子ども夢ハウスおおつち開所式 

今日、4月11日 子ども夢ハウス大槌が始まりました。

笹原留似子さん、桜の菊池さん、開設準備室長の吉山君、首都圏統合施設長の宮本君、そして私。
岩手日報と河北新聞の二人に記者さん。
式典は、式典でなく、「ことはじめ」という様相です。まず、笹原留似子さんによる、「看板書き」。「子ども夢ハウスおおつち」と、下書きもせず、一気に書き上げてしまいました。さすがですね。しかも、夢の一文字が大きいのです。それがまた実に素敵。

 

記念植樹で、姫リンゴを木樽に埋め変えました。笹原さんが木をポットから取り出し、樽に置き、吉山、藤原の二人で植え込みました。
 姫リンゴの木にしたのは 、子ども(小さな実)でも叱り戯れて、たくさん木に張り付くさまが、わがハウスの近い将来に似ていると感じたからです。多くの子どもたちが勝手にむしりとって食べてくれるといいですね。


その後、玄関の浄め 道路入口まで 笹原さん 吉山君がお浄め

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山口から 浦安から 大槌に入る

子ども夢ハウス原風景です。何十年か先に、この風景が変わり、現在の7LDKのこども夢ハウス大槌は隣の畑にも何かが立ち、「へえーっ! 〇年前は、こんな殺風景だったんだあ!」という声がするかもしれません。素敵な場所に、子ども夢ハウスは根を下ろしました。

玄関です。この玄関に 多くの方々が出入りして 生きる力を取り戻してくださるといいですね。さりげない、ただの玄関だけど、この玄関を、ひたすら頼りに、駆け込んでくれる子どもが一人でもいてくれることを願わずにおれません。

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子ども夢ハウスおおつち入口です

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こども夢ハウスおおつちが 動き出した

 悩んでいる子どもがいれば、すぐに飛び込んでこられる家を用意したい。話を聴いてあげることくらいしかできないが、しっかり受け止めてあげたい。せめて温かいスープ一杯飲んでほしい。そういう家を大槌町につくりました。
 津波で流されずに残っていた、高台の7LDKの貴重な建物二階建てを借り受けることができました。そこで、「子ども夢ハウスおおつち」を開設します。
  住所は、 岩手県上閉伊郡大槌町安渡二丁目250番地16 です。
 4月8日に山口で買い物をし、いずれ大槌で送迎車となるボディーに「夢」のマークがでかでかと描かれた、「夢車」2台に積み込み、第一号のおおつち職員になる吉山君と、首都圏総合施設長の宮本君が、途中、浅草かっぱ橋で、私も合流して調理道具を買って積み込み、大槌に入ります。子ども夢ハウス大槌の看板を5月11には入口に掲げます。
  募金活動を拡げたいです。たくさんの方々に、この運動を拡げて頂きたいです。よろしくお願いします

  募金問い合わせ先    〒753-0801 山口市中尾787-1 
                  夢のみずうみ村山口デイサービスセンター 
                  TEL(083-995-2820) FAX (083-995-2825)
                  アドレス  yume@yumenomizuumi.com

<<募金の方法>> ゆうちょ銀行の振替口座へ払込みをお願いいたします。

口座記号番号 01300-4-102234
口座名称(漢字) 夢のみずうみ村 夢ハウスおおつち基金
口座名称(カナ) ユメノミズウミムラ ユメハウスオオツチキキン

<<他行から振込の場合>>
  (銀行名) ゆうちょ銀行 ( 支店名)  一三九店(イチサンキュウテン)
(預金種目)   当座  口座番号 0102234
  (口座名称) (漢字) 夢のみずうみ村 夢ハウスおおつち基金
                                                       以上

