間着もはだけてぶるぶる震えた。容赦ない。父や祖母が、明日でもいいではないか、朝でもいいではないかと一声かけてくれるが母の一声は絶対的だ。随分とこの机の整理はやらされた。其れなのに、この歳になっても一向に整理できない性分は治らない。「教育とは、本人が内面化して、自ら気づかない限り、いかなる働きかけも意味をなさない」。実体験からの定見である。一向にこの歳になるまで改善していないのだから。しかし、さすがに、この歳になると、意識が整理整頓に向くことが起きる。今年も、去年の元日からぴったり1年たっての整理整頓、清掃だ。 申し訳ないが、周囲は散らかし放題だ。だから、他のスタッフよりやや多めの空間を占拠している。おまけに浦安にも、初めて、理事長室という名の個室ができている。そこの整理はしないまま、山口に戻ってきた。あの部屋はいつするのだろう、少しずつ散らかってきた。情けない性分だ。

 年末は、年賀状書きで丸1日必要。掃除で1日。それ以外に、毎年恒例となった「おせちづくり」がある。31日に、小規模多機能型施設夢ハウスのお節料理づくりと、年越しそばづくりに出向く。今年からは、仁井令(にいりょう)をはじめとして、湯田、丸山の3か所があるのだ。一つずつ回っていたら時間が足らない。今年は、小規模多機能型施設「夢ハウス湯田」で年越しされる利用者さんはお一人だという。31日は日中3人通所しておられるので、恒例の寒ブリ1本を持ち込んだ。               

 今年は、萩市沖合の天然ブリ、6800円(安い!!)を3本買って、その1本を持ち込んだ。おそらく「夢のみずうみ村のホームページ」の「職員のブログ」で、写真入りで誰かがその模様を報告するだろう。それだけ今年も感動的だった。魚を、まな板に広げた時の驚きの眼。さばいている最中もじっと見つめる眼。刺身を切って並べた大皿に手が伸びる。それがすごい。手が動くのだ。食べてお代りに手が伸びる。「うまい」とあちこち声がする。

(これを書いたのは正月早々だったと思うが、今日は1月18日。職員ブログをアクセスして見た。やはり、ぶりが写真に写っている。しっかり、調理経過も載っている。利用者さんが喜んでくださるのもうれしいが、職員に感動してもらえるのも実に嬉しい。やめられない年末行事である)

 午後からは、新しくできた小規模多機能型施設夢ハウス「丸山」に「仁井令」のお年寄りに集合していただき、そば打ちをした。年越しそばを作る役割がいつのころからだろう、藤原の仕事になっていた。そう思っているのは私だけでもいい。勝手に作っていた。ところが今年は、そば粉を買ってきて、みなさんで打って食べようということにした。

 まな板、のばし棒も買い揃え、いざ、夢ハウス丸山へ。すでに、7人くらいのお年寄りがテーブルに座って居られた。ボールにそば粉を入れ、水を足し、手に粉がべとべとくっついても、とにかく、こねる、こねる。ワイワイガヤガヤ。若いスタッフのほうが喜んでいる。いや、利用者さんも、「どうする?」「手にくっついた」「肩が痛いよ」「もういい?」などなど言葉がいっぱい出てくる。参加されない方は一人もない。皆さんが「そばコネ」をされた。さあ、板の上に、打ち粉をして、こねた「そば」をさらにこねるぞー。

 「粉引(木挽き)歌ってあるでしょ?」 木を切るだけじゃあなく、粉をこねる時も、歌を歌った方がいいソバができるのですよ」

勝手なことを私が言い、大好きな「刈り干し切り唄」を唐突に歌い始めた。歌いたい気分になってしまったのだ。ゆったりとしたメロディーを、大声で歌いだしたが、場の雰囲気に全くなじまないと直感。始めたから、メンツにかけてやめるわけにはいかない。宮崎の民謡で、夕方の畑仕事を終えた農夫が、駒(労働馬)にさあ帰ろうかという歌詞だ。 

(1)ここの山の 刈り干しゃあ― すんだョ-

   あとは 田んぼで 稲刈ろうかョー 

(2)もはや 日暮れじゃあぞーい 田のクロ道をョー

   駒よ いぬるぞー  馬草おえよー

 これまでの人生で、自分自身が薄暗く淋しい時や、くたびれた時に、自然と口ずさんできた愛唱歌である。修学旅行で、素敵なバスガイドさんから習った。以来、この歳まで、何か落ち込んで回復しかける頃か、回復のきっかけかになるような場面で、ふと口ずさんでいる。情けないジメジメ男なのだ。

 しかし、今回は、粉引ということで、メロディーではなく、文字から連想して歌おうと感じたのだろう。歌ってしまっていた。「粉ひき」に合うはずがないスローな歌。しかし、突然、私が歌いだしたものだから、スタッフがまず驚いた。利用者さんは無反応だったと思うが定かでない。しかし、歌いだしたからには、2番までしっかり歌った。次に何を歌おうか、何か次に歌わないとしらけるぞー。「刈り干し切り唄」の終わりごろから頭で考えていた。「景気のいい歌がいい。それしかないだろう藤原君!」。自分に気合を入れた。

「まつしーまーの サアよー 瑞巌寺…」。大漁節だ。

利用者さんが、私の「エンヤートッと、エンヤートッと」の大声につられて、口から声が出始める。こうなれば私の得意とするところだ。歌いながら、そばをたたいたり、持ち上げて、まな板にぶつけてリズムをとった。

 ついで「ソーラン節」。結構、みなさんが歌い始められた。職員も声が出始めた。しめた。

 私は益々調子に乗った。

 「月が- でたでーたー 月がァ でたー よいよい」

「炭坑節」ほど、日本人に知られた歌はない。若いスタッフも、それまで、全く口を開かれなかった男性Aさんも、声が出るのだ。しめた、しめた。いいぞ、いいぞ。

 こうして、まな板に、そばをバンバン打ち付けたり、手でたたいたり、見事なソバ打ちとなった。利用者さんと、久しぶりに感動を分け合えたことが素晴らしい。それ以上に、普段、かかわりが持ちにくかった小規模多機能型施設のスタッフと、利用者さんを介して関わりを持てたことも嬉しかった。無論、年越しそばは実にうまかった。

 これまで乃年越し蕎麦は、だし汁にこだわり、揚げたての「ゴボウ天そば」にしたくてこだわってきた。これからは、年越しそばを作ることより、蕎麦そのものを作る「そば打ち」が、毎年の恒例行事になるぞと確信した。

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63歳 4速ギアで突っ走っております

北海道手稲駅 二階改札口前のベンチ。零下3度の冷たさを心地よく感じさせてくれる日差しを浴びてこれを書いている。機内で書いた原稿を最終校正してブログに公開しようと思っている。本来、このブログは、飛行機の移動中に書いている。短い時間の過ごし方に適しているからだ。原稿を書くことが余暇になってきた。書くことが嫌いではないので、書いたものが日記ではなく、直ちに公けになるというのが心地いいのだ。自分の生きざまを第三者に知っていただくことは悪くないなと、このブログコーナーができて感じている。

