夢のみずうみ村を浦安市に作りたい

夢のみずうみ村浦安 誕生前夜話(1)  浦安市長との「糸」

ディズニーランドの建物の脇の道を初めてタクシーで通った。ただそれだけなのだが、ウキウキする。ディズニーランドに行ってみたいという気持ちがよくわかった。「あの中に入りたいなあ」と、ちょっと感じた。なぜここをうろついたか。夢のみずうみ村を浦安につくることになったからである。

浦安市の「広報うらやすNo.911 2010年7月1日号」の「こんにちは市長です」の欄に突然「夢のみずうみ村」が登場した。なぜそうなったかは記事に詳しく載っている。必ず、ご覧いただきたい。

松崎市長とは、それから、何度もお会いすることとなる。

初対面の時から、実に親しみやすく、何の遠慮もなく、自由に語りあえた。不思議なご縁を感じる。おそらく、山口県の私の選挙区の安部晋三元総理によく似ておられる(市長ご本人がそうおっしゃるが、私は父上の、故安部晋太郎代議士の方に似ておられると思う)から、昔からの知り合い感覚に陥ってしまったのだ。運命の糸のようなものを感じたと言った方が適切かもしれない。すべてがそこから始まった気がする。

市長の編著書「福祉自治体への挑戦―日本の自治体はスウェーデンを超えられるか<ぎょうせい出版>」を謹呈され、あっという間に読破したら、本物の市長ファンになった。夢のみずうみ村を関東地区、ここ浦安に建設し、全国に広めていきたいと深く感じ入った。

 埋立地のディズニーランドがある地区の真北になる、埋め立てではない、もともとの関東ローム層(?)の地域。そこに、音楽で有名な「ビクター」の工場跡地がある。その場所で、夢のみずうみ村をやりませんかという話である。山口デイサービスセンターを超える広大な床面積。関東地区でこれだけの土地は、小学校跡地以外にはない。過去3年の間に、品川区と練馬区の小学校跡地利用の話に取り組んだ経験を持つ。前者は政治的に潰されたと思っている。後者は、競争入札で負けた。こうした大規模空間を大都会で活用する企画は、覚悟して臨まないと苦い思いをすると知っていたが、そんな不安を一掃する市長の熱意がそこにあった。この誘致話に感動するとともに、貴重な機会だと直感。「絶対ここにつくるぞ!」 不退転の決意となった。

 この土地・建物は、民間企業の持ち物であり、そこを借家し、改装して運営することが前提で話が始まった。 地主さんに何度かお会いする。地主さんも、この話に乗り気であった。ありがたいことに、市長さんを始め、地主さんご家族、市の幹部の方々、議員さんまで、相次いで山口県の夢のみずうみ村を訪問されたのである。事前に、私が出演したNHK「プロフェッショナル」のDVDをご覧になっていたのではあるが、「百聞は一見に如かず、目からウロコ」と、皆さんから称賛をいただいた。夢のみずうみ村を浦安に作ろうという話は益々確実なものになっていった。

 

 夢のみずうみ村浦安  誕生前夜話(2) 

  市長選挙応援演説に しくじる(?)

昨年10月、市長は改選であった。4期目の選挙で、前回接戦であった候補との事実上一騎打ちのような感じだと外部の私でも察することができた。 市長は、マニフェストに、「夢のみずうみ村をつくる」ということを高々と掲げられた。私は焦った。議会や市民は、税金をつかって夢のみずうみ村をつくるのかと、安直に思うのではなかろうか。そんな話は全くないのに、誤解されると市長に迷惑がかかる。市長は一生懸命である。その熱意に燃えた。

市長の選挙を応援するために、残り3日を残す選挙期間中に私は浦安に向かうことにした。

当日、12時25分発の羽田行きに乗るべく、山口宇部空港に到着しなければいけない。ところが、それを12時50分と勘違いしていた。全く偶然、スタッフから電話あり、山口市内で用事をこなしていた私は事実を知って焦った。蜘蛛の糸1本で守られていると思った。

