63歳を過ぎる

2011年10月6日午前6時38分。羽田から沖縄行き全日空機の中。1948年10月6日、午後8時40分ごろ、私は山口県萩市に生まれた。沖縄につく時間には、ちょうど満63歳を迎える。今、私は、沖縄で琉球リハビリテーション学院長をしている。今日は、まず、ラジオ沖縄で、「ゴーインにマイウエイ」という、ラジオ番組のコメンテーターとして、2か月分の録音の仕事をする。この仕事は、すでに半年以上もやっている。1時間番組で、毎月第二日曜日の夜10時から11時という誰も放送を聞かないと思えるような時間帯に放送されているが、結構人気があるそうだ。知念常光さんというメインキャスターと一緒に二人で好き勝手を話し、6曲私の好きな音楽をかける番組である。今日も、那覇空港に着いたらタクシーでレコード店に行き、好きなレコードを買って局に持ち込むのだ。それが終わると、学校の仕事。そのあとは、沖縄で障がい者の方々が、自然卵の養鶏を中心に、農園を兼ねた就労支援事業所を作るための事業の打ち合わせで何人かと打ち合わせがある。2日間滞在して、札幌に向かう。気温はこの時期激変するだろう。着の身着のままで走っているわが身は、寒ければどこそこの巷で何かを買い込んで着込むという始末で何とか過ごす。常套手段である。今回札幌では、どうしても断れなかった講演会をこなす。終了したら、最終便で浦安に戻る。

夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターはまだ開設3か月。忙しい。朝から利用者さんの送迎か施設内掃除をし、その後、大体9時15分ころから「ほぐし」と名付けた、上田法治療(こわばりを除去する治療法)を、夕方4時前まで最大1日13名担当する。夕方も掃除(私は、大体、階段や椅子の雑巾がけをする)か送迎をやり、一区切りつくのが、午後6時過ぎ。それから、会議か打ち合わせが始まり、出前を注文し、みんなで食べるとますます夜は遅くなる。身体が疲れて、頭はさえない。考え事は明け方早起きしなければまずできない。63歳となった自分の体力、知力は、介護・リハビリの現役職員であるとともに、経営者としての手腕も問われる。職員現役続行は大変厳しい。

思い返せば、52歳の時,NPO法人を立ち上げ、53歳の時に山口デイサービスセンターを建設。57歳、防府デイサービスセンター。以後、デイサービスの利用者さんが徐々に重度化されてくることに対応して、夢ハウス仁井令、夢ハウス湯田、夢ハウス丸山と小規模多機能型居宅介護施設を立て続けに建設。その間、フランチャイズとして、富山に夢のみずうみ村アルペン、沖縄に夢のみずうみ村平安郷、鹿児島に夢のみずうみ村アルテン、福岡に夢のみずうみ村行橋を開設指導してきた。さらに、夢のみずうみ村のデイサービスに通ってこられてお元気になられ、要介護度が軽度化する方が、明日から、デイサービスに通えなくなってと困るとおっしゃり、就労支援事業所、スープ屋「夢結び」を作った。これが、この10年間の現実だ。

今、東日本大震災の仮設住宅にサポートセンターを作る事業を展開できないかと動いている。東京都区内でデイサービスを中心とした地域密着の交流センターを運営する計画案を練っている。地元の山口県で、開発事業の声がかかり、それにも手を挙げている。

いくつものプロジェクトを一気に抱え込んでいる。どうなってしまうのだろう。なるようになる。したいようにすすめる。だから、必死に走る毎日。かつて、沖縄県や、山形県さくらんぼ東根市、東京都清瀬市、品川区で提案してきた「健康リハビリ巡礼事業」を、愛知県高浜市で昨年来はじめ、今年度から本格的に具体的な展開が始まった。これは今もっとも力を注いでいる事業の一つだ。高浜の吉岡市長は、このメールを見られると、いいですか、高浜を優先してくださいと念を押されると思うが「ご心配無用。着実に動かせますから」と回答させて頂きたい。こうした同時多発的事業展開は今に始まったことではないからだ。これこそ夢のみずうみ村、いや藤原方式なのである。

「63歳、藤原君。君は、どれだけのことが、これから先できると考えているのかね」と、問われそうだ。夢のみずうみ村の幹部職員は、私に振り回されて辟易していることだと思うが、どっこい、みんなしたたかで、冷静に私についてきてくれている。

 63歳、今、何をすべきかの答えは、「手あたり次第、馬車馬のごとく走る」である。20代、児童養護施設で児童指導員として、子どもたちと、先を考えず、ただ必死に育った。あのころを意識したい。その後の作業療法士として働いた病院時代も、様々な試みをした。精神科病院では、全患者さんを、毎日800メートル先の病院前の池の浮島までの散歩プログラムを提案し、看護部門と激突しながら、患者さんに感謝された。あのパワーだ。35歳頃の話だ。山口県初めての「リハビリ」と名がついた病院を理事長の一言で立ち上げ、朝、7時過ぎから夜10時過ぎまで、開設時、最高87名の患者さんを1人で担当した時のすさまじいエネルギー。もう40歳を過ぎていたが、土日も走り回り、山口子どもクラブ、萩子どもクラブ、在宅リハビリの会、脳性まひの子どもたちのリハビリの会。様々なボランティア活動をこなした。学習障がい児親の会山口県支部や、日本ALS協会山口県支部、山口県園芸療法研究会などを組織化した。当時のパワーは今も健在だといいたいがそうはいかない体力。気持ちだけはまだまだ老いない。我が力がお役にたてればどこでも何にでも参画したいと思っている。とにかく、我が人生、走り続けなければならないと思い込んできた。まだこれからも後先考えず走り続けたい。