 人生63年、今ほど忙しいことはない。いや、あった。20代の児童養護施設時代だ。朝6時から夜中12時過ぎまで忙しく走り回っていた。子どもたちに振り回されたり、私が振り回したりしていた。しかし、あの時代と質が違う忙しさなのだ。自分の人生の一コマ、しかも、人生で今のところ最も忙しい昨今、一つ記録しておくことも悪くないなと思った。来年の自分の行動力とどう異なるか、衰えていく自分の体力や思考力、行動力を知る基準にしよう。おそらく、これほど忙しいことは、まず今後あるまい。新聞にある「首相の今日の予定」ばりに、細かく記録しよう。何年か後に、動けなくなった自分がこのブログを読んで懐かしむことができる、そう、自分のために記録しよう。

私のシステム手帳の忙しい時期には、他人には見分けがつかないほど真っ黒になっている。白い部分があるとすれば、その日、その時期は、通常業務以外に動きが少ないか、何事かに集中的している証だ。真っ黒だと、移動や打ち合わせ、面談、講演会などが目白押しの日となる。講演会で司会者の方が、「お忙しいところお越しいただいて・・」と決まり文句のような前置きがあるが、実際本当に忙しい。しかし、どの程度で忙しいかは人によって異なる。本人の自覚の問題だ。よく、若い人にこう語る。「君は今、車のギアで言うと、どのギアにレバーを入れて暮らして(仕事して)いるかね」と。私自身は、昨今、4速から5速の間を行ったり来たりして走っている程度の忙しさだ。無論停車時間は全くない。おそらく、5速の忙しさとは、まったく思考する時間なく走りまわっている状態だろう。そうすると、今の私にはまだ余裕がある。忙しいからこそ、ぼっとする暇がある。

(手稲の山並みの雪化粧を見ながら、札幌行きの電車を待ちながら、お尻が冷えてきたベンチの椅子を意識し始めてきた。こうして文書を読み、書き直していることが、自分らしくていいなと思える。くそ寒いのに・・・。)

私は、千葉県浦安市に始めた「夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター」の専従の仕事を、11月から少しずつ離れ、講演会などの日程を入れ始めた。同時に、新たに都区内で公募されている高齢者センターの委託事業に手を上げ、その追い込み事務や、愛知県高浜市で始まった「健康リハビリ巡礼札所事業(健康自生地事業と呼び直している)に翻弄されている。これまでは、朝8時15分には浦安デイサービスに出勤し、階段や、テーブル、椅子拭き、利用者さん宅へのお迎え、9時半過ぎから、10人くらいの利用者さんへの「ほぐし」(上田法と呼ばれる、こわばりをとる手技)を一日行う。午後4時以降は、送迎か掃除を18時ころまで行い、その後、事務作業や打ち合わせ等を行う。早く帰れる日はまずない。遅くなる時は必ず、出前を取り、残っている職員全員と一緒に食べる…。そういう日常を半年続けてきた。11月に入り、現場から徐々に「フジワラ」を消そうとしている。職員諸君が育ちつつあるからだ。こまごまと、いつまでも私が語っているようではだめだ。みんなが伸びない。よって、11月から、私は、別の忙しさの中に身を置くことにした。