「今からでは,空港に間に合いませんよ」 スタッフのどなり声。愕然とする。

時間を25分読み間違えていたのだ。

「山口宇部空港に着けない」「羽田空港に行かれない」「浦安の午後3時から午後5時までの個人演説会場に間に合わない」「市長は藤原に幻滅する」「応援演説どころか、信頼喪失」「浦安に夢のみずうみ村は生まれない」

「あー! なんということだ!」

連鎖反応的に瞬時にマイナス現像が頭をよぎる。

「午後4時ごろまでに 羽田空港に着く便は、北九州空港発、福岡空港発、広島空港発、いずれかにないか。すぐ調べてくれ」

私はとにかく、新山口駅に車で直行する。なんとか羽田に行こう。たとえ、遅れても浦安に行こう。とにかく、新幹線に乗ることを考えた。

車で移動中、福岡空港経由で羽田4時5分着があるとの報告。それを目指す即断。それしかなかった。

羽田にはありがたいことに少し早目に到着した。車がそこに待っていた。

「警察に捕まらない程度に飛ばしてください」

私は必死だった。集会場の市長と絶えず連絡を取る。

「今どこだ?!」 市長も必死だ。

「まだ、○○(実際の通過地点)です」とはいえず、前向きに「もう○○(より浦安に近い地点)まで来ました」と伝達する。

会場に着いたのは午後4時27分。演説会場まで必死に走る。

「間に合った!!!」

NHKプロフェッショナルの私のDVDをみなさんが見ておられた会場に飛び込む。拍手が起きる。市長とがっちり握手。すぐさまマイクを握って叫ぶ。

「浦安に、夢のみずうみ村をつくらせていただきたい!」

「1円たりとも、市民の税金を使って作るのではありません」

「浦安市の介護保険サービスの質を上げることにお役に立ちたい」

選挙運動であるという意識は私にはなかった。ただ安堵。

「高齢者福祉のモデルをあなたが関東で作りたいとお考えなら、浦安市でやっていただきたい」、明確な当初からの市長の意志に、私がただ答えたいと思っただけだ。そういう話を必死に語る。

「市の予算は一切出せない。出さない。それでもやれますか。やってほしい」という市長の申し入れである。誤解を市民から受けると市長に申し訳ない、私もいやだ。そのことを強調したかった。純粋に、関東地区で夢のみずうみ村をどうしても作りたい。ならば、市長の心根に惚れた浦安市でやろう。熱意が熱意を引き出し事が運ぶ。生み出す。そういうことなのだと訴えたかった。会場の聴衆の方々にはそれが十分伝わったように感じられた。水も飲まず、約30分間しゃべり続けていた。

 見事、松崎市長は4選を果たされた。開票日当日の夜10時過ぎ、「5000票くらいの差がついて当確がでそうです」との連絡を受け、全身に走る熱いものを感じる。万歳三唱をしておられる市長の携帯電話に、私のお祝いの留守電を残した。「公約の筆頭に掲げ、夢のみずうみ村を浦安につくろうと発声された市長の熱意にこたえます」。

あの時。福岡空港にブッ飛ばさなかったら、私と市長との縁は切れていた。「夢のみずうみ村浦安」の話は消えていた。市長と「夢のみずうみ村」の縁は運命的だと思う。

 夢のみずうみ村浦安  誕生前夜話(3)  資金作りの苦悩

 なんとか資金を貸してくれる金融機関を探そう。これまで以上に拍車がかかった。夢のみずうみ村を経営する株式会社もNPOも、2期続けて黒字決算である。当然貸していただけるものと、これまでの経験から強気でいた。それが甘かった。

夢のみずうみ村を関東地域につくりたい。夢のみずうみ村には全国から見学者が殺到されている。しかし、山口