合掌造りにこだわったよ
個人的には 、二十年近く前に萩市で障害児をもたれた親たちとお互いお金を出し合って無認可作業所を作りました。そのとき、友人の浜村工務店さんに頼んで合掌造りの建物にしました。合掌造りはお金ができた段階で作り足しができるというのです。三角に木を組み伸ばしたいだけ単純に足していけばおおきくなるのです。
今回は、柱に手が届く鴨居のような感じで合掌造りでの和風建築を作りたいという意図でした。と同時に、お金がないのでそれしか考えられなかったという点もありました。
浜村工務店の作業場に理事の5・6名が集まり自分たちで柱のペンキ塗りを始めました。四方を順に塗っていくのですが、素人のなせる業です濃淡がくっきり出るのです。手形が残ったり、足跡がついたり。素人ペンキ屋は手作りであることを証明するために意図してまずく縫ったといわんばかりの傑作物でした。今でも、本丸の柱をじっくり見るとすぐに足跡がしのばれます
温室物語(温室のできるまで)
園芸療法のメッカにしたいという思いはずっとありましたので温室をどうしても作りたいと念じていました。しかし、資金です。
温室は、一年中植物を供給するために不可欠でした。そこに、「がんばれNPO」というチラシが目に入りました。雑誌の中であったか、インターネットなのか今では記憶が定かではないのですが、NPOに最高200万円助成しましょうという話です。思わず飛びつきました。日本財団をはじめとする大きな助成金を援助していただく組織は、社会福祉法人には支援額が大きいのですが、資金難のNPO法人にはせいぜい車両購入支援額が大きい支援額の対象でありまして、施設整備等の女性は皆無でした。ですから、200万の支援額を見たら何とかしていただきたいと必死に申請書を書きなぐりました。
がんばれNPO財団から調査のために来村されました。本当にここは大丈夫な施設かということでしょう。一般にNPOの問題点は設立が容易であると同時に解散も容易ということで信頼性にかけるのが弱点です。社会福祉法人は基本資産があるので大丈夫であるという見方になるのでしょう。わが村の基本財産は14万少々でした。設立当時の銀行預金がそれしかなかったからです。これでは信用してもらおうというのが無理かもしれません。がんばれNPO財団では園芸療法のメッカにしたいという意図を汲んでいただき、温室建設費200万の支援をいただきました。銀行から借金する場合においても、こうした公的な団体から支援があるという事実が大事ということを学びました。
雪の舞う朝、2001年4月1日 一本のヒノキ伐採から始まる
4月というのに山は雪です。しかも吹雪です。夢のみずうみ村の門出を祝ってもらっているという感覚でした。
ボランティア10人程度で山の斜面にあるヒノキを電動のこぎりでカットしようという作業でした。始めようとすると猛吹雪になりました。前方の視野が一瞬制限されるほどの雪に思わずなくなった父に「親父とうとう始めるよ」と口走りました。なぜ父のことをあの時感じたのかわからないのですが、夢のみずうみ村の本当に第一歩として最初のヒノキを私がカットしました。きれいに斜面に倒れた木に一同拍手しました。その木を記念に残すために椅子状にカットしたもの今でも手元にあります。
ヒノキを切り倒すことは楽しい作業でした。危険を顧みず、同時にあちこちでカットカットです。素人は困ったものです。カットするのは簡単ですが、枝を切り落とし、その木を運び出すのです。斜面に倒れた木々の重なりを、ロープをつけてひとつずつ下のほうへ運び出すのですが、枝と枝の間に足をとられ思うように前進も後退もできず、作業ははかどりません。厳しい作業でした。2回ほど作業したところで、これは素人には手におえないなと感じましたので業者委託することにしました。すでに切り倒して山の斜面に放置しているものを一部取り除き、さらにカット造成するというわけです。われわれが手をつけていなかったらもっと安く上がったかもしれません。