<11月1日から、今日12月16日までの藤原の一日>

11月1日 午前中、浦安デイサービス勤務。午前中のみ「ほぐし」担当、14時 区民大学の江戸川大学で講演、20時 羽田発 22時45分 那覇着 23時リッチモンドホテル(那覇での常宿)泊 (2日)8時30分 琉球リハビリテーション学院出勤、10時 理事会、16時 教務会議、夜、いつもの加藤食堂。24時コスタビスタホテル(学校近くの常宿)泊 (3日) 9時30分 開店を待って沖縄国際通りの「高久レコード店」で、いつも通りレコード(放送で使用)を買い、12時半からレギュラー出演番組「ゴーインにマイウエイ」をラジオ沖縄で収録。(毎月第2日曜日午後10時から11時に放送、沖縄本島から、離島、与論島まで電波が届く)。22時30分 リッチモンド泊 (4日)9時40分 那覇発、福岡11時45分着。午後1時から山口コメディカル学院で「対人接触法」授業3コマ、夜7時から「夢のみずうみ村山口」で幹部会議 その後会食 23時30分 萩自宅泊 (6日)7時6分、新山口発、名古屋経由で、静岡県富士市交流プラザで講演、終わって16時31分、富士市発で日帰り、21時15分新山口着、夢のみずうみ村山口デイにて、デスクの文書類整理 24時 萩自宅泊 (7日)10時30分 宇部市健康福祉センターで講演 14時20分 山口コメディカル学院で「対人接触法」講義2コマ17時まで。 19時55分 山口宇部空港発、21時25分 羽田着 23時 浦安自宅泊 (8日) 9時 田中設計舎、田中章一級建築士と打ち合わせ、その後現地の世田谷区内の施設見学と検討会、 18時 浦安デイサービスセンターに戻り、職員採用面接 22時 浦安自宅泊 (9日)8時15分 浦安デイサービスセンター出勤 理事長室にこもって高浜市の事業計画原案づくり 12時30分 茅野市市長ご一行見学案内 その後、世田谷夢のみずうみ村打ち合わせ事務作業 23時 浦安自宅泊 (10日)午前中、浦安デイサービス出勤 、理事長室にこもって取締役会資料準備 13時 夢のみずうみ村本部ミーティング 16時 H国際大学理事との面談 18時 株式会社夢のみずうみ社取締役会 その後食事会 23時30分 浦安自宅泊 (11日)8時15分 浦安デイ出勤 世田谷区夢のみずうみ村改装建築図面の検討打ち合わせ 12時15分 羽田空港発 13時15分 庄内空港着 鶴岡市社会福祉協議会講演会にて講演 終了後接待 21時 鶴岡泊 (12日)タクシー運転手の勧めで、空港近くの温泉(名を忘れた)。のんびり。18時10分 庄内空港発、19時15分羽田着 浦安デイサービスセンターに戻り「木材調達日帰りバスツアー」の打ち合わせ その後職員と会食 22時30分 浦安自宅泊 (13日)朝から、東京都のはずれ桧原村に「木材調達ツアー」(送迎車2台、利用者さん・スタッフ総勢11名)。 19時 浦安デイに戻る 20時30分 浦安自宅泊 (14日)介護相談員指導者研修(昨年も同じ講演会をKFCホールで実施、場所は大阪、御堂筋線に乗って…と思い込んでいた) 7時 自宅出発 東京駅発新大阪行き乗車。京都あたりまで、車内で仕事。場所の確認を主催者に電話。「KFCホールは、御堂筋線でしたっけ?」と聞いた私に「えっ! 両国ですよ」と。真っ青。新大阪に着くなり、切符売り場に走る。7分後の東京行きに飛び乗る。結局、16時から18時までの2時間、両国KFCホールで講演。私がするべき4時間講演の半分の2時間分を、福祉自治体ネットワークの菅原弘子事務局長につないでいただいた。講演後会食。23時半 浦安自宅泊 (15日)8時15分 浦安デイサービス出勤 9時「夢結び」(スープ屋、就労支援事業)担当職員、岡田百代さんと電話打ち合わせ、「おかゆ」を冬メニューで出す相談 10時 ニュー大阪ホテル松田会長と面会と施設案内 午後 浦安デイサービスセンター勤務 18時職員面接 20時スタッフと会食 23時30分 浦安自宅泊 (16日) 浦安デイサービス出勤 18時、Vキューブ(テレビ会議システム)を使って、夢のみずうみ村が経営の3つの小規模多機能型介護施設(山口市、防府市)のスタッフを結んで「地域密着型サービスの在り方」検討会議 20時30分終了 23時 浦安自宅泊 (17日)8時15分浦安デイサービス出勤 15時15分羽田発、16時15分小松着 18時30分、白山市松任学習センターで講演会 いつもの「梶助」にて食事 (この様子はこのブログに以前書いた)。24時15分小松グランドホテル泊 (18日) 8時10分小松発 9時15分羽田着 10時半 中国新聞社取材、17時 フィンランドの新聞社取材 19時 Vキューブ会議(厚生労働省モデル事業委員会:山口デイ、防府デイスタッフとのテレビ会議) 20時30分 モデル事業の浦安デイの委員との会食 24時30分 浦安自宅泊 (19日)8時30分 浦安デイサービス出勤 17時12分東京発 18時56分長岡着 19時 講演会主催者の前日接待 21時30分 長岡泊 (20日)上越市校長会主催講演会 13時12分 長岡発 東京戻り 20時 浦安自宅泊 (21日) 8時15分 浦安デイサービス出勤 9時 千葉県立大学 小林毅作業療法士ご一行様と面談、施設見学案内 その後モデル事業資料づくり 18時 厚労省モデル事業委員会浦安内部準備会 20時 浦安モデル事業員と会食 23時 浦安自宅泊 (22日)8時15分 浦安デイサービス出勤 10時 三菱UFJ銀行調査員取材 16時 浦安運営会議 19時 豊田工業浦安所長、現場監督との感謝宴会 23時 浦安自宅泊 (23日)8時15分 浦安デイサービス出勤 9時 フリージャーナリスト取材 14時15分 羽田発 16時山口宇部空港着 17時 夢結び おかゆづくり検討会 萩自宅泊 (24日) 山口デイサービス出勤 9時 知性アイデアセンター取材 13時 田中設計舎打ち合わせ 16時 夢結び改装打ち合わせ 19時 本部ミーティング 22時30分 萩自宅泊 (25日) 山口デイ出勤 10時 山口県健康づくりセンター講演会 13時30分 弘前医療福祉大学理事長、学長面談と施設案内 13時 本部ミーティング 18時 社労士事務所打ち合わせ 20時 夢結びおかゆ試食会 22時30分 萩自宅泊 (26日)8時 山口デイサービス出勤 10時半 かず君(1歳半、脳性まひ)上田法訓練(月一度、ご両親、祖母に上田法指導、間もなく1年くらいになるか?) 16時50分 山口宇部空港発 18時15分 羽田着 19時30分 浦安自宅泊 (27日) 8時15分 浦安デイ出勤 10時 浦安市社会福祉協議会講演会 浦安デイ午後出勤 世田谷夢のみずうみ村計画原案作成 21時 浦安自宅泊 (28日)8時浦安デイサービス出勤 一日、世田谷夢のみずうみ村原案づくり 18時 厚労省モデル事業浦安委員会 終了後メンバーと会食 22時30分 浦安自宅泊 (29日) 11時 東京発 新大阪着 14時50分 介護相談員指導者研修会 終了後主催者と会食 22時30分 大阪泊 (30日) 9時30分 新大阪発 名古屋経由 高浜市役所 16時 高浜市健康自生地づくり委員会 終了後会食 23時 刈谷イン泊 (12月1日) 8時30分 中部国際空港発 11時 那覇着 12時40分 就労支援農業用地下見 16時 琉球リハビリテーション学院教務会議 琉球リハ儀間理事長と会食 22時 コスタビスタ宿泊 (2日) 8時30分 琉球リハビリテーション学院出勤 20時10分 那覇発 21時45分 福岡着  22時 西鉄イン泊 (3日) 8時30分 博多発 10時30分 日本脳神経学会看護協会講演会(山口大学医学部) 16時 夢結びレシピチェック  23時 萩自宅泊 (4日)8時山口宇部空港発 9時25分羽田着 11時 浦安デイサービス出勤 堀田聡子厚労省モデル事業委員インタビュー 14時 厚労省モデル事業委員会 20時 山崎史郎社会援護局長、大島一博総理秘書官、浦安モデル事業委員、外部委員総勢14名会食 24時15分 浦安自宅泊 (5日)8時15分 浦安デイ出勤 14時50分 介護相談員指導者研修(KFCホール:両国) 20時 浦安自宅泊 (6日)8時15分 浦安デイ出勤 9時 ニュー大阪ホテル松田会長浦安デイ見学案内、打ち合わせ 14時 世田谷夢のみずうみ村計画案設計打ち合わせ 20時 浦安自宅泊 (7日)8時15分 浦安デイ出勤 一日 理事長室にて 世田谷夢のみずうみ村建設最終原案検討打ち合わせ 20時30分 浦安自宅泊 (8日)9時 厚生労働省老健局担当官と打ち合わせ 13時 浦安デイサービス関連買い出し 15時 浦安デイ勤務 18時30分 豊田工業忘年会出席 22時30分 浦安自宅泊 (9日) 6時10分 羽田発 9時5分那覇着 高久レコード店にてレコード購入 11時 ラジオ沖縄「おはようインタビュー」( 12月第3週月曜から金曜、朝9時から30分放送番組)収録、13時「ゴーインにマイウエイ」収録 15時 琉球リハビリテーション学院出勤 20時 加藤食堂 23時30分 コスタビスタ泊 (10日)終日、片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯コンペ 準備 沖縄かりゆしホテル泊 (11日)片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯コンペ開催 沖縄かりゆしホテル泊 (12日) 9時 琉球リハビリテーション学院理事会 18時 那覇空港発 19時15分 鹿児島空港着 夢のみずうみ村アルテン(フランチャイズ)の新規計画予定建築物視察 19時 同施設吉井理事長ほかと会食 21時 加世田旅館泊 (13日) 12時30分 鹿児島空港発 13時55分 羽田着  14時30分 浦安デイ出勤 20時 浦安自宅泊 (14日) 8時15分 浦安デイ出勤 18時 世田谷夢のみずうみ村計画原案作成事務 18時 Vキューブによる小規模多機能型会議 22時 浦安自宅泊 (15日) 8時15分 浦安デイサービス出勤 終日、世田谷夢のみずうみ村計画原案作成事務(16日)9時 羽田発 10時35分 千歳着 手稲地区介護事業者連絡協議会講演会 参加者と会食 21時30分 手稲ステーションホテル泊 (17日)12時 北海道オイラーク(夢のみずうみMILKシステム導入施設)メンバーと会食 17時千歳発 18時40分 羽田着 機内でこれを書いている。 

