石巻に夢のみずうみ村はできないか

仙台から車で石巻に入った。テレビで見知っていたつもりだが、そんなものは吹っ飛んだ。
河川敷に緑がない。雑草も生えていない。一年もたっているのに。異様な平原。何もない。住宅がみえた。柱が残っているが、がらんどう。
海水につかっている家もある。壊れた残骸の木材等の山、つぶれた車の山並み。

高台の山に登る。かやぶきを主とした重要文化財等屋根工事一式を請け負う有限会社「熊谷産業」の社長、熊谷秋雄さんが作ったかやぶき高齢者住宅の脇から海を眺める。晴れやかなきらきら光る海だ。「向こうが、南三陸町です」と案内していただいた。
きれいなリアス式海岸にしか見えない。
「何もかも、なくなったのですよ、南三陸町」と熊谷氏。
生きている命。埋もれている命。見えなくなった命。東北の地、石巻は、私にとって、生きていく、命を考える原点になった。

家々を回っている間に時間が過ぎ、夕陽がさしてきた。実にきれいな夕日が、海の中に立っている家屋敷の屋根を照らすのだ。
なんという悲しい風景なんだろうか。涙が止まらない。きれいな夕日は、むごい風景を照らしだす。
命が眠っている、生きている。感傷的になるまい、いかん、いかん、眺めているだけではいけない。何をするのだお前、自分よ。
問いかけ続けて、廃墟の道路を歩く。車で過ぎる。

大川小学校の前に立つ。言葉がない。崩れた校舎はあっても生徒はいない、先生もいない。
全校児童108名の内74名が死亡、教職員13人の内10名が行方不明。東日本大震災で最多の犠牲者が出た学校。
建物の外枠はあるが学校がない。すぐ裏手に山があるのに、地震の時には避難所と指定されていた学校。
まさかここまでは来ないとみんなが思っていた悲劇。津波はここの先まで あっという間に来た。言葉がない。

小さな鐘があって、祭壇があり花が手向けられている。 鐘を、一緒に仙台から車で走った友人の寄田君が打った。音が響く。辛く重い音色だ。
悲しいというか悔しいというか無力、無念、…。我が子がここにいたら、私がここに勤務していたら…。私は、今ここにいただろうか。

ご父兄が毎日見えて花は絶えないようだ。「お菓子類をおかないでください」「花は持って帰って下さい」とある。
一方的な感傷や思いだけでは、かえって、被害者に迷惑をかけてしまう。私が自分の力でできることは何か。
夢のみずうみ村で職員諸君と一緒になってできることは何か。命の重み。それに耐えて生きておられる家族。
この「お菓子類をおかないでください」「花は持って帰って下さい」の小さな書き物が私を揺らす。
泣いてどうなるものでは全くないが、遠くの、溢れた北上川を見て涙。すぐ裏手の山、ここにどうして避難できなかったのだろうと涙。
まだ、見つかっていない我が子を探して父親が毎日周辺を探索しておられると聞いて涙。

どれだけ泣いても命がそこにはない。何かしたい。何ができるだろう。
夢のみずうみ村を、対岸の山の中腹に作らないかという話で石巻に来たのだった。
わたしにできることはなんだろうか。
「すまないねえ、ここに我が子の命があるのだよ」という子どもの父親の思いを共有する。

 河が地盤沈下し、従来より北上川の河川敷が1.5倍以上に大きくなっている。河が大きくなって、家屋を流し、今も流れている。
大川小学校の対岸に、2.5メートルくらいだろうか、大きな石のお地蔵さんが目に入った。そばに行く。
友人の寄田君曰く。「津波で流されなかったお地蔵さんだよ。津波の勢いで、台座の上で半回転された」という。
お地蔵さんの向いている方向が座ったままぐるりと半周したらしい。大きい石の地蔵さんだ。
津波の勢いに屈せず、流されず、ただ座っている向きを変えて前と同じ台座の上に鎮座しておられる。思わず拝んでいた。

