代替わり

新旧交代はいずこの世界でも起きる。夢のみずうみ村でもそうであることに変わりはない。いつ、どこで、どれまでの段階で、誰に、どういう形で、バトンタッチできるか、するかを、真剣に考えることは創始者である私の使命である。

私は、優秀な人物と出会い、職員に迎え、そして、その人物と長年苦労し、相互に成長してきた。一方で、今日までの時点で、貴重な人材を失ってもいる。去っていった諸君は、それぞれ考えるところがあってのことで袂を分かつのだが、往々にして、私の強引さ、私の自信過剰による大声主張の不快さが要因ではなかったのだろうかと自省の念がふつふつと湧き上がってくるこの半年くらいの間。トップの身勝手さ、独断性が、許されないとわかり、感じ、批判修正の意見交換も随分行ったと思う。その葛藤。その都度、素直に客観視しする能力を持たない私の醜態。本当に醜態だと今頃は痛感し恥ずかしい限りだ。私がそうであるから、ただ、批判する方向に話の報告が進んでしまう空しさ。その場に集うスタッフから、最後にはもういいですというあきらめ状況の会議の顛末。最近になって、つくづく恥ずかしく思う。申し訳なかったと謝りたい。みんな必死であったと思う。真剣に夢のみずうみ村を語りつくしていたと思う。私も必死で、自分がどう考え行動すべきかを絶えず自分に問いかけていたと思う。だが、結局、他の人の声が耳に入らないで走って来てしまったのだと思う。他の人の声を聞かなくてはいけないという意識がないわけではなかったが、自分がやろうとすることがその時点で強かったし、正しい方向ではないかと感じたし、なぜ、みんなはそこに目が向かないのだと考え進んできたと思う。我田引水というほどの自信は全くないのに、がむしゃらに走りながら目先の手を打つことに終始した。無鉄砲、放漫経営と批判される背景、実態が、私自身の内部に潜んでいたことに、今頃になって、強く深く認識させられる。昨今、貴重な人材を失ってきたなと、つくづく思う。同時に今、まさに私のそばに残っていてくれている人材に、ただただ感謝したい思いが強くなる。老いぼれてくる藤原茂の一部始終を、そばで実感、体感させられながら、目の前の打つべき手を間違いなく打っていかなければならない重圧。本当に、周囲の、今現在の夢のみずうみ村職員各位に感謝したい。

どの世界においても、必要とされる間が華である。代替わりになるということは、先代がその存在感を徐々に薄めていくことであり、必要性を狭めていくことであり、影響力を失わせていくことであり、無視されていくことに他ならない。それがいいのだ、それでいいのだと気づくまでは時間がかかる。それなりの時間と、あとをつなぐものの存在感、納得、力強さ、勢い、元気さ、活気などがそこに存在することが不可欠である。バトンタッチするという状態、状況、タイミングを、徐々に、それぞれの状況下でひしひしと感じ始めて事は始まる。いまは、まさにそれを実感する渦中に入ろうとしているのではなかろうか。それは、不安が先行するかもしれないが、不安であるということすらも分からずに進んでいくものであろう。静々と、間違いなく、新しい湧水は湧き出している。

夢のみずうみ村の仕事では、今日この頃、私は、薄まるものと濃くなるものの両面を担っている。代替わりをして、後を継いでくれる人材の成長を見届ける状況は進んできている。もし、ロートルの私にまだ値打ちがあるとすれば、今まだ現役で頑張ろうと思っていること、それなりに動けていると自覚できている今こそ、加藤原活用のタイミングだ。使いまわしてほしい。おそらく最後だろう。なんとかまだ元気な時期、みんなと折り合っていこうとする心が私に生まれている今の時期にこそ、代替わりを進めていくべきだ。

あまり、こうして語ると、代替わりには淋しさが漂う。それは、致し方ない。まだ、これだけやれるのに、やりたいのにといった心境が走るからである。それを言っちゃあおしまいよとフーテンの寅さんの声が聞こえるようだ。覚悟が不可欠なのだ。代替わりとはそれでいいのである。頃合いを見計らって去っていくのである。未来永劫、夢のみずうみ村が発展していくためには、優秀な人材でパノラマがめくられていくがごとく登場人物が交代し、場面が回転し、新しい発展の時期に典型していかねばならないのである。旧態然としていてはお先真っ暗となる。代替わりや良しである。

間違いなく、代替わり方は2つの側面を持つ。しとしと、ひたひた、じわりじわり、みしみし、そよそよ、ちょろちょろ、そろりそろり、ちびりちびり流れ進む側面。もう一つは、ある時を際に、バッサリ、きっぱり、すぽっと、びしっと一刀両断に切りそろえる側面。この2つが並行してこそ真にうまくいく代替わりとなる。そのためには、準備に手がかかる。その手を惜しまないことが重要である。人のこころが揺らぎながら、温もっていくことが大切、大事であると思う。夢のみずうみ村は20年過ぎた。まさに、今、代替わりの風が吹き、水の流れが生まれていこうとしている。ごく自然に、こうした展開が始まってきている。代替わりするとは、不滅の夢のみずうみ村の一歩、夢のみずうみ村は永遠である証拠が固まっていく流れであるともいえるのだ。。

毎日の仕事の場面では、私個人に、徐々にお呼びがかからなくなってきた。それでいい。目立たず見過ごしていかれる。さみしいが、そういうものであり、それこそが、夢のみずうみ村に訪れている素敵な代替わりの気配である。真にそれでいいのだと申し上げたい。それがいいと高らかに声をあげたい。このブログはそういう意図を持つ。誤解がないように念押ししておきたい。夢のみずうみ村は不滅なのだ。

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