 手帳を見ながら、思い出して書いているだけでも、すさまじい日程をこなしていると思うが、63歳今が最も社会に必要とされているのだという実感がわいてくる。がむしゃらに私は走り続けたいと思う。嬉しいことに、夢のみずうみ村は、私の後ろに、職員がついてきてくれている。しかも、私からはっきり見える位置に、幹部みんなの顔が見える。勝手に私が激走しているのだが、ついてきてくれている。そこが我が村の強いところだと思っている。63歳 4速ギアで突っ走っている。

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第2回 片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯in沖縄 

「片麻痺になられても、これまでやっていたゴルフができますよ、さあ滅入ってないで、ご一緒にやりましょう」という意図で、軽々しく開始した今大会。今年も昨年同様雨模様の沖縄、久志岳カントリークラブで24名がプレイ。「晴れ男」藤原の面目躍如たるところで、昨年同様、かろうじて雨を逃れて大会を開催できた。参加者のうち、障がいを持たれた方の参加が昨年より少なかったので、正直なところ、私はこの大会を開催する意味を見失っていた。障がい者ゴルフがそれなりに普及している様子であり、様々な障害をお持ちの方が、ゴルフを日常的に親しんでおられる現状を知った。わざわざ、夢のみずうみ村でこうした大会を開く必要はないではないか。前夜祭でお会いした「ジャパン・ハンディキャップゴルフ協会」理事の駒井清さんの一言で私は迷いから覚めた。彼は工事現場9階から1階に落ちて、命は取り留め、右下肢大腿切断にもかかわらずゴルフの名人である。彼の一言が私を変えることになる。

「世界には様々の障がい者ゴルフ大会がある。徐々に疾患別に大会が開かれる傾向になっているような気がする。しかし、『片麻痺』と冠がつくものはどこにもない。やめる必要は全くない。いや、もっと積極的に、『片麻痺ゴルフ』を拡げていこう」という話だ。昨年、片麻痺ゴルフを社会運動として全国に広げるきっかけにしようと、声を高らかに語り、大会を終えたのに、今年は、その広がりを作ることが結果としてできなかった。だから、落ち込んでいたのに、この、駒井さんの一言に元気づけられた。「たとえ、参加者一人になっても、この大会はやろう。そのための資金作りは必死に考えよう」。そう決意を新たにした。

 片麻痺の方でなくても、我が夢のみずうみ村ゴルフコンペは誰が参加してもいいのだ。脊髄小脳変性症のKさん。最近、転倒されて、それまでかろうじて歩行器で移動しておられたのに、それができなくなったので、楽しみにしていたこの大会を欠場されるとおっしゃったのである。「何があっても、お連れいたします」、そう申し上げたら、感動して参加を決意していただいた。我々の方が嬉しかった。スタッフと共に現地入りしていただき見事18ホールラウンドされた。2200歩、歩いたとのご報告を聞いた。ただただお見事というほかはない。

パーキンソン病のKさんは、普段、歩行器を押しながら移動されるのだが、カートと杖を使ってラウンド。この大会の特別ルール、ボールの落ちた地点を延長して、カートの脇から打ってよし、を適用されれば、ラウンドがもっと楽なはずなのに、そうしたくないとおっしゃる。正式ルールでいいとのこと。球が落ちた地点まで歩いて行かれて、そこでプレイされた。結果、ハーフで中断された。すさまじい歩行距離である。日頃の夢のみずうみ村での歩行距離も相当だが、ここは目に見えにくい土地の凸凹があっての距離だ。来年は、18ホールを目指しましょうと約束。

 私は、最下位だった。昨年初めてゴルフという競技を行い、ハーフでやめていた。しかし、今年は見事18ホールラウンドできた。しかし、途中、昨年同様、球がゲートボール状態、転がる専門で、空中を飛ばないのだ。他のメンバーが、カキーンと快音残してはるか向こうへ跳んでいくのに、私だけ、ちょっと前に転がり、何回も何度も、ちょこまかと打ち続けないとグリーンの上に行かないのである。いささか、飽きてきた。全く面白くない。しかし立場上そういう顔は絶対見せられない。そんな時は掛け声だけ大きくなる。それが逆にむなしさを助長させる。それでも、18ホールを完遂することが目標だったので、それなりに必死。すると、16か17ホール目あたりの、2打目あたりから、なんだか要領をつかめた感じがし始めた。球の下あたりをしっかりと叩けるようになったらしく、ボールが宙に浮き始めた。それが嬉しいのだ。しかし、どうだろう、感触を覚えた気になれたが来年まで持ち続けられるだろうか。間違いなく、いや、おそらく、来年の第3回大会まで、ゴルフには無縁で、1年後のこの大会に、今年同様参加するのだろう。クラブを持っていないので、打ちっぱなし練習場に行くこともできない。練習場ではクラブを貸してくれるのだろうか。行く時間がないこともさることながら、万が一、行ったとしても、今の状態では恥ずかしくて行けそうもない。打ったつもりでクラブを振っても空振り。せいぜい、50、60センチくらい先にコロコロとボールが転がる様を、他人には見せられない。身の程を知っている。だからこそ、この大会は貴重なのだ。ゴルフに無縁の方にも、門は広く開かれている。ハンディーとやらが72で最下位だった私。また来年も出場したいと本心から思えるようになってきた。

自己申告してそれに一番近い人が表彰されるというオネストジョーンという企画がある。58がここのゴルフ場の平均というのか。すべてパーで回るとそのスコアになるらしい。そいう設計なのだ。ちなみに私は153であった。自己申告は138だったのに散々である。

来年、私の結果を参考に、多くの方がやってこられることを願ってやまない

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現代版「山頭火」の訪ねる食べ物屋

山頭火は放浪の歌人だ。この10年間くらいの私は、まさにお金をかけて放浪する山頭火だ。飛行機、新幹線、レンタカーなどを利用し、ほぼ全国を巡った。まだ行ってなくて訪れたいと思っている場所は、下北半島、紀伊半島先端の潮岬、三宅島、礼文島、与論島ぐらいである。ずいぶん、周ったものだと、今、ANAの機内で、中部国際空港から、那覇に向かう機内の「翼の王国」を見ながら思う。気が付いたら「なじみの店」ができていた。そこに行くと必ず訪れる「食べ物屋」さんだ。いろいろあるが、とりあえず3か所を紹介したい。

白山市(石川県)に講演で出向かなくてはいけなかった。前日、小松空港から白山市に移動してホテルに泊まる主催者の誘いを断る。小松グランドホテル近くの日本料理屋「梶助」に行くからだ。北陸に出向く時は、「梶助」に行くと決めて宿をとる。そのいきさつは以前のこのブログに書いた。おそらく「梶助」に行くのは5回目ではなかろうか。