しかし、自分たちの手で切り倒そうとした心をお金では買えないぞと今でも思います。
あの、雪。そして、夢のみずうみ村は始まったのです。
買った土地の大勘違い
「大変なことです」
副理事長で一級建築士である村上茂行さんが私に至急電話をかけてこられた第一声です。
「夢の湖が買った土地はあそこではない」 というのです。
あそことは、今回新しく購入した(一部借地)部分(B地帯といいましょう)です。
おかしなことに、最初、不動産屋から彼が聞き知った土地はB地帯でした。当初購入した土地をA地帯としましょう。それはB地帯とつながった高台の土地です。
私とラ・ベルヴィの野村さんは、村上さんから電話で聞いたB地帯都合3回下見しました。平らで見晴らしもよく、個々は絶好の施設環境と喜び合っておりました。
ところが突然の村上さんからの電話です。
「土地がですねえ 違うのです」という村上さんの言葉に、詐欺にあったと直感しました。すでに内金を支払っていましたから真っ青になりました。
土地を前後取り違えたのであるということがわかるまでには少し時間がかかりました。
受話器を下ろして、着の身着のまま、現地に飛んでいきました。村上さんが確認されたA地帯の端に立ち、
「このまっすぐ上からですね。尾根を伝って、あのミラーのあるところです」という風に村上さんは語られたのですが、私はじっと聞いている余裕がなく、すぐさま背広を着たまま山の斜面を駆け上りました。てっぺん間で上がり、尾根を伝って、敷地の際といわれた獣道のある場所間で行き、一気に隣との境界を直線的に下っていました。降りると同時にまた再確認すべく反対から敷地の境界を確認しておりました。藪の中、山の中を背広姿で無我夢中で走っておりました。ですからその背広はぼろぼろで捨てました。そのくらいショックでした。
あの平らで景色のいい場所ではないというショックです。境界を確認した直後の感想は「案外広いではないか」ということでした。素人はこれだからいけません。広いというのは山の斜面として広いのですが、造成して平らな部分がどれだけ取れるかとなると話は大いに食い違ってみます。
結果を振り返って見ますと、この勘違い騒動はラッキーな話だったと考えております。
いま、本丸のベランダに出て山口市内を見下ろす景観は絶景です。心癒される風景です。
もし、最初にB地点を購入していたら、その背後の傾斜のある山の部分を造成してまで村を活用しようという意識が生まれてくるかなあと考えてみます。A地点の傾斜を造成して本丸,二の丸、ラ・ベルヴィの家を作ったからこそ、今日の更なる増築が生まれたのだと感じています。何か大きな力に導かれてこの村は動いているという最たる話題でした。
2001年4月1日
山口市中尾の杉の木を1本、チェーンソーで私が切り倒した。雪が少し前に振り出していたが、切り始めた時は吹雪であった。切り倒した時に雪はやんでいた。だから、吹雪は、芝居がかっている。空に、大道具の雪係がいたのだろう。
それが、夢のみずうみ村の初歩。初仕事であった。木を伐り、平らにし、そこに、合掌造りの建物を建てた。夢のみずうみ村山口である。20年前の話だ。全く、お金はない。銀行のつてもない。ただ、私の母が、萩信用金庫(現山口萩信用金庫)に、定年まで勤めてやめた女性第一号であったのだ。
小学生の頃、学校のそばの萩信用金庫本店に母がいるので立寄る。のどかなもので、当時の萩信用金庫は、3時に閉めた後、私を、大金庫の扉を開けたまま、当時の専務と支店長がしている囲碁をそばに座って眺めるのが常であった。専務や、理事長や、支店長や、職員の馴染みの方々が「茂ちゃんお帰り」と声をかけてくれて、あとは各自、職員の子どもがそこに居ることなど知らん顔でそれぞれの机で仕事をしている。これが、当時の、いつもの、見慣れた風景であった。萩信用金庫は、そういうゆったりとした銀行の一面をその頃は持っていた。母はその後支店を2箇所変わっていったが、いずれの支店もいい方々ばかりであった。