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「センチメント人間」と「センチメートル人間」

実に久しぶりにブログを書く。書き始めの大1回目は関西空港から那覇に移動する機内。二回目の今日は盛岡、仙台、浦安を経由して山口に戻る機内。最近は、毎日寝場所が異なる。全国研修の真最中。朝から晩までしゃべり続け、移動して、一寝入りしてまたしゃべる繰り返し。12月から3ヶ月間もこうした暮らしをしていると、芸人ではないかと錯覚に襲われる。何を本当にしているのだろうか。
 おもかげ復元師の笹原留似子さんに出会ったことがすべての始まりである。彼女に会わなかったら、私は大槌を知らなかった。命を自ら絶つ子ども、仮設住宅で認知症が進む高齢者の事実。私の心が走った。厳しい現実の数。できることを始めたいという衝動である。するべき課題は、地元山口や、首都圏においてもたくさんある。7月から世田谷で夢のみずうみ村が始まる。「なぜ?大槌に?!」という声が内外から私の耳に入る。私自身が、ただそうしたいという気持ちを抑えられないだけである200余名も職員を抱える経営者としてはそれはまずいと周囲の英知が進言してくれる。そんな中で大槌の事業を開始することに決めた。より厳しい現実があるだろうが、何が正解で、本来どうしたらいいのか誰もわかるまい。ただ、そうしたい、そうすべきだと思ったのである。そこで、開始することにしたのが「1億円募金」である。
 私は、夢のみずうみ村の事業を展開する際に事前に情報収集やマーケッティングや、知識を収集し、緻密に計算して事業を推進するタイプでは全くない。直感的、直情的、情動的で経営者としてはおそらく向いていない。前者の尺度を持つ人間をセンチメートル人間と呼び、後者の尺度をセンチメンタル人間と呼ぼうと思い立った。そのことを、琉球リハビリテーション学院卒業式の壇上で学院長あいさつの中で語ろうとした。言語的に意味が通じるかと広辞苑で調べたら、センチメンタル人間は単に感傷的人間という意味合いであり、どうも私の真意と違う。「センチメント」という言葉があり、気持ち、気分、情緒と訳されている。そうだ、私は、この気分、情緒を人間の尺度としたいと感じたのだ。そこで、「センチメートル人間」ではなく「センチメント人間」と造語。
 卒業生には、計算づくで人生を歩くな、自分自身の気持ち、意思、情緒を重視した生き方をしろと話した。
 まさに、それは、この「子ども夢ハウスおおつち」建設募金を開始しようとしたことに全く連動している。理屈ではない、計算づくではない、気持ち優先でいいと信じているのだ。 「トップがそれでいいのか!」の声には「結果でこたえたい!!」と、応じておきたい。 
 3・11 東日本の大震災・大津波から2年たっても、大槌は一面サラ地である。町役場(旧小学校)前に72坪の土地を借りた。そこでスープ屋を開始するつもりで、先週も講演会の合間に北上から釜石、大槌と車で入った。不動産屋の家子さんのプレハブの店が役場前にあり、その隣である。プレハブ6棟を連結する話をしていったん帰ってきたその3日後。相談した大槌町の都市計画課から電話が入った。新規に仮設であれ立ててはいけないというのだ。土盛り計画が始まるからだという。地元では、そうした計画がすぐさま実行されないという感触だと言われて、土地の契約までは勧めたのだが、厳しい話になった。
何か、手探りで地元とのつながりをつけたい一心で借地したのであるがどうもうまくいかない。もう一軒、7LDKの一軒家を「家子不動産」から紹介して頂けた。高台に残った家子さんの物件だそうで、中は改装されている。直感が働いた。1階を「夢のみずうみ村おおつち」で高齢者が出入りされ、2階を、いつでも子どもがやって来られる場所にしよう。職員の吉山君に4月から常駐してもらう。大槌ではすでに2人のスタッフ候補が見つかってもいる。きちんと給料が払える体制を早く作りたい。
こうしていた矢先に、大槌町都市計画課から、72坪の市役所前の借地は、すぐに土盛りして再建する計画実施なので、計画を控えてくれとの要請が来た。致し方ない。町の再建復興計画に従うまで。そこで、7LDKの借家を即決した。とっかかりをつくりたいからだ。1億円という途方もない金額を集めながら、スピーディーに事業を具体的に進めたい。走りながら考えるセンチメント人間の真骨頂を見せたい。1億円という募金活動は、途方もないことには全く思えない。走るんだ、ただひたむきに前を見て走るのだ。センチメント人間よ、力を貸してと大声を出しながら走るんだ。

 このブログをご覧いただいている皆さん。輪を広げる働きに力を貸して頂けませんか。ご寄附を募ることが最終目的ですが、手段としては、まず広報活動です。この運動をできるだけ多くの方々に紹介していただけませんか。紹介の輪を何重にも広げていくことこそ、求められる運動です。センチメント人間を増やそうではありませんか。

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覚悟の朝 

北上は 雪。 昨夜 大槌町に児童養護施設を作ることを覚悟した。震災の沿岸部で、仮設住宅で、虐待が絶えないこと、悲劇が深く浸透していること.辛い話の数々を、「おもかげ復元師」の笹原留似子さんが語って教えてくれた。彼女の活動はNHKスペシャルで放送された。ご存知の方も多かろう。「同じNHK仲間だね」と、初対面からあっという間に息統合した。彼女のことを、どう表現したら、イメージしやすいか昨日考えた。ここに失礼を顧みず、彼女にお許しも請わず、勝手に私の一存で書き記す。
 彼女は、「ある時は、マザーテレサ、一服吸って藤純子」。
これが私の笹原留似子観。素敵な女性だ。そばにしっかりサポートしておられる菊池さんがまた素敵だ。このコンビで今、東奔西走しておられる。
 彼女と知り合ってから、私の人生は大きくUターン現象を起こし始めている。それが何の、どういうU字方向なのかは、どうも、今もってはっきりしない。私の原点、立つ位置、向うべき方向、使命、役割、まとめると存在性といったものが、今朝の北上の水道水のような冷たい水でさらさら、洗い流されているようだし、生きている意義、意味を、風が吹くたびに、木の葉一枚落ちるたびに、地下鉄の人ごみに流されている瞬間にも、自らに投げかけられ、追われ続け、問い続けられている感じだ。それから逃れようとはこれっぽちも思っていないし、むしろそうして流されることを願っている自分がそこにいる。 

 笹原さんは、震災で亡くなった方々の顔を生前のように復元し、納棺する「おくりびと」である。亡くなった方を、家族の中に、心の奥深く生かす仕事をしていると私は思う。そのことを彼女の本で知った。さらに、直接彼女に知り合うことができて、彼女の話ぶり、語り口、涙、柔らかく暖かい手で、そのことを強く感じとれた。
 何か、もっと、あなたに、できることがあるんだよ、と、彼女は伝えている。
 虐待児が児童養護施設に避難していることを知ったのは少し前のことだ。かつて20代に私自身が務めていた、東京立川市の児童養護施設「至誠学園」の総合施設長、高橋利一先生から聞いていた。昨夜いたたまれず、久しぶりに電話した。「お兄さん」。学園では児童指導員のことをお兄さんと呼んでいた。何才になっても「お兄さん」「園長先生」なのだ。私は「わしゃ兄さん」とよばれていた。
 「お兄さん、とうとう『子ども』に戻りますか」と園長の声。
 