羽田発最終便で出向いたから夜10時過ぎ。目指す「梶助」の玄関に紙きれ発見。「予約客の方だけになっております」と。期待してわくわくしてやってきたのに、愕然。店をそっと覗く。全く偶然、幸運だった。若旦那、太郎さんがこっちを見ている。目が合った。私の顔を見つけて、さっと手を挙げ、おいでおいでをしてくれた。嬉しかった。入っていくと、二つある私の定席(と思っている)、カウンターの右端(もう一席はカウンターの左端)が空いていた。大将がいない。県から長年の功績で表彰されて夫婦で出かけているとのこと。一人で切り盛りしているから予約客優先、なじみと予約客OKという感じ。後からわかったのだが、息子、太郎さんが初めて、ひとりで店を切り盛りする日だった。

いつものように今日のおすすめをいただく。生の「いくら」が出た。赤く塩気があるものと思っていたが白い。昆布だしの中につけたものというが、「いくら」の真の味とはこれだと知らしめられた。海の匂いがして香ばしい。「いくら」のイメージが全く変わった。次に、3種類の蟹が小さく盛って出てきた。以前、札幌のカニ専門店で、たらふく食べ、「蟹の味」は知り尽くしたと思ったが大間違い。たらふく食べず、僅かだがしっかりとした味をじっくり味わうことを「梶助」で教えてもらった。こういう心境は、自分が老いた証拠だと実感しながら味わう。私の腹具合に応じていろいろ出る。それが快適なのだ。前々回、隣に座った客は2時間かけてここにいつもやって来ると言われるフランス料理店のコック長だった。「自分の舌を保つためにここに来ます」と言われた。料理とはそういうものであり、「梶助」はそういう「店」なのだ。今日は左カウンターに滋賀県から来たという4人ずれ。同業者のおもむき。「看護」「介護」という言葉が飛び交うからわかる。太郎さんが勧めてくれたので「天狗舞」という地酒を冷で頼む。2合瓶だそうだ。隣の方々に勧めればいいかと勝手に決めて注文。何年ぶりだろう、酒を自分で注文して飲むとは。中ジョッキ生1杯、赤ワイングラス2杯が昨今の限界である。うまかった。おちょこで5杯。お隣さんに声をかけ注ぐ。すぐに仲良くなった。そこに大将ご夫妻が帰店。一気ににぎやかになった。11か月ぶりに「梶助」に来たのだが、いつも来ているような錯覚に陥る。なぜ、ここが和むか、自分で分かっている。料理がうまいことは当然だが、大将が私の親父に似ているのだ。ここに最初に偶然舞い込んだ時から感じていた。細い目、細長い顔(大将のほうが若干肥っておられる)、よく似ている。我が親父は口数が少なかったが、酔えば饒舌だった。私が年を重ねるにつれて親父がいろんな場面で浮かんでくる。だからだろうか「梶助」にきて、大将や太郎さんと、カウンターで向かい合う。心地いいのだ。帰りにご夫妻と太郎さん3人がそろって玄関先まで見送ってくださった。今度来る時は、萩焼の皿、徳利、お猪口を自前で持ってきて「梶助」におくことになった。楽しみだ。

 

沖縄、宜野湾市に「加藤食堂」がある。小柄な若奥様ママと、坊主頭だがまろやかな顔立ちのマスターのつくるソーセージや魚・肉料理が実にうまい。一番は、今日さっき食べてきた、ホタテとねぎのキッシュ、チーズのデリス・ド・ブルゴーニュがまずお勧めだ。ピザも手づくりでうまい。客席は24、5席程度。沖縄に来たら、沖縄料理と決めていた。同じ宜野湾にある沖縄料理「あしび島」の常連だった。以前、夢のみずうみ村の利用者さんが沖縄旅行に来られた時もここを借りきった。薬膳の汁物(名前をいつも忘れている)が必ず出てきた。これぞ、沖縄という雰囲気の店で女将にはよくしていただいた。そこを振り切っての常連となるほどの「加藤食堂」。最初は、琉球リハビリテーション学院の理事長、儀間君が「家の近くにいい店がある」と連れって行ってもらったのだ。以来、ほとんど毎月訪れるようになった。夢のみずうみ村で忙しいが、琉球リハビリテーション学院長の仕事にもついているからである。2回目に伺った時、遅れてくるメンバーから携帯を受け、店までの道案内をする場面となった。「ここの店の名はね、佐藤食堂だよ」と私が口走った。目の前でコップを洗っていた(?)ママが、そばに寄ってきて、間髪をいれず、「惜しい!」と一言。びっくりした。「このママさんの感性が素敵だ!」と。それが、僕がこの店に通い続ける原因になった。おそらく、普通の感性を持った人なら、店の名前を間違えているわけだから、「佐藤ではなく加藤食堂ですよ」と教えてくれる会話になるはずだ。「加藤食堂ですよ」と、正確な名前をそっと教えるのが通常だろう。それが、このママの口からとっさに出た言葉が「惜しい!」なのだ。こうした感性は天性のものだ。意識しては絶対にできない。そういう人が私は好きだ。この「瞬間しびれた話」を、何度も何度もここに連れてくるメンバー達に話をする。その度に、小顔のママの顔がゆるむ。微笑みながら、実に忙しく店を左右に走り回る。ご主人と二人で切り盛りしながら、客は予約電話を入れないと席の確保が難しいほど盛況なのだ。こうした感性を持っている人間が身近に欲しいといつも願う。そうは簡単ではない。このエピソードを店で赤ワインを飲みながら、学院の理事や職員にいつもくどいくらい語る。そうなってほしいと願うからだ。カウンターの中で料理を作って忙しいご主人もいつもニコニコ、ママも微笑む。この間合いが実に奇妙でもあり素敵だ。国際通りの高良レコード店で、いつものラジオ沖縄の番組で使うレコードを選び、ちっかうのコーヒー店でこの一文を推稿している。今日から沖縄2泊。今夜行こうかな。

 釧路の「幣舞(ぬさまい)橋」の先、釧路川河口に「岸壁炉端」がある。4度しかそこに行っていないが、天気予報で「釧路」が画面に出でるたびに思い出す。最初に行ったときは、冬だった。岸壁に、サンマ船が横付けされ、波音できしんでいた。その脇に、周囲を厚い透明ビニールで囲んだ細長い空間。長椅子に座ると膝のあたりに網がくる高さの囲炉裏が30近くも並べられ、4人から6人くらいが1つの炉を囲む。大きな網が炉の上にかぶされており、そこに、自分の好きな海産物を買ってのせて焼く。金券を買い、北海の海産物をずらり並べた店8店舗(?)が数珠つながりに細長く並び、客は好きな店で食べたいものを買う。さんま、ホッケ、ジャガイモ、カニ、何でも焼く。一人の私は、どなたかの網のそばに座る。たくさん焼いている脇に買ってきたものをのせて焼き始める。隣に座った若い二人連れは全く無関係に喋り捲っているし、真向いのおっさんたちも、酔って大声を出しているが、何も気にならない。私が間違えて、お隣さんのジャガイモを食べてしまった。「さんま」と物々交換。酔狂だ。札幌生ビールが、冬でもうまかった。秋口と夏場にも行ったが、ここは冬に限ると思っている。夏場は、ビニールも船もなかった。するとここは今一つだ。淋しくなれないのだ。ここに一人来て、岸壁脇の、この囲炉裏そばに腰かけホロ酔う。波間に漂うネオンを見ながら、持ってきたCDを聴きながら、何も考えないで酔う。淋しい。その淋しさに酔うためにここに来るのだ。いつのころからか、私は、こういう人ごみの中に紛れ込み、一人で「淋しさに親しむ」ことが好きになった。誰かとワイワイすればいいではないかといわれるかもしれない。それは付き合いであって、私の気が休まるというのとは違う。ひねくれ者なのだ。3回目に来た時確信した。4回目は利用者さんと来た。知床・釧路・根室と巡った第8回夢のみずうみ村旅行である。利用者さんは席に座っていただき、スタッフが店を走り回りながら、魚や、貝、ビール、ジャガイモなどなどを買って網にのせまわった。片麻痺があり、車椅子も利用する我々の一行30人は、縦横無尽に動き回った。それはそれで実に快活な「岸壁炉端」だった。

