夢のみずうみ村は、開設20周年を過ぎた

2001年4月1日

山口市中尾の杉の木を1本、チェーンソーで私が切り倒した。雪が少し前に振り出していたが、切り始めた時は吹雪であった。切り倒した時に雪はやんでいた。だから、吹雪は、芝居がかっている。空に、大道具の雪係がいたのだろう。

それが、夢のみずうみ村の初歩。初仕事であった。木を伐り、平らにし、そこに、合掌造りの建物を建てた。夢のみずうみ村山口である。20年前の話だ。全く、お金はない。銀行のつてもない。ただ、私の母が、萩信用金庫(現山口萩信用金庫)に、定年まで勤めてやめた女性第一号であったのだ。

小学生の頃、学校のそばの萩信用金庫本店に母がいるので立寄る。のどかなもので、当時の萩信用金庫は、3時に閉めた後、私を、大金庫の扉を開けたまま、当時の専務と支店長がしている囲碁をそばに座って眺めるのが常であった。専務や、理事長や、支店長や、職員の馴染みの方々が「茂ちゃんお帰り」と声をかけてくれて、あとは各自、職員の子どもがそこに居ることなど知らん顔でそれぞれの机で仕事をしている。これが、当時の、いつもの、見慣れた風景であった。萩信用金庫は、そういうゆったりとした銀行の一面をその頃は持っていた。母はその後支店を2箇所変わっていったが、いずれの支店もいい方々ばかりであった。

母が、定年まで働いたのは、我が家が貧しかったからにほかならない。同時に、母が、自分がつかめなかった「学歴」を、我が子にだけは無尽蔵に金がかかってもつぎ込もうとする生き様に影響、決定づけられた。

国鉄(今のJR)に勤務するSLの検査係の父との2人の稼ぎで、私と妹は、幼稚園から私学。妹は金のかかる音大にまで入学させ、結局、私も二浪して私学。おまけに、入った慶応大学を中退し、親から勘当。子どもたち二人を、自分たちが貧しくて手にできなかった「学歴」を子どもにたっぷりしっかり与えたという、我が両親の一生であった。

時は過ぎ、私が53歳になったときの萩信用金理事長は、藤原茂の少年期をよく知っておられた方であった。定年まで勤めた母のことは、信用金庫の融資部門の担当者もその上司も、皆よく承知しておられる方々であった。結局、それが、資本を持たない藤原茂が行おうとする初めての事業に、信用貸しとして融資する背景、きっかけ、裏打ちになったから、NPO法人夢の湖舎に融資して頂いたのだと思っている。こうした史実が、夢のみずうみ村の歴史の裏話でもある。20年も過ぎてしまったのだ

20周年。10年ひと昔を2回繰り返したことになる。

NPO法人夢の湖舎は社会福祉法人夢のみずうみ村となり、理事長を、宮本志郎さんが後任を引き受けてくれた。

株式会社夢のみずうみ社の代表取締役は片山勝彦さんにお願いできることになった。私は、相談役になった。株主総会でこの人事は承認を頂いた。

あたらしい夢のみずうみ村が始まった。21年目から延々と発展していくことであろう。命続く限り、夢のみずうみ村を底支えし続ける覚悟でいる。それを、公にしたくて、このブログを活用させて頂いた。

ちなみに、今、創世記の夢のみずうみ村をつくった際のHOW・TO、考え方、理念などを書いたものを、段階的にブログに挙げてもらっている。夢のみずうみ村の古典である。ご供覧いただければありがたい。

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