 震災後、初めて入った石巻でショックを受け、動き始めたが立ち止まらざるを得ない事態が起きた。大槌町には2度目。東日本の震災地に最初入った時、目にした風景、ただただ怯えた自分。昨日は、怒りと淋しさ、むなしさに沈んでいた。どうして、ここまで放置されているのか。無残に「まち」が放棄されていいのか。
 大槌町の役場では、いろいろ話をしたが、要は「何をしてくれますか」と問われたのだ。やってくる多くのNPO法人。その背景を知って我々の魂と姿勢を再確認した。「住民を依存的にさせてなならない、住民の自立支援を!」という役所の姿勢に納得。夢のみずうみ村ではなく、フジワラシゲル個人がどうするか、覚悟を問われた。
 
 そういう心構えになっていた私に、笹原さんは、ゆっくりしっかり虐待児の話をした。避難先で、周囲のふとした言葉で傷ついた中学3年生の女の子の話。故郷に戻り、亡くなった両親の位牌を抱えて自殺た。、彼女の心を、誰か、ほんのわずかでいい、受け止めてあげれば、命を失わなかったと留似子さんは言った。いっぱい話してくれたが、もう一人娘を亡くしたお父さんの話。
 娘の名前を消失した自宅の跡地に、空から娘が見えるようにと、彼女の名前をモニュメントのように作っている写真を見せてもらった。そのお父さんが、娘が描いた絵、灯台を中心に、友達がいっぱい登場するの絵を死後見つけ、それをハンカチにして道の駅に置いたそうだ。娘の心をないがしろにして儲けようとはないごとぞというような揶揄する輩がツイッターで多いことを笹原さんが話してくれた。涙があふれる。「俺だって、おんなじことをする! それを書いたやつ出てこい!」
お父さんは娘さんに会いたいのだ。それだけなのだ。わからないのかよ!
 どうして人間はこうして、他人の気持ちをわかろうとしないのか。ツイッターを決して私が使いたくないのは、軽々しく文字が走るからだ。こうした深く考えない輩を社会から追放したいからだ。

 当たり前ではないか。私は子どもが自分より早く死に残された親。それも、津波というどうしようもない災害。自分だけ残されたら、このお父さんとおんなじ気持ちになって、娘(こども)に会うための衝動行為としていろんなことをするだろう。そうしないといたたまれないのだ。ほかにわが子を感じ取る手段がないのだ。モニュメントの木を一つ一つ並べながら、泣きながら、お父さんは娘と会っているのだ。素Rがわからないのか馬鹿ども!!。
 娘の鎮魂を祈ってハンカチを作ったのだ、そんなことがわからないのか。ハンカチを作って、多くの人たちの手と手に渡ってほしい。それは販売することがベストの手段だ。
 娘の存在を知らしめたい、娘を社会に存在させたいという衝動といってもいい。販売することが大切なのだ。お父さんが一人で印刷して周囲の知り合いに配るだけでは、社会的存在にならないのだ。可愛い我が娘が生きていた証をなんとか知らしめたいという素朴な思いなのだ。そうすることでわが子と一緒に語り合い、遊びたわむれ、お茶を飲む、そういう、たわいもない接触を試みたい一心なのだ。私だって同じ立場になれば、このお父さんと全く同様のことをする。
 ハンカチの彼女の絵はもっと全国、世界に流れていくといい。販売という手段をとることが、手から手へ渡っていくもっとも効果的な手段である。彼女の遺体は、彼女が大好きだった灯台のそばで見つかったのだと笹原さんが教えてくれた。

 岩手の沿岸部に児童養護施設を作る。笹原さんや、大槌、釜石の仲間と覚悟した。足元を見れば、夢のみずうみ村新樹苑を、来年7月世田谷で作る仕事もある。この4か月間近く、ややもすれば無謀ではなかろうかという声を受けながらも私の思いで企画していた事業を、2つ中止して、この世田谷の事業を実現にこぎつけた。わが社会福祉法人評議員会と理事会の仲間と、岡田、吉岡、宮本という部下に感謝したい。こうした厳しいここ4,5か月の間で問われた、法人の資産状況、経営基盤の脆弱さ、加えて、事業意欲旺盛のトップの経営姿勢。いろいろ苦しんで学習をさせていただいた。さて、私はこれからどうするべきか、どうするか。悩み、苦しみ、考えた。

 残り少なくなってきた私の人生。終わりがそろそろ見え始めてからの私の人生。子どもたちの仕事に戻ろうかと。いや、加えようかといったほうが周囲に不安を与えないだろう。そうすることにしたい。

 自らを鼓舞するために、と同時に、これから始まる支援の輪づくり、具体的には施設建設資金「1億円募金運動」を展開するために こうした思いをブログで公表することにした。自分に後戻りできなくするために、退路を断って、前進するために。
  
 「おもかげ復元師」「おもかげ復元師の絵日記」(いずれもポプラ社)を購入してお読みいただきたい。そこに、笹原留似子さんは居る。会っていただきたい。 
 実は、明後日、笹原さんが やまぐちの夢のみずうみ村にやってくる。そこで、昨日の覚悟をもっと詰めていこうと約束した。NHKに出演させていただいて得た社会的信用らしきものにすがって、コンビで社会に訴えていこう、自分たちの力で「子どものシェルター」を大槌に作ろう、必ず作ると、昨夜、雪が降り始めた北上側のふもとの料理屋の一室で、仲間6人と決めた。