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第10回夢のみずうみ村旅行

 浦安に夢のみずうみ村ができたことを記念して、今回の夢のみずうみ村利用者さんの旅行は、東京・浦安となった。3泊4日を基本に、第1回 オーストラリアを皮切りに 第2回北海道道南(札幌・小樽・富良野)、第3回 沖縄、 第4回 黒部・飛騨高山、 第5回 韓国冬のソナタを訪ねて 、第6回 湯布院(この回のみ1泊2日)、 第7回 東京神奈川 、第8回 秋田青森、 第9回 北海道道東(知床・釧路・納沙布)。そして、今回、10回目。

 前夜、浦安から山口に戻り、仕事を処理して、帰宅午前1時。朝5時起床。厳しい。送迎車を運転し、萩市内の利用者さん4名(1組はご夫婦)のご自宅にお迎え、山口宇部空港へ。すでに他の皆さんは到着。今回は全日空宇部のご配慮を頂き、乗り込みはスムース。(以前,JALを60分近く遅らせた実績を持つ)

 羽田に到着したら、ボランティア(東京福祉専門学校・帝京大学作業療法学科)の学生達が待ち受けて、バスにいっしょに乗り込む。車体に夢のみずうみ村と横書きしたマイクロバスが、職員の宮本君の運転で、あの羽田空港脇の駐車場に横付けされている。その風景を想像しましょう。山口県のあの夢のマイクロバスが羽田空港ですぞ。横付けですよ。感無量でした。

 最初は明治神宮。砂利道があること、身障者トイレがどこにあるかなど難題。先発隊として、浦安デイサービスに、山口デイから1年間出向している井上君とボランティア2名に、明治神宮に先乗りしてもらう。駐車場確保、トイレ情報収集をしてもらい難なく砂利道も走破。山口から用意していった車椅子10台、現地のボランティア11名の存在が大きい。

 NHKのスタジオパークへ。いろいろな仕掛けを、自由に見て回る。朝の連続ドラマ「カーネーション」や、大河ドラマ「お江さま」などの模様、出演者の衣装などたくさんお番組の内情がわかり楽しい。吹き替えができたり、タッチパネルを触って、クイズに答えたり、近代設備満載に驚くことしきり。しかし、場内を歩き回ってみる。実に歩くこと歩くこと。日頃の夢のみずうみ村の中での歩行訓練がどれだけ生きていたかがよく自覚できる日程でした。

 ホテルは、浅草ビューホテル。いつものように、すぐにトイレ・バスタブのチェック。片麻痺の方が、どこまで車椅子で近づけるか、浴槽をまたいで入り、浴槽内で立ち上がって出てくることが可能か。おおむね、どこのホテルであっても部屋に備え付けの椅子にバスタオルをのせれば、おおむね浴槽の縁に腰掛る場が確保でき、それで浴槽をまたいで出入りする寸法だ。ここでもなんとかなりそうだ。ホテルの部屋からの眺めが抜群だとの参加者の声。2泊しました。

 二日目は、二重橋。いちばん近い駐車場からでも200メートルくらい移動する。長い横断歩道に、一同勢揃いして、車いすを押したり、杖をついて歩いて渡ったり。二重橋前で記念撮影。垂れ幕を出して移そうとしたら、お巡りさんから注意を受け垂れ幕はしまって撮影。ほっとする。

 二重橋の移動に時間を取られたが、明治座で「大奥」の舞台を見る予定時間にぎりぎり滑り込む。利用者さんのほぼ半分ちょっとの方を席に誘導したかどうかという時間に、始まりのブザー。暗闇で一部にお方を席に誘導。最後の方が席に着く際は真っ暗闇に懐中電灯を照らして着席していただいた。芝居は、テレビで見ていた「大奥」の舞台版。NHK大河ドラマの「お江さま」でも春日局が登場するが、まさしく、そのお局様のお話。昼食は弁当を配って客席で食べる。じっと見ているわけにはいかない付添職員。芝居がどうも合わないで中途退室される方、トイレ誘導、その他エトセトラの利用者さんの要望をなんとかかなえるべく職員大奮闘。

さてさてお次は、六本木ヒルズに移動し、各自グループに分かれてお店巡りの食事。ボランティアの学生と利用者さんがそれぞれ好きなところに移動。私は、みなさんがどこで食べておららえるか巡回。ところが、集合場所にどう戻ればいいか行方不明。あわてた。集合時間になんとか失態をせず、間に合って何食わぬ顔。そこは責任者。しかし、実情は情けない限りでした。それだけ六本木ヒルズは田舎者にはでかい。(都会人にも、でかいか?)

 3日目は、お目当ての、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター見学でした。浦安のいつもの利用者さんと、山口県のデイサービスの利用者さん総勢65名ぐらいが、浦安のデイサービスセンター内をうろうろされました。ここにも、「夢のみずうみ村があるのだねえ」の声。いつも、通っておられる山口とは一瞬違って見えても、そこは夢のみずうみ村の、雰囲気、におい、プログラムが目白押しにあることに納得された模様。利用さん同志が意見交換されている場面にも遭遇しほほえましく感じました。浦安にも夢のみずうみ村を作ってよかったと実感しました。

さて、昼からはディズニーシーです。学生ボランティアさんが車椅子を押しながら、それぞれが自由に動き回りました。万が一のことががないか、私は場内を歩き回りますが、なんせ、自分がどこを動いているのかわからない。私の足も棒になるが、利用者さんたに移動の疲れがないかなと心配。すさまじい運動距離の旅行です。車いすを10台山口から持ち込みましたが、会場でも3台を追加。大勢の学生ボランティア(東京福祉専門学校中心)さんがあったので、満喫できたと思っています。明日は雨の天気予報。晴れ男を自称してきたから安心していましたが、さすがに予報は明日から2日間、雨模様。売店に、ミッキー、ミニーのポンチョが2500円で売っている。職員には、明日は、晴れるよ私が晴れ男だからと前夜のミィーティングで豪語していたが、そこは責任者。万が一を考え万全の対策をとることにした。30個も買い揃えたの店員がびっくり。