できれば、この地に夢のみずうみ村を作りたい。お地蔵さんのそばに創りたい。小学校6年生の時、初めて知った「アメニモマケズ」の詩が出てきた。
私の宮沢賢治が出てきた。自分が福祉の道に進むきっかけの一つになったことを、ここにきて深く強く思い出す。「ヒガシニ ニシニ ミナミニ キタニ 」行くことを決めたあの小学校時代の私の宮沢賢治だ。それが全身に湧いて出てきた。この地はそういう力があるのだと実感する。ここで私は自分の原点を見つけたい。
他の人から少し離れ、住宅が流され、レンコン畑を想像させるような川べりで「アメニモマケズ」をつぶやく。涙。自分は何者ぞ。何を為すのか。

 いろいろこれまで東日本の震災に対して夢のみずうみ村はどうするかスタッフと話し合い、何もできないから募金だけはまずスタッフの総意でさせて頂いた。
厚労省からアクティビチィーセンターの相談があったから提案書を書いた。別掲、「東日本アクティビティーセンター構想」を参照頂きたい。

「さわやか財団」の呼び掛けに応じて、職員2名(宮本君、白木君)に大船渡市に出向いてもらった。
援助をするにも、事業のお手伝いをするにも、現地の方の意向が主体であって、第三者が、のこのこ出向いていっても かえって迷惑と進言されていた。
「待ってください。中を取り持ちます。どこから手を付けていったらいいか考えましょう」という話を頂き、ずっと待っていた。勝手にふるまうものでなく、現地の方々の意向が起点にならないといけない、その通りだと思っていた。しかし、もはや待てない。1年過ぎたから。

そう思っていた時に、友人の寄田君(NPO法人インフォメーションセンター)が「石巻の古民家で夢のみずうみと乗馬をやろう。ついては石巻にいこう」と誘われた。
彼からは、佐渡島の北の「粟島」での高齢者サービスについての相談ごとも持ちかけられ、3月の半ば、現地「粟島」に行った。
高速艇で吐き気を催しながら出向いた島は素敵であった。小規模多機能型介護施設ができないか、ほかにも何かできないかという相談事だ。
粟島は、高齢者が大半の、人口350人余で周囲23キロメートルの島である。素敵な島だが、高齢者の住む離島はここだけではない。
目の前に出会った人が困っておられたら、「ヒガシニ ニシニ ミナミニ キタニ 」と、ただ必死にやるしかない。後先は考えず、困っておられたらやるしかない。命は一瞬にして失われたのだから。目の前に、子どもが流されそうになったら、自分も必死に手を伸ばし助けようとしただろう。大川小学校では1人の先生が、流されながら、一人の子どもを救い二人とも助かったと、河北新聞の当時の記録に書かれていた。何が、今の私にできるのか。何からすべきなのか。
やるべきことがどうしてこれだけ目白押しなのだろうか。

石巻には緊急性を感じた。今、お地蔵さんの土地を5000坪程度買いたいと現地に申し入れている。
目の前は泥をかぶって流された土地だけで何もない。いや建物があったのだが、ないのだ。
背後の山の中腹に古民家がある。そこで「馬」を寄田君がやる。途中に、避難所であった市のスポーツ施設があり、そのすぐ下の斜面に仮設住宅が並んでいる。
そこから、山を下るとお地蔵さんが鎮座しておられる場所という地理だ。

 寄田君がこの地を去る間際に車の中で言った。
「フジワラさん。ここに夢のみずうみ村ができると 東北全体が変わるよ」
 私もそれを信じている、感じている。首都圏、山口県、沖縄県と、今いろいろ事業展開を同時多発的に展開しようとしている。
社会福祉法人の理事会では「フジワラバブルですね」と理事からいわれた。なぜ、これだけ急ぐのかという忠告であろう。
それは「心していけよ」というエールだと思いたい。そういう中に「石巻」が加わった。
神はどの仕事を優先せよとおっしゃるだろうか。

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