 中村勘三郎さんが昨日亡くなった。私より7歳も若いのに、やりたいことが次から次にあふれてきた方だったのに。私はやりたいことをやらせていただきたい。迷惑を最小限に抑える英知を、今回の苦しい学習体験の中で獲得できた気がする。自分自身に言い聞かせながら、静かに、しかし着実に、仲間と走って行こうと思う。
 
 北上は雪。降り積もるようだ。賢治の故郷に立ち、小学校6年生のとき自らに問いかけた我が身の生きざまを、「アメニモマケズ」の感情を思い出している。
 北上駅はまだ雪である。

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命を使っている

随分と、ブログを更新していないので、具合でも悪くなったのかと6人もの人からメールや声をかけられた。ただ、忙しく走り回っていただけである。
ずっと前から忙しかった。この半年くらい前から、それに輪をかけて忙しい状況になった。いや、そういう状況を自分で勝手に作ったのだろう、とおっしゃる方は多い。そうかもしれぬし、そうでないかもしれぬが、それを分析したり、もたもたしたりする間も惜しいから、そうしないで走り続けている。目の前に出てきた事象・出来事・課題をこなすのに必死。無論、そうしようとするのは私の意思であり、拒否はできるのだろうが、そうしたくない。だからこんな始末だ。これが我が人生と、納得した走りっぷりなのだ。
先ほど機内で、ノートルダム聖心女子学園理事長、渡辺和子氏の「雑用はない」(文芸春秋10月号)を読んだ。ここ最近、沖縄、札幌、浦安、出雲、浦安、山形、浦安、山口と、1週間余の移動。搭乗機の離陸を待つ機内、電子機器を使えない時間帯での、貴重な読書時間帯で目にした文章である。
「時間の使い方はそのまま命の使い方なのですよ。この世に雑用という用はない。用を雑にしたときに雑用が生まれる…」。
どの時間も、全て私の命の使い方である。私の意思でこうして動いている「私の時間」は、すべて輝いていると思った。
 メールを書かないでいたのは、機内で読書に耽っていたからである。東野圭吾をすべて読み終えて読む物がなくなった、何か探そうと思っていた時に、「困っている人」(ポプラ社)の作者、大野更紗さんとシンポジュウムで出会った。彼女のすさまじい難病との生活。それをユーモアたっぷりに表現できる生き様に驚嘆。
読み終え、次の一冊を探しに本屋に立ち寄り、直ちに目にして買った一冊。「未完の贈り物」(著者:倉本美香、またもポプラ社)。機内でしか読書時間がない自分を悔やみながらも、機内に入れば直ちに本を広げ、涙で、何度も本を閉じ天井を仰ぎ、眼も耳もない著者の愛娘サラちゃんの写真を見て、また文章に戻る、を繰り返し、読み終えた時の自分の心の中に湧いた“静まり”。すさまじい読後感。

この、メールを書いていない期間にいろんな人との出会いがステキだった。ここで紹介しておこうと思った人。納棺師、笹原留似子さん。東日本の震災の地で出会った。彼女の著書、“おもかげ復元師の震災絵日記”〝心のおくりびと東日本大震災 復元納棺師~思い出が動き出す日~”(いずれもポプラ社)を一気に読んだ。ただただ感涙。彼女と、一緒に、被災地大槌町で仕事を創生しようと約束した。12月9日に山口に来ていただくことにした。
昨日は、山形で、旧知の友人の病床を見舞い、おそらくこれが最後と手を取り合って別れた。忘れがたい時間、忘れがたき人々が増える。そういう齢に、私自身がなったということだろう。
命の使い方としての私の時間は、私流に満足している。これでいい、このままでいい。
職員を230余名も抱える組織のトップとして、現実の諸課題に追いかけられる時間も、私の意思である。楽にしようと思えば、いくらでもきるのだろう。そうしたくないし、周囲から期待されればその事業をすべて請け負う。今、同時進行の仕事をいくつ抱えているのだろう。数えてみることも大事か?
①防府デイの増築工事、②浦安デイのプール新設工事、③夢のみずうみ村新樹苑(世田谷区)開設工事、④小規模特養:生きがい養生所防府・グループホーム夢のみずうみ村防府生活館新設工事、⑤特定施設夢のみずうみ村飯塚(福岡県)新設工事、⑥就労支援事業(イチゴ水耕栽培・長州萩大島一本釣り組合夢のみずうみの魚加工販売)、⑦夢のみずうみ村システム開発、⑧夢のみずうみ村萩デイサービスセンター開設・・・
これが、今の私の「命の使い方」である。資金繰りに奔走し、無い頭を必死に使い、寝る間を作り、仲間に支えられ押され、ほめられもせず、苦にはされながら、そうしたいから、そうする、の流れで動き回っている。その生き様の過程で、随所に感激感動感涙を頂く。だから、これでいい、このままでいきたいと思い、ただただ走り回っている。そういう昨今である。
 命を削ってはいない、命を使っている。

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ギアアップ 5速から先はあるか (君は今 どのギアで走っているかい?)