最終日。朝6時、インターネットで天気予報を見る。関東地方雨。あちこちパソコンを操作していたら、「浦安」気予報」とでてきた。地域限定の予報があることは知らなかった。開けてみた。「午前9時から12時、曇りマーク」。なんということだ。9時まで雨。12時から雨。その間曇り。万歳。晴れ男極まれりで自室で万歳をした。ディズニーランドに行く。曇りだ。少し雨っぽい時間帯もあったが、何とか最後まで持ったのだ。すごい。

ここでも、大勢の学生ボランティア(帝京大学中心)が参加していただき、勝手に個人個人が動き回ることができました。障がい者の方が優先的に入れるカードをもらっていたので、シンデレラ館に、たくさんの人が並んでいるところを、我々は優先的に中へ入ることができた。シンデレラ姫の生い立ちが紹介してあり、私も見るが、あまり感動がない。何とかスムースに会場をみなさんが流れて行くことばかりを気にする。「いい年をして、シンデレラもないもんだ」という感覚は、ディズニーランドを楽しむことができない私の性分に由来するものだと自覚。ただただ、利用者さんに旅を楽しんでいただき無事に終わればいいという思いがどうしても常に付きまとう。職業病だ。

 さて、いよいよ羽田空港に向かうが、「お台場」見物をしてからの予定であった。時間が中途半端になり、バスの運転手さん、ガイドさんに相談。「東京見物の最近の人気観光コースに羽田国際空港があります」とガイドさんから紹介あり。この日、私は、16時半過ぎ、韓国に出張する強行軍。利用者さんは16時40分発。神様は、私の無理な日程も、難なく素敵な利用者さんの観光メニューに変えてくれたと思えた。国際空港3階の店で抹茶アイスを食べながら、多くの見学者の賑わいに触れていただいた。

 国際空港前で、私はみなさんを送った。その瞬間、私の今回の利用者さんとの旅行は終了した。バスのテールランプを見送りながら、なぜか涙が出てくるのだ。今もってその意味が分からない。なぜ泣いたのだろう。さみしかったことは間違いない。自分一人が置き去りになった感がしたのと、自分は、頼まれて韓国に講演会にいくが、本末転倒ではないか。自分は、利用者さんお側に立つならば、なぜもっと密着しないのか、そんなことでは、今後の事業展開も…?!。短い時間だが、複雑な思いに駆られた。私はどうしても現場の人間であり続けたい。しかし、そうも言えない経営者の前途もある。さてさてと、思いをはせながら、韓国に向かった。

 利用者さん御一行は羽田空港へ。空港では、飛行機に乗り込む際のトラブルが予測通りあったとの報告。いまさらながら、私が、航空会社にガミガミ小言を申し上げる必要性があるなあと実感。常に、旅行社や空港各社に申し上げることは、「我々は、通常の障がい者、子どもの優先登場開始時間よりさらに10~15分程度は早めに、誘導開始させてください。さもなければ、時間がかかって、一般客にご迷惑になります。それは本意ではありませんから」という申し出る。しかし、それが却下されると、案の定、出発が遅れる。かつて、JALを1時間近く遅らせてしまった教訓からそう申し上げるのだが、航空会社の直接の窓口の方は、マニュアル通りにしか反応なさらない。今回も全く同様であったらしい。スタッフが申し出ても無理だったとのこと。

 いつもながら、思う。夢のみずうみ村の旅行は、障がい者が旅をするノウハウを、社会に知らしむる旅であると。社会を動かすために、我々は、大人数でぞろぞろ旅をしたい。他の障がい者の団体旅行がスムースに流れるとともに、旅行各社が障害の理解をより深めてもらうために旅を続けたい。

夢のみずうみ村の旅の 原則1:一番遅い人に合わせる 原則2:トイレ休憩を1時間おきにとる。

 

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63歳を過ぎる

2011年10月6日午前6時38分。羽田から沖縄行き全日空機の中。1948年10月6日、午後8時40分ごろ、私は山口県萩市に生まれた。沖縄につく時間には、ちょうど満63歳を迎える。今、私は、沖縄で琉球リハビリテーション学院長をしている。今日は、まず、ラジオ沖縄で、「ゴーインにマイウエイ」という、ラジオ番組のコメンテーターとして、2か月分の録音の仕事をする。この仕事は、すでに半年以上もやっている。1時間番組で、毎月第二日曜日の夜10時から11時という誰も放送を聞かないと思えるような時間帯に放送されているが、結構人気があるそうだ。知念常光さんというメインキャスターと一緒に二人で好き勝手を話し、6曲私の好きな音楽をかける番組である。今日も、那覇空港に着いたらタクシーでレコード店に行き、好きなレコードを買って局に持ち込むのだ。それが終わると、学校の仕事。そのあとは、沖縄で障がい者の方々が、自然卵の養鶏を中心に、農園を兼ねた就労支援事業所を作るための事業の打ち合わせで何人かと打ち合わせがある。2日間滞在して、札幌に向かう。気温はこの時期激変するだろう。着の身着のままで走っているわが身は、寒ければどこそこの巷で何かを買い込んで着込むという始末で何とか過ごす。常套手段である。今回札幌では、どうしても断れなかった講演会をこなす。終了したら、最終便で浦安に戻る。

夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターはまだ開設3か月。忙しい。朝から利用者さんの送迎か施設内掃除をし、その後、大体9時15分ころから「ほぐし」と名付けた、上田法治療(こわばりを除去する治療法)を、夕方4時前まで最大1日13名担当する。夕方も掃除(私は、大体、階段や椅子の雑巾がけをする)か送迎をやり、一区切りつくのが、午後6時過ぎ。それから、会議か打ち合わせが始まり、出前を注文し、みんなで食べるとますます夜は遅くなる。身体が疲れて、頭はさえない。考え事は明け方早起きしなければまずできない。63歳となった自分の体力、知力は、介護・リハビリの現役職員であるとともに、経営者としての手腕も問われる。職員現役続行は大変厳しい。

思い返せば、52歳の時,NPO法人を立ち上げ、53歳の時に山口デイサービスセンターを建設。57歳、防府デイサービスセンター。以後、デイサービスの利用者さんが徐々に重度化されてくることに対応して、夢ハウス仁井令、夢ハウス湯田、夢ハウス丸山と小規模多機能型居宅介護施設を立て続けに建設。その間、フランチャイズとして、富山に夢のみずうみ村アルペン、沖縄に夢のみずうみ村平安郷、鹿児島に夢のみずうみ村アルテン、福岡に夢のみずうみ村行橋を開設指導してきた。さらに、夢のみずうみ村のデイサービスに通ってこられてお元気になられ、要介護度が軽度化する方が、明日から、デイサービスに通えなくなってと困るとおっしゃり、就労支援事業所、スープ屋「夢結び」を作った。これが、この10年間の現実だ。

今、東日本大震災の仮設住宅にサポートセンターを作る事業を展開できないかと動いている。東京都区内でデイサービスを中心とした地域密着の交流センターを運営する計画案を練っている。地元の山口県で、開発事業の声がかかり、それにも手を挙げている。

