夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター奮闘記

 

 がんばれ浦安 

千葉県浦安市は、東日本大震災の被害で、東京湾沿いの地域が、液晶化で道路が陥没したり、建物が傾いたり、沈下したり、水道・下水道施設が崩壊したりという大被害であった。地震3週間後、浦安市に出向いた。タクシーでやっと近くまで出向く。公衆電話が地面に埋没して45度に傾いている。セブンのコンビニの建物全体が、垂直に1メートル以上(?)も沈んでいるのには言葉がなかった。ある建物が少し傾いているのかなあと思って、隣の建物と見比べる。向かい合ったそれぞれの建物の端っこを、垂直に20メートル程度空に向かい、目測で延長線を伸ばすと、両端の線は交差する。すなわち、双方の家が向かい合って傾いていることがすぐに知れる。まっすぐに立っている建物はないのだろうか。   路面のガードレール、信号機は倒れ、道路は凸凹状態。水道管などがまともなはずはない。

東北の惨状はテレビで見知っていたが、浦安も相当なものだと直感。我々が施設をつくる当代島地域は被災を免れたという安ど感はあったが、それ以上に、浦安市の震災全体のすさまじさに身震いさせられた。

 その2週間後、市長室に激励に訪問させていただいた。

「今日やっと、災害本部を解散したのですよ」と語られる松崎市長も石田秘書課長(当時)も防災服であった。後で聞けば、市長のご自宅も相当の被害だったらしい。そんな様子は全く話されず、応対された。市長の心中の察しがつかなかったわが身が情けない。あの日も、もっと私ができた支援は有ったのではなかったかと反省しきり。

 「がんばろう日本」の垂れ幕の隣に、「がんばれ浦安」の垂れ幕。被害の大小はあるが、命があることの事実が重い。生きていることを喜びたいと自然に感じられた。同時に、この浦安の地で夢のみずうみ村を始める意義はさらに大きくなったと感じた。浦安が元気になっていくきっかけの一つになれるとありがたいと決心した。

元気づくりの素「夢のみずうみ村」から、浦安の市長さんや市民の皆さん、とりわけ、高齢者や障がい者の方々と一緒に、「元気」を生みだしていこうと強く、深く自覚し始めている。

夢のみずうみ村の職員はすごいよ

浦安の夢のみずうみ村は 建坪が3500㎡もある。その床に、杉板を張る作業を職員が行った。かつて、夢のみずうみ村山口デイサービスセンターの床板を職員が張り、建物の壁(スレート)のペンキ塗りもやった事実を参考に、なんとかなると思った私は、安請け合いをしていた。

「建築費が足りないので、床は我々職員が張ります。ペンキも塗ります」と宣言してしまった。無論、陣頭指揮を執る覚悟である。

 当初、6月開設の予定であったために、4月に採用した職員7名と山口県から2名のスタッフが1年間の期限付き出向で加わり9名。管理者と私の2名が加わると、総勢11名となり作業開始。ボランティアにも声かけして、威勢よく作業は開始された。

職員皆で、同じ作業をする体験は、必ず、組織の結束力を促し、個々の底力を形づくってくれるものと確信していたので躊躇はなかった。

スタッフの作業能力は抜群であった。

「お宅の、若い娘さんたちをバイトで雇いたいよ」

都合3週間だけ、床張りの指導を受けた職人さんは本気にそういった。職員の床張り技能はさえにさえてきたのだ。

狭いトイレ、角のある床。厄介な大きさの床が、とてつもなく広く目の前にある。素人ができるか。しかも、職員とボランティアを足しても知れた人数。すべてが自前でできるとは思えないと現場監督は思ったようだ。しかし、いまさらできないとは言えない背景にあった。毎日、ただ黙々とほこりの中で個々が動いた。

メジャー、金尺、電動丸のこ、ジグソー、スライダーと称する電動のこ、床張り糊、くぎ打ち、カッター、のみ。使いまわす道具はどれも若い小娘には無縁のものだ。センター増築時に使用した、青ヘルメットを山口から持ち込み、それをかぶって、・・・。

いろいろな道具を使い、3人程度のコンビで、次から次と床を張っていった。

午前9時ころから夕方6時まで。途中、昼飯休憩。作業に取り掛かる時の笑顔の表情と終わった時の無言の表情の落差が日増しに激しくなる。

立ったり、座ったり、細かく測ったり刻んだり。板と板をぴったりはめ込みながら張っる、床板をたたくための平たい板があり、そのたたく音。ボンドをつけた板がすぐにはげないように、空気十のようなホッチキス(タッカーという)を「バーン・バーン」とうちつける音が響く。