 ブログが最近更新されていないと、ご指摘を受けたので、ちょっと書いておかなくてはと思った。飛行機の移動は、昨今、また、すさまじくなったので、機内でパソコンを広げる機会は多いのだが、仕事の課題や用事を機内で済ませようとするので、ブログを書くというわけにはいかない。しかし、ブログを期待してくださる方があることが分かったので、あえて、ふと思いついたことを書きとめよう。
 私は、今、人生で最も忙しい。これほど忙しい老後(63歳から64歳になろうとする今)が待っていたとは全く予想しなかった。いや、老後というものを考えもせず、突っ走ってきただけである。いや、まだ渦中だ。周りは、定年退職して第二の人生を謳歌するものや、反対に忙しくしている仲間も多い。しかし、私の場合と少し、いや大いに違っている。私は今こそがまさに現役としてのピークにいる。いや、この先、もっともっとピークが続きそうだ。いや続いているのがはっきり見えている。人間ブルドーザーか、人間軽トラックかよくわからないが、走っている。
 人間は何段のギア付きなのだろう。標準は5速ギアの人間自動車であると考えたい。以前かあr、 「君は何段のギアではしっているのかね?」と、 しばしば、職員や教え子たちに語りかけて来た。
 私は若いころから忙しくしてきたつもりであるが、おそらく、これまでは「3速」程度で走っていたのだろうと、今ごろになって思う。当時も忙しくしていたし、もう限界と思ったことがしばしばあった。てっきり「5速」で走っていた気になっていたが、それは違う。なぜなら、以前は、今よりまだゆとり時間があったと最近実感できるからだ。自分の時間がまだたっぷりあったのだ。自分の時間とは、自分で自由にできる時間帯のことだ。忙しいとは、自分で時間を差配できず追われる「時」のことをさす。追い続けられる状態像をいうのだ。忙しい中に、かいま見るスキマ(隙間)はないだろうかと考えるが、それを考える時間すらないのを「忙しい」という。まだ私は忙しくない。ブログを書く時間があるから。
 ゆっくり思考する時間がほしい。決断するための思考をしたい。常に、即断実行を迫られる。だから失敗も反省も多い。自分で自分を忙しくしているのだとまわりは思うかもしれない。そうではない。そうではないがいうと言い訳めいてくるので黙っているが、私の人生だからこれでいいのである。
 今、私は社会が夢のみずうみ村を求めていると感じている。何を夢のみずうみ村は社会に提示し、提供し、役立てるのか。それを絶えず問われており、それを情報公開したり、実践したり、指導支援したり、自ら始めたり、動いたり、仲間と連動したり、協同したり、していかねばならない。だから駆けずり回る。
 私の実施は、5速ギアのうち、4速で走って少しゆとりを周囲に見せようとしながら、みんなが見ていないところで5速で走って、つじつまを合わせている(そう思っているのは自分だけかもしれない)。エンジンをロウギアにして スローでゆったりしたり、エンジンを切ってちょっと息抜きしたいとは思わない。いや思えない、いや、そんなんことを考えことすらしない。したくない。走り続けたい。もっともっと速く走りたい。人間という車は、5速から先、6段ギア、12段ギア、いやいや100段ギアはないのだろうか。ふとそう思った今日。初めて、浦安のデスクでこれを書いた。まだまだゆとりがあるのか、疲れているのか。ただ走り切りたい、走りたいから走る。
 明日は広島。さらに山口、沖縄、神戸、赤穂、名古屋、高浜、山口、浦安、札幌、東京と、この2週間で巡る。6段ギアがほしいと思わない。まだ私は5速の現役としてのゆとりがあるのだろうか。