いくつものプロジェクトを一気に抱え込んでいる。どうなってしまうのだろう。なるようになる。したいようにすすめる。だから、必死に走る毎日。かつて、沖縄県や、山形県さくらんぼ東根市、東京都清瀬市、品川区で提案してきた「健康リハビリ巡礼事業」を、愛知県高浜市で昨年来はじめ、今年度から本格的に具体的な展開が始まった。これは今もっとも力を注いでいる事業の一つだ。高浜の吉岡市長は、このメールを見られると、いいですか、高浜を優先してくださいと念を押されると思うが「ご心配無用。着実に動かせますから」と回答させて頂きたい。こうした同時多発的事業展開は今に始まったことではないからだ。これこそ夢のみずうみ村、いや藤原方式なのである。

「63歳、藤原君。君は、どれだけのことが、これから先できると考えているのかね」と、問われそうだ。夢のみずうみ村の幹部職員は、私に振り回されて辟易していることだと思うが、どっこい、みんなしたたかで、冷静に私についてきてくれている。

 63歳、今、何をすべきかの答えは、「手あたり次第、馬車馬のごとく走る」である。20代、児童養護施設で児童指導員として、子どもたちと、先を考えず、ただ必死に育った。あのころを意識したい。その後の作業療法士として働いた病院時代も、様々な試みをした。精神科病院では、全患者さんを、毎日800メートル先の病院前の池の浮島までの散歩プログラムを提案し、看護部門と激突しながら、患者さんに感謝された。あのパワーだ。35歳頃の話だ。山口県初めての「リハビリ」と名がついた病院を理事長の一言で立ち上げ、朝、7時過ぎから夜10時過ぎまで、開設時、最高87名の患者さんを1人で担当した時のすさまじいエネルギー。もう40歳を過ぎていたが、土日も走り回り、山口子どもクラブ、萩子どもクラブ、在宅リハビリの会、脳性まひの子どもたちのリハビリの会。様々なボランティア活動をこなした。学習障がい児親の会山口県支部や、日本ALS協会山口県支部、山口県園芸療法研究会などを組織化した。当時のパワーは今も健在だといいたいがそうはいかない体力。気持ちだけはまだまだ老いない。我が力がお役にたてればどこでも何にでも参画したいと思っている。とにかく、我が人生、走り続けなければならないと思い込んできた。まだこれからも後先考えず走り続けたい。

 今日。63歳。周囲の心配の声は耳にするが、あっちこっちに手を伸ばし、できること、やってみたいこと、できそうなこと、できそうもないこと。そうしたいから、そうする感覚で、ことに臨んでいる。63歳、本当にこれでいいのだろうか。

総勢190名余の従業員諸君を抱える経営者として、迂闊なまねはできない。経営を安定させねばならない。そこで、今年、大学浪人時代、予備校で席を並べてひたすら勉強した親友の天井正明君を経営統括室室長として迎えた。この10年、事業が確実に発展してきた。今まさに、全国展開し始めた。今後はさらに広がっていく。だから、経営を客観的に見てくれる専門家が必須である。彼は、期待通り、就任直後より銀行筋、会計管理、対外事業折衝と適格に動き回ってくれている。

 私は70歳まで生きたい。それまで、走り回って、今、頭に浮かんでいる、日本の社会に貢献できると信じる事業を手当たり次第に芽を出していきたい。おそらく、芽を出すところで私の役割は終わるだろう。それで十分だ。私は、今、夢のみずうみ村を支える人材養成に躍起になっている。片手に余る以上に若手が伸びてくれている。新しい人材で夢のみずうみ村をさらに発展させる体制を築くことが私の使命だ。これからも、荒療法を、若者に強いたい。夢のみずうみ村のためではない。日本のために、日本の社会事業を支える人材に、夢のみずうみ村から育ってほしいと願って、厳しく若手を育てることに、余る時間が生まれたら絶え間なくエネルギーを注ぎ続けたい。今、浦安では、遅くまで仕事をこなし、若者を引き連れて、食べ飲み歩き、洗脳している。

 「身体に気を付けないといけませんよ」と、会う人話す人誰もが必ずおっしゃる。無論その通りだが、身体に気を付けていては、時間が生まれない。しかし、病気になると、即、時間を奪われる。その加減をどうするか考えている間に時は過ぎる。それもできない。63歳。「ゆっくりやりたいことを展開し、できることがあればやるができなければ仕方ない」と、健康重視で細く長くやることが、結果的により多くの夢を実現できるのかもしれない。「手当たり次第、やりたいことを走り続け始めていき、できるものは残り、やはりできなかったと、そこで止まってしまう」やり方。どちらの方法を選択するか。63歳を迎える今日、今7時43分。まだ沖縄にはつかない。沖縄につく8時40分の63歳の瞬間を待つまでもなく、私は、後者を選ぶ。いや、もうすでに走りまわっている。

「体調は?」と問われるが、「いいのか悪いのかわからない」と答えることにしている。

無理をすれば当然どこかにガタがくる。私はポンコツ車である。若いころから随分あちこち修理している。しかし、私の車は5速ギアであることに50歳を過ぎたころ気付いた。忙しい忙しいと40代は走っていた気がするが、当時はまだ4速ギアで根をあげていただけだ。20代から40代も随分と忙しかった。しかし、それは3速ギア程度でアクセルを最大限踏み込み「もうだめ、忙しくてたまらない」と根をあげていたように、この歳になって思う。50歳前後で、様々な活動を、時間に追われてやっていたころでも、今から思えば、いくらでもゆとりがあった気がする。

今は5速にギアを入れ、アクセル全快だ。最近のポンコツ車の走り具合は、自分で自由に使える時間が本当に消えた状態、すなわち、5速ギアのフル稼働状態。それでも、ゆっくり走ったりすることもある。時折、アクセル全開で、息も上がっている事態を経験する。「忙しい」ということは、何をもってそう言うか、よくわからなくなってきた。ナポレオンは3時間しか寝なかったという。本当だなと昨今感じる。寝ていて思いついたのか、起きているときに考えたのか、全くはっきりしないが、アイデアが浮かび、すぐ、メモをしないと忘れてしまうこともしばしばだ。そういう暮らしが日常的になって久しい。

こういう中で、夢のみずうみ村は全国に広がっていくのだ。一人では何もできぬ。しかし、まず、一人が始めなければならぬ。

 63歳になる。これからは、毎年、誕生日に遺言を残していこう。いつ死んでもいいように。走り回るからだ。おそらく私は、走っている最中に、どこかの巷でぶっ倒れることを想定したほうがよさそうだ。無論そうなりたくない。しかし覚悟して毎日に望まないと職員諸君は夢のみずうみ村の現状、将来を案ずるだろう。そんなことがあってはならない。長嶋茂雄ではないが、「藤原茂はいなくなっても夢のみずうみ村は不滅です」と、そう宣言したい。私は必死に努力する63歳でありたい。

 8時3分。沖縄に向かって飛んでいる。まもなく、私は本当に63歳を過ぎる。

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