母が、定年まで働いたのは、我が家が貧しかったからにほかならない。同時に、母が、自分がつかめなかった「学歴」を、我が子にだけは無尽蔵に金がかかってもつぎ込もうとする生き様に影響、決定づけられた。
国鉄(今のJR)に勤務するSLの検査係の父との2人の稼ぎで、私と妹は、幼稚園から私学。妹は金のかかる音大にまで入学させ、結局、私も二浪して私学。おまけに、入った慶応大学を中退し、親から勘当。子どもたち二人を、自分たちが貧しくて手にできなかった「学歴」を子どもにたっぷりしっかり与えたという、我が両親の一生であった。
時は過ぎ、私が53歳になったときの萩信用金理事長は、藤原茂の少年期をよく知っておられた方であった。定年まで勤めた母のことは、信用金庫の融資部門の担当者もその上司も、皆よく承知しておられる方々であった。結局、それが、資本を持たない藤原茂が行おうとする初めての事業に、信用貸しとして融資する背景、きっかけ、裏打ちになったから、NPO法人夢の湖舎に融資して頂いたのだと思っている。こうした史実が、夢のみずうみ村の歴史の裏話でもある。20年も過ぎてしまったのだ
20周年。10年ひと昔を2回繰り返したことになる。
NPO法人夢の湖舎は社会福祉法人夢のみずうみ村となり、理事長を、宮本志郎さんが後任を引き受けてくれた。
株式会社夢のみずうみ社の代表取締役は片山勝彦さんにお願いできることになった。私は、相談役になった。株主総会でこの人事は承認を頂いた。
あたらしい夢のみずうみ村が始まった。21年目から延々と発展していくことであろう。命続く限り、夢のみずうみ村を底支えし続ける覚悟でいる。それを、公にしたくて、このブログを活用させて頂いた。
ちなみに、今、創世記の夢のみずうみ村をつくった際のHOW・TO、考え方、理念などを書いたものを、段階的にブログに挙げてもらっている。夢のみずうみ村の古典である。ご供覧いただければありがたい。
夢の湖村を秋吉台にという話
場所が見えるということは、お金が必要になりますし、ラッキーにも、どこかから寄贈話でもなかろうかという思いに駆られるものです。
夢のみずうみ村にある日、「秋吉台の家族村」周辺にオートキャンプ場を作る話が舞い込みました。オートキャンプ場を、園芸療法の核となる場所として利用し同時に高齢者から障害児までの交流の場(夢のみずうみ村)を作れるのではないか、という話に発展し始めたのです。秋芳町役場で町長さんとも話しました。秋吉台家族村の全職員さんにもお集まり頂き、夢のみずうみ村建設構想をお話ししました。家族村のロッジを年間を通じて数棟常時借用すること、レストランを活用してサービスを開始すること、植樹祭に利用した広大な土地やドリーネを利用して、ケイマンゴルフ場や、園芸療法モデルガーデンを作ること等を熱く語りました。私(藤原)を始め、理事のメンバー4人が参加し家族村の会議室で話したのが、今から5年前【編注:開設のおよそ3年前】の話です。
ロッジの借用料金の提示がないまま時間が過ぎていきました。今から考えると、夢のような架空話を、ひげを生やした、いかがわしそうな男を中心とする集団が突然目の前に現れるのですから、先方も慎重にならざるを得なかったと思います。要するに社会的信頼を得るということは、情熱があるだけではどうしようもならなかったと思います。秋芳町の関係者の皆様にはずいぶんとお騒がせした結果となり、結局、夢の話となってしまったことをこの場で謝りたいとおもいます。
夢のみずうみ村 村民募集
「村づくり」のための資金作りを全国的に展開し始めました。今から振り返れば、無責任にも、軽い気持ちで募金活動に入ったのではないかと思います。本来なら、きちんとした計画案のもとに始めるべきです。漠然とした段階で運動がスタートしたのです。