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障がいを背負った猫たちが棲むデイサービス

クロは猫である。夢のみずうみ村の住人だ。夢のみずうみ村山口デイの村役場(事務所)の専用椅子(それは相談員や施設長と同様の椅子)を一つ占拠して、パソコンのそばに、多くの時間鎮座し眠っている。いや、職員から優しく体や頭な喉を、なでなでしてもらうために寝たふりをしているのではなかろうか。
 クロは、生後間もない頃、デイの玄関そばを歩いていた。いや、跳ねていた。左足前脚は親指を除いて他の4指がない。4本脚を均等に地面につけることができずに、ひょこひょこ歩きしかできない子猫であった。最初に出会ったとき驚いた。かわいそうに思った。まず小さかったし、痩せていたし、毛並みも荒れていて、野良猫の子として生まれ、なぜ指が切断してしまい、こうした歩き方になっているのか。それでも何かを食べてここまで生きているのだ。どうやって餌にありついていたのだろう、いやありつくのだろう。親の気配が全くない。まだ親離れできない子猫だと思うが、親が周辺にいない。野良猫の親にとっては足手まといになる子猫だったのか。親に捨てられた子猫だと思った。
手を差し出すと逃げた。しかし、餌がほしかったのだろう、餌をさし出すと寄ってきて恐る恐る食べた。手に載せたエサは食べないが手のそばのエサは寄ってきて食べた。それが、クロとの出会いであった。どうして指がないかは全く今もってわからない。
 夢のみずうみ村では、以前、猫を飼っていた。村は捨て猫エリアのごとく子猫が大勢集まっていた。利用者さんが餌をやりだして、いつの間にか猫が増えてしまった時期があった。ある利用者さんは猫嫌い。当然であるが、猫好きと猫嫌いが、共に通いあう施設である。不健康であるという指摘もあった。だから、衛生面では施設長の吉村が常に気を配った。しかし、あまりに多くの猫で、きっかけはもう忘れたが、猫を施設で飼うことをやめようということを私が英断して、協力して、みんなで餌をやらなくなったら、相当の期間を経て、猫は全く来なくなった。周囲から猫の影が消えた。それから、随分日数がたち、猫は、我が夢のみずうみ村山口デイサービス近辺にはいなくなっていた。
 ところがクロが目の前に来た。この障がいを負った子猫を見捨てると、福祉はできないと思ってしまった。そういう思いにさせるほどクロは訴えていた。命あるもの、やせ細って、きたなく、みすぼらしい子猫。助けを求めている。どうしても追い払うことができなかった。正常な発達をしている子猫であったら、鬼になって、追い払ったかもしれない。管理者として、衛生面に気を配らなくてはならない立場だからだ。しかし、捨てることができなかった。一緒にクロがエサを食べるのをじっと見ていた吉村施設長も、「猫を施設に寄せ付けるな」という方針(私自身が決めた)や歴史を百も承知だ。彼女の口から、「この猫飼いましょうか」とは言い出しにくかったようだが、「捨てましょう」とも言わず、黙って水を与えていた。状況は、「さあ、おなか一杯になったろうから よそへお行き」とは、絶対に言える雰囲気ではないし、一切、そういう気持ちは私に沸いてこなかった。
そのうち、なんとなく、いや、確か、吉村施設長が「村では、猫は飼えませんよねえ」といった気がする。それは、こびるでもなく、規則だからだめですよねえ、でもなく、飼いたいですねでもない。おそらく、どうにかなりませんかねえ、どうにかしてやりたい、というようなニュアンスが含まれていたような気がするが、今となってはどうでもいい。
「飼おう」と私が宣言した。ここで、この足の悪い子猫のクロを見捨てていたら、施設の介護理念が歪むとさえ感じさせる大英断であった。それは今でも痛感する。この英断は大正解であったと思う。ネコであっても、人間と変わらぬ、障がい像を見せつけ、厳しさを漂わせていたクロであった。「よかったねえ、理事長が飼ってもええってよ」と吉村施設長は何度も連呼していた。「そうだそれでいいのだ、よかった、よかった」と、自分自身も吉村施設長の声に納得して喜びを味わった気がする。
結局、施設長の自宅に何日間か連れ帰った。かって、何匹もそうであったように、やや大きくなるまで吉村家の住人になっていた気がする。ちなみに、吉村施設長のご主人は理学療法士で、山口コ・メディカル学院を一緒に立ち上げた友人である。夫婦そろっての猫好きなのだろうか。旦那の趣向は詳しくは確かめないまま、いつも吉村家に夢のみずうみ村の猫たちは世話になってきた。この場を借りて感謝申し上げたい。
 暗黙のうちだったと思うが、私も施設長も、管理者2名が、規則らしき了解事項を無視して、勝手にクロを施設で飼い始めたわけである。もちろん、病院に連れて行って、予防注射や、飼育箱、餌を買ってきた。施設内は専用の飼育箱、それに、首輪をつけ、長い紐をつけて飼っていた。
 そのクロが今は我が事務所の主だ。
 そこまでは、まあ許される話とさせていただこう。歩行不自由のクロはもちろん成長し、飼育箱から外を散歩するのであるが遠方には無論行けない、行かない。事務所前の車の下、アスファルトが常連の寝場所だ。
 ところがである。クロに彼氏ができたのだ。彼氏は白ブチ猫だから「シロ」。おんなじような年恰好だ。無論野良だ。えさは、ちゃっかり拝借方式で、野良の習性ばっちり。しかし、おかしなものでどんどん施設になついてきた。クロはいいけどシロは飼ってはいけないはずなのに飼い猫になってしまった。オスとメス。冬場、外は雪が積もる寒さだ。施設内の籠の中に2匹を入れた。職員皆でカンパしてクロの避妊手術をさせてもらった。それが、シロも飼うことにした我々の覚悟であった。
 時は過ぎてついこの間のことだ。クロちゃんは毎晩、自宅の籠(施設の玄関の内側)で寝るのだが、風来坊となった浮気者のシロは餌だけ食べに戻って、夜な夜な遊び回る暮らしが当たり前となって久しい。