 今日。63歳。周囲の心配の声は耳にするが、あっちこっちに手を伸ばし、できること、やってみたいこと、できそうなこと、できそうもないこと。そうしたいから、そうする感覚で、ことに臨んでいる。63歳、本当にこれでいいのだろうか。

総勢190名余の従業員諸君を抱える経営者として、迂闊なまねはできない。経営を安定させねばならない。そこで、今年、大学浪人時代、予備校で席を並べてひたすら勉強した親友の天井正明君を経営統括室室長として迎えた。この10年、事業が確実に発展してきた。今まさに、全国展開し始めた。今後はさらに広がっていく。だから、経営を客観的に見てくれる専門家が必須である。彼は、期待通り、就任直後より銀行筋、会計管理、対外事業折衝と適格に動き回ってくれている。

 私は70歳まで生きたい。それまで、走り回って、今、頭に浮かんでいる、日本の社会に貢献できると信じる事業を手当たり次第に芽を出していきたい。おそらく、芽を出すところで私の役割は終わるだろう。それで十分だ。私は、今、夢のみずうみ村を支える人材養成に躍起になっている。片手に余る以上に若手が伸びてくれている。新しい人材で夢のみずうみ村をさらに発展させる体制を築くことが私の使命だ。これからも、荒療法を、若者に強いたい。夢のみずうみ村のためではない。日本のために、日本の社会事業を支える人材に、夢のみずうみ村から育ってほしいと願って、厳しく若手を育てることに、余る時間が生まれたら絶え間なくエネルギーを注ぎ続けたい。今、浦安では、遅くまで仕事をこなし、若者を引き連れて、食べ飲み歩き、洗脳している。

 「身体に気を付けないといけませんよ」と、会う人話す人誰もが必ずおっしゃる。無論その通りだが、身体に気を付けていては、時間が生まれない。しかし、病気になると、即、時間を奪われる。その加減をどうするか考えている間に時は過ぎる。それもできない。63歳。「ゆっくりやりたいことを展開し、できることがあればやるができなければ仕方ない」と、健康重視で細く長くやることが、結果的により多くの夢を実現できるのかもしれない。「手当たり次第、やりたいことを走り続け始めていき、できるものは残り、やはりできなかったと、そこで止まってしまう」やり方。どちらの方法を選択するか。63歳を迎える今日、今7時43分。まだ沖縄にはつかない。沖縄につく8時40分の63歳の瞬間を待つまでもなく、私は、後者を選ぶ。いや、もうすでに走りまわっている。

「体調は?」と問われるが、「いいのか悪いのかわからない」と答えることにしている。

無理をすれば当然どこかにガタがくる。私はポンコツ車である。若いころから随分あちこち修理している。しかし、私の車は5速ギアであることに50歳を過ぎたころ気付いた。忙しい忙しいと40代は走っていた気がするが、当時はまだ4速ギアで根をあげていただけだ。20代から40代も随分と忙しかった。しかし、それは3速ギア程度でアクセルを最大限踏み込み「もうだめ、忙しくてたまらない」と根をあげていたように、この歳になって思う。50歳前後で、様々な活動を、時間に追われてやっていたころでも、今から思えば、いくらでもゆとりがあった気がする。

今は5速にギアを入れ、アクセル全快だ。最近のポンコツ車の走り具合は、自分で自由に使える時間が本当に消えた状態、すなわち、5速ギアのフル稼働状態。それでも、ゆっくり走ったりすることもある。時折、アクセル全開で、息も上がっている事態を経験する。「忙しい」ということは、何をもってそう言うか、よくわからなくなってきた。ナポレオンは3時間しか寝なかったという。本当だなと昨今感じる。寝ていて思いついたのか、起きているときに考えたのか、全くはっきりしないが、アイデアが浮かび、すぐ、メモをしないと忘れてしまうこともしばしばだ。そういう暮らしが日常的になって久しい。

こういう中で、夢のみずうみ村は全国に広がっていくのだ。一人では何もできぬ。しかし、まず、一人が始めなければならぬ。

 63歳になる。これからは、毎年、誕生日に遺言を残していこう。いつ死んでもいいように。走り回るからだ。おそらく私は、走っている最中に、どこかの巷でぶっ倒れることを想定したほうがよさそうだ。無論そうなりたくない。しかし覚悟して毎日に望まないと職員諸君は夢のみずうみ村の現状、将来を案ずるだろう。そんなことがあってはならない。長嶋茂雄ではないが、「藤原茂はいなくなっても夢のみずうみ村は不滅です」と、そう宣言したい。私は必死に努力する63歳でありたい。

 8時3分。沖縄に向かって飛んでいる。まもなく、私は本当に63歳を過ぎる。

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