「夢のみずうみ村建設運動」というチラシをつくり、メンバー個々の友人知己へ郵便を出しました。全国から、お金が寄せられ始め、百万、二百万と資金が集まってきました。こうした全国の村民の方々の意志が私たちを後押ししました。
「もう やーめた」とはいえない背景が生まれたのです。お金を集めて事業を止めたら詐欺師です。やらざるを得ない状況が積み重ねられていったのです。
募金活動が始まり、700万を超えたあたりから、銀行に話を持ちかけました。
銀行に2億円を貸してくださいということは通常どういう方法で持ちかけていいかすら想像できません。住宅ローンを組むことは通常の感覚で何とかできますし、現に借りてきましたが、事業資金を借りるという話をどの銀行の誰にどのように切り出すかすら分りません。
頭に浮かんだのは私の母が半生を過ごした銀行でした。
女性で定年退職まで勤めたのは母が第一号でした。私自身、同銀行の理事長さん他、ほとんどの幹部の方々とは子ども時分にかわいがって頂いていた関係でもありました。
ですから、話を持って行くにはこの銀行しかないと思っていました。しかも、幸いなことに、私の自宅に最も近い同銀行の支店の支店長さんが実に話しやすい方でした。この支店長との出会いがなかったら夢のみずうみ村はもっともっと遅くに生まれることになったと思います。もしかしたら、誕生しなかったかもしれません。銀行を最も動かしたものは全国の村民の存在だったと思います。
土地探しとラ・ベルヴィ②
結局、寄贈話しは流れてしまいましたが、実はこの話しが持ち上がったこと(建設に向けた直接的行動の第一歩)が夢のみずうみ村を生み出したのです。動いたからです。動くきっかけがこの寄贈話だったわけです。
その寄贈の話しに伺った帰り道は、「○市○町で夢のみずうみ村が始められる」という熱い思いから、一転して、「やはり無理でした」という結末ですので、相当落胆を感じるはずなのですが、不思議なことにそれほどショックではなかったのです。その足で、話しの結果を心配していた一級建築士の村上さん(当時の夢の湖舎副理事長)に電話報告しました。すると、
「○市○町なら、700平米、300万の農地が売りに出ていたからきいてあげよう」
という返答があったのです。妙な感動でした。手持ちの資金で土地が買えるよという思いです。ショックから一転、また巣作りが一歩見えてきたのです。
電話の結果を待ちました。すると、
「もう、売れたって。もう少し早くいえば良かったのにと不動産屋からいわれたよ」という返事。ここでも、またショックでした。
しかし、間違いなく、こうした歩みをしていく過程で、目の前に“すみか”が見えてきたのです。
巣作りができるという感激から一気に暗闇に落ちるというものではなく、不思議なことに灯火が見えて来たのです。具体的には、人の輪が広がれば“すみか”が見えるという意識が生まれてきたということでしょうか。さらに生々しく語れば、お金を貯めればそのうちいつか、どこかに場所は生まれるのだという実感がしたのです。ですから、今でも、寄贈話を持ち込んで頂いたY氏には本当に感謝申し上げている次第なのです。
ラ・ベルヴィ移転と土地探し
夢のみずうみ村を作りたいという情熱(思い)と、それを具体的にいかにつくるかという意識(これも思い)との間には相当の開きがあります。施設づくりをしたいという思いをなさっている方は多いはずです。
しかし、現実にはどこからどういう風に突破口が開かれていくか迷路に入って苦悩されている方が相当数あります。思いは募るのですが、具体的に実現に向け一歩踏み出すまでには現実的な壁があります。どういう方向に第一歩を向かうか、それを決める壁です。
近道は動くことです。理屈をこねず、まず動き出すことが基本であることに間違いはないと思います。動きながら考えるしか手はないと思います。