昨日、6月9日。やっと、全ての床張りが終わった。5月7日から作業に入ったから、1カ月もかかったことになる。現地を見ていただければわかるが、これだけのものを、職員だけで張ったということを誇りたい。

床張りをしながら、職員個々の個性が見える。チームワーク、協調性、相性、性格傾向等が試され相互に理解されていく。この、初期の作業には、東京で7月~採用する2人のスタッフも日替わりで作業に加わった。

開所式を前にして

山口のデイサー火オス職員である、片山くん、宮本くん。私が乞うて浦安に来てもらった。床張り、ペンキ塗り、プログラム準備。山ほどの作業が有る中、新規職員だけでは間に合わないという怖れを感じたから、あわてて山口から助っ人を頼んだのだ。山口のデイサービスも人的ゆとりはない中で、施設長はOKを出してくれた。二人が重なることなく、交互にやってきて、ホテル住まい2週間以上。朝から晩まで、ひたすら肉体労働。片山君は元来、顔が細い。それに輪をかけて頬がこけた。二十代後半の彼は、萩子どもクラブという私が主催する自閉症児の訓練組織のボランティアで私の目の前に登場。以来、30年。彼は、黙々と夢のみずうみ村を支え、私と走り回ってくれた。浦安では、帰る前日まで、「巡礼札所」の台座づくりをやりつくし、「3つしかできませんで申しわけありません」と謝って去っていった。3つも作ったのだ。夜の夜中にである。頭が下がる。

 宮本君は、レンタカートラックを運転し、私と一緒に、千葉県内のハードオフ(中古家具の店)のテーブル、椅子、ソファー、食器台、その他、買いあさった。片道1時間半程度かかって、買い付けに行き、トラックに積んで、施設までもどり、離れの建物に下ろして納め、再び、別の店に買い出し。荷物の積み下ろしを、彼と二人で黙々とやる。夜も更ける。家具は足りない。もう一度買い付けに行こうか。3度目は買い付けに行くということは、2度目に買った家具をトラックから降ろさなくてはいけない。3度目に買った家具類は、施設の戻ってきたら、トラックに積んだまま、翌日、他のスタッフと一緒に片づければいいのである。しかし、3度も買い出しに出ることは、身体がキツイ。車の中で二人とも無口。

思えば、宮本君と私は、全国を二人で講演して歩いたものだ。彼の運転する車に、衣装ケース12個の中に、鍋や長靴、傘、エトセトラ。あらゆる家具類を積み込んで、「創作リハビリテーション」と題した講演会を行った。その時も、夜遅くに講演する土地のビジネスホテルに入り、翌朝、8時に玄関を出て会場。そのまま夕刻6時ごろまで、講演し、片づけ、また移動。47都道府県、51,2か所ぐらいを歩いた。しかも、都合5回、m全国講演をこれまでこなしてきた。ある年の東北自動車道で、車がスリップしてふらつく。危ないが、どうしようもない。「高速降りて一般道にしたら?」と問う私に「国道をノロノロ行く方が安全」と宮本君。山口県を出てきたときは初秋であった。当然ノーマルタイヤである。こうした講演会の時も、宮本君は黙々と下働きをこなし、私の仕事、夢のみずうみ村を支えてくれたのである。

きつい浦安の仕事をこなし、宮本君は、東京湾から北九州まで船で帰ることにしたという。東京には、自車で、荷物をいっぱい積みこんできた。いつものように、高速道路の宿泊所で1泊しての日程だった。帰った翌日に施設庁が休みをくれたから船にしますという。施設長、吉村の配慮、宮本の賢明さ。こういう何気ない思いやりが通い合うところが夢のみずうみ村に集う職員たちの素晴らしさなのだ。

浦安から帰る最後の日、宮本君は。朝早くからデイサービスのシステム構築の作業をしてくれていた。何日も追われていたのだが、最後の日になってまだ家具類が足りないことに気付いた。再度、中古家具の買い出し。買ってきて、施設の玄関先に下ろした頃には夕方4時。6時に東京湾から船は出る。昼飯を食うこともなく、二人で動き回り、彼は、パソコンの一部をあわてて始末しながら「まだ、できていないが・・・・」と言う。「もう帰らないと間に合わないぞ」と私。レンタカーのトラックを返しに行く手続きを終え、彼は自車で東京湾に向かっていったのだが、私は彼の車を見送ることができなかった。ただただ、彼に苦しい仕事を強いてことの申し訳なさと、愚痴一つ言わず、適切なアドバイスと処理をする仕事内容にただただ感謝の気持ちが湧いてくるのだ。さらに、理由のない「さみしさ」に襲われた。腹心の部下という。そういう人間がいることをありがたいと感じた。

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