 そんな2週間ちょっと前。久しぶりに山口デイに私が戻ってきた翌日、事件は起こった、
 「シロがワナにかかった」と吉村施設長から内線電話。事務所に行くと、シロの右足に鉄製のワナが食いついて痛々しい。あのじっとしていないシロが、身動きしないでそこにいる。 「イノシシか野兎のワナではないか」という話をするのだが誰もよくわからない。動物病院直行。手術覚悟。上肢をもぎ取るのではないかと、同様の被害を、自宅のネコで体験した職員がいう。そうであったら、シロもクロも障がい猫だ。病院で、右手に食い込んでいたワナを取り外し、抗生物質の注射を打っただけでシロは返されてきた。おとなしい。複雑骨折でこのまま放置するしか手はないとのこと。鳴き声がか細い。
 ところで、シロは、ワナにかかる前日まで、浮気をし、愛人を作っていた。その事実はやがて職員全員が知ることになる。シロと一緒に、時々、その愛人猫がエサをねらって、夢の村役場(事務所)近辺に近づいてきたのだ。正妻(?)のクロは、ヒステリックに不自由な足を押して、感情をあらわにして愛人猫を追い払う。思わず応援してやりたくなるほどだ。足をちぐはぐにした移動の恰好が憐れに思える。クロのすさまじい情念を見た。 
 シロはクロの動きが悪いことをいいことに、遠方まで浮気三昧をした天罰(?)でワナにかかったのではあるまいかと噂が立った。めったに、村に帰ってこなかったのに、この重傷である。おかしなもので,シロが負傷して以後、愛人は、ぴたりと来なくなった。
 しばらくシロの様子を見ようということで、かごに入れていたが、すさまじい声で一日中鳴くので、仕方なく、誰かが、かごから出してあげたらしい。シロは、愛人を追ったのか。右前脚をクロ同様、足を地面につけづらく、ひょこひょこしながら歩く。メス猫のクロとちがい、動きは少し早い気がする。さすがオスらしいと思ったが、右足に体重をかけられないはずなのに、無理して移動する。痛いのだろう、不自然な歩き方だ。このまま放置すると傷口から菌が入るし、手足も変形してしまうのではないか。いくらなんでも、獣医の言いなりに「様子を見ておきましょう」として、重症化させては元も子もない。そこで、シロを再度、籠に収監する作戦がたてられ、見事に、籠に収まった。
 結局、シロは、右手の指は残し、手のひらの筋肉と骨を取り除いた。包帯が痛々しい。手術した傷口に、口が届かないようにするため、首の周りに、プラスチックの大きな丸輪をはめて帰ってきた。村の大きなかごはシロ専用。もう一つは、夜だけクロ用。現在、事務所の近辺には、猫用の籠が2つある。
 ネコ好きのスタッフは気になるまいが、猫嫌いな職員や利用者さんは、こうした状態を苦々しく思われているかもしれない。しかし、そこは夢のみずうみ村の住民の皆さんは腹をくくっておられる気がする。障がいを背負ったクロはみんなに受け入れられているのだ。同じ障がい持ち猫になったシロの場合はどうなるだろうか。愛人を作り、たまに、食事時しか帰ってこなかったシロには愛情が湧きにくかったはずだが障がいを背負うと事態は一変するのではなかろうか。クロより大柄で、私はちょっぴり憎たらしいと思っていたシロも、障がいを背負ったら可愛くなってきたからだ。おそらく、歩き出したら、右足に体重をかけられないから以前とは様変わりした移動状態をみんなの前にさらすだろう。シロもクロも「障がい猫」。よくも、夫婦そろって同じような障害を背負ったものだ。おそらく、村のみんなは、いたわしく思い、シロに対してもクロと同様に暖かく見守ってかわいがっていただけるような気がする。甘いだろうか。
 しかし、2匹もの猫が、夫婦そろって手に障がいを背負った。移動する時は、すたこらさっさと走れない身体になった。片足に体重をかける時に、ひょこひょこ歩きをしなくてはいけない。二匹ともである。こうした猫が飼われて棲んでいるというのが夢のみずうみ村らしい。
 そうこうしていたら、クロに、貰い受けの話が飛び込んできた。日曜日に吉村施設長と交代で餌やりに出勤してくれる職員の久重君が、自宅に連れ帰りたいとのこと。今日施設長から聞いて、少しさみしい気がした。クロはもはや、事務所の住人である。それを許していいのだろうか。花嫁の父親の心境に近い? 私には娘がいない不確かだが、どうもそういう感覚ではなかろうか。淋しいのだ。しかし、彼の家に嫁ぐのならばいいか?!。
 本当にそうなら、嫁入り(?)の前に、送別会をしてやらねばなるまい。  
 2日だけ山口に戻り、今日、6月10日は京都で講演し、浦安に戻る予定。今日は日曜。山口デイサービスは朝早く、職員も誰もいない。私が村に出勤すると、シロはけたたましい声で泣く。目ヤニがいっぱいで、籠の間から指を出してとってやるが、じっと顔を向けている。調子が悪いのだろう。籠の上の段で横になりながら、足がうずくのか、かごの外に出してくれと泣くのか、金切り声になる。養生している身だから、出すわけにはいかない。クロはせがむので、事務所のドアを開け、外に出した。案の定、送迎車の下の定位置に長々と寝っころがる。シロはますます金切声。「浮気をした罰が当たったのだよ」とクロは言いたげだ。意に介さず体の毛づくろいをしている。
 クロもシロも、夢のみずうみ村の大事な住人だ。障がいを背負ったからこそ、我々のそばをじっと離れることがなく、かえって、親しく、みんなからタッチされて愛される存在でいられる人生(猫生)を送ってきた。もし、夢のみずうみ村の住人にならなかったら、施設の近隣の野山を駆け回って、野良猫人生(猫生)を送っただろう。どちらが幸せか。
 クロを見てきた我々は、前者がいいと思う。だから、シロもそのうち、あまり激しく動き回らず、事務所の椅子の上でいつも身体を丸めている番ネコになってくれるのだろうか。そうすると、椅子はもう一ついるか。いや、クロが嫁入りすると一つで済むのか。シロも一緒に異動できないのか。やきもきしながら、動静を見守っている。それだけ、気心が通い合う仲間なのだ。