障害児をお持ちのお母さん方の集まり「ラ・ベルヴィ」が施設づくりを意識して、お菓子作りや、バザーなど地道に活動を始め、800万円近い資金集めをしていることは村づくりの大きなきっかけでした。(結果的には、夢のみずうみ村に一部寄付、一部借用させて頂きました) 親たちの施設づくりを支援することと夢のみずうみ村建設運動とが合体するという発想でした。
何回かの定例会を開いたりした後、まず行動すること、そのきっかけとしてミュージカルを持ち出しました。これも唐突でした。夢のみずうみ村はどういうものか、ミュージカルをみんなでやりながら、啓蒙し、資金集めも一方でできないかという発想でした。メンバーの中に亀裂が生み始めたのは皮肉にもこのミュージカルでしたし、不思議なことに、こうした動きの中にラ・ベルヴィの移転話しが持ちあがったのです。
ある日当然、ラ・ベルヴィ代表の野村恵子さんから、土地の寄贈話があるよと打ち明けられました。
「1000坪の土地を寄贈して頂ける話があるけど、ラ・ベルヴィでは大きすぎるので、夢のみずうみ村をそこに作らないか」というものでした。ラ・ベルヴィのメンバーは、一部の方々が夢のみずうみ村のメンバーでもありました。
夢のみずうみ村広報部長である野村周平君とお母さんの恵子さん、そして私と3名とで、土地の寄贈をお申し出頂いた寄贈者の方の実家を訪問させて頂きました。
そこでの出来事は、
* 土地は寄贈ではなく貸与とすること
* 広報部長の周平くんは脳性麻痺で身体が少々不自由ですから、和室の畳部屋に身体を投げ出して話し合いに参加しました。言葉ではなく身体を張って訴えたという感じです。それに対して、
「こういうお子さんの施設づくりは国が責任をもたなくてはね。あなた方がNPO法人を作ってやられるとは・・・、福祉は遅れていますよ」という同情の声かけでした。
夢のみずうみ村歴史づくり
本づくりを思い立ったのはいつものように衝動的です。
出版を思いついたのは拙著「園芸療法入門」(この本と同じく夢の湖舎出版部発行)と、臼田喜久江さんとの共著「片手でつくる生活の知恵袋」(青海社発行)を発刊した頃だと思いますがはっきりしません。
その頃は、夢のみずうみ村の増設工事が始まったけれどもスムースに進まず、資金繰りを始め、ありとあらゆることで頭を悩ませていました。
ところが村のスタッフは、仕事が終わり夜遅くなっても歓声を挙げ、大騒ぎしながら新しい村づくりに激論を戦わせているのです。このすごい連中(職員)のエネルギーを記録に残そうと、ふと思いつきました。
同時に、利用なさっている皆さん方の生の声をこの際伺ってみたいという思いも浮かんで参りました。さらに、利用者のお一人である臼田喜久江さんと本を作ったことが大いに刺激になりました。夢のみずうみ村の片手で料理教室の師範代である彼女の本ができあがると、利用者の方々が一様に大喜びされたのを拝見しながら、
「利用者さんと職員のみんなで本を作ろう」と直感したのでした。
その時思いついたことは
*いかにして施設づくりに至ったか
*利用されている方々はどういう思いでここに集まって来られるのか
*職員はどういうきっかけで夢のみずうみ村の仕事に就いたのか
*通所サービス(デイサービス)とは、どのようにあるべきか
等々について、分担して書き出してみようというものでした。
こうした思いつきの企画であったにもかかわらず、まず利用者さんが早速に原稿を寄せられました。利用者さんの生原稿を読み、涙をにじませながら回し読みする職員たちは、作ろうとする本がいかにすばらしいかを実感しながら、原稿書きに追われました。みんなの手になる本なのです。
なお、この本は、村の歴史の創世記から、第二期造成工事開始前までの話です。
(注:この本の話は、当時の構想であり、出版には至っておりません)