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連休中の苦戦

世は連休であるが 今も そして、10日間くらい前からか、ずっとこの仕事をしている。24年度 厚生労働省 老人保健健康増進等事業のモデル事業の申請業務だ。追われっぱなしである。
朝も夜も明け方も夜中も 頭の中に文字や数字が入って浮かんでくる。、またモデル事業を藤原が始めるのかと、戦々恐々としている夢のみずうみ村職員諸君は多いだろう。なぜなら、すさまじい労力を、普段以上にこの仕事は使うからだ。 昨年も 膨大なアンケート調査 その分析 半端ではなかった。半徹夜に近い仕事を何ンンおスタッフもこなした。 モデル事業は、5年くらい、内容が変わりながら、行ってきた。やらざるを得ないという意識が自然と生まれそうしてきただけである。スタッフは一緒についてきてくれた。疲れたメンバーは翌年は代ったり休んだりしながら。
 一昨年の 宅配ビリテーションの事業推進後のスタッフの声を最近聞いた。僕にはやはり見いにくいのだろう。どうあっても走ってしまう私に声をかけにくいのだと思う。
「目的はよくわかる、社会的必要度も すべからく認識できるし、やっていて楽しい。しかし、もはや限界、次年度はもうやめてほしい」という はっきりとした声。それでも私は「やる」と決めて 職員諸君の力を借りてやって来た。
 いざとなると 夢のみずうみ村の職員は踏ん張る。頑張ろうとするし、社会的使命感に燃える。それに私が甘えているとは全然思わない。 同志だと思う。そうでなければやってこないし 離れていく それでいいといっている。
離れていったからと言って これで勤務評定しているわけでもなんでもない 同志も疲れたら休むし、考えが異なれば新たな仲間を求めるだろう。  モデル事業は簡単にはできない。 
 最近、郷土の師 吉田松陰先生の墓に 世田谷の墓 萩の墓と 両方 手を合わせに行った。1か月から2週間ぐらい前の話である。なぜ、出向こうと思ったのか、よくわからない。くたびれすぎた自分に活を入れるためであろうか。 松陰先生誕生地(萩市)には、「萩にきて ふとおもへらく いまの世を うれいてた立つ 松陰はだれ」 という
詩人 吉井勇の碑がある。 「それは俺だ」と、自宅浪人時代(19歳)私は自分で答えていたものだが、今回もそう思った。 世田谷の松陰先生の墓標には「吉田寅次郎藤原〇〇」とある。なぜ、ここに藤原が出てくるのか皆目わからないが悪い気はしない。由緒いわれをご存知の方があれば教えてほしいものだ。
 松陰先生に習いたい。そうしてこのモデル事業を必ず実行したい。
 今このブログを書いているのは気分転換のためだ。厚労省に明日7日の5時までに出すための最終案を完成させるための休憩だが、ちょっと長すぎた。資料8枚の4枚目の完成前で、頭が支離滅裂混乱。気分転換しているのだが こうして文字を書くぐらいなら、資料を作ればいいのだ。しかし、頭が動かない。コーヒーも飲みすぎ。昼飯はそうか、朝食べてからまだ食べていない。15時55分だ。食べたいとも思わない。松陰先生も何かにそんなことを書いていたことを思い出す。彼は何を食べてうまいと思ったのだろうか。宮沢賢治は ミソトとスコシノヤサイヲタベだ。
 今、取り組んでいるモデル事業案は 通所介護施設、デイサービスの根本を作り変えるような仕掛けである。単なるデイではなく住民参加型デイという、施設開放するものだ。「平成の門前まちづくり」と、以前からあっちこっちでしゃべってきたことの実践版だ。厚労省がこれに予算をつけてくれるのだろうか。いや、予算がつかなくても 世田谷区で来年度始めるデイサービスセンターではやろうとしているし 浦安では、専従スタッフ1人についてもらって始めいる。
 維新だ。夢のみずうみ村が行うモデル事業は介護保険の維新なのだ。松陰先生は、野山の獄にとらわれの身であった時に、弟子が支持を聞かないし、高杉晋作が手紙で意見したことに憤慨して「破門だ」云々と文書に書き残している。まさに、今の私がそういう心境かもしれない。ブログは怖い手段だ。こういうことを書く私と、これを読む職員、いや、職員に読んでほしいとは思わないが 読まれてもいいと思って書いている。これを見た夢のみずうみ村以外の方々がどう思われるかなどということも何も考えずこれをこうかいしようとしている。夢のみずうみ村とは、いや、藤原茂とはこういういい加減さなのだ。
 私は走りたい。ただ、立場があるから、こういう風に走るよと、このブログで大声を出す。ついてくる者しか走れない。私は走りたいから走る。ついてくるものがいようがいまいが走る。夢のみずうみ村の現場はみんな超多忙だ。現実厳しい仕事があり、24時間しか1日はなく、体は酷使できても、頭(思考)はできない。いや逆か。頭が動いても体がついていかないか。いや、どっちも限界なのか。夢のスタッフは全員が今日も走っている
 さあ、仕事再開 期限は明日17時だ 厚生労働省に 浦安からスタッフが 手持ちで出向かねば間に合わなくなった。
 何を書いているのかさえ おぼつかない。 
 高齢者ばかりが多くなっていく社会。わが夢のみずうみ村ができることは何か 何をなさなくてはいけないのか
 私は突っ走りたい 誰かがついてきてくれると信じているから 盲目的に私はただ前へ前へと走っている。みんなくたびれてるよと言っている声がしていても 私は前しか見ない でも必ず職員誰かが私を追っている 追いかけている それがすごい それが 夢のみずうみ村だ 職員の誰一人もついてこれないような異様な過酷な仕事現場になりそうかもしれない。 それでも なおも私は走っていく。 異常か正常か。夢のみずうみを救わんと立つスタッフが後を絶たない それが私の財産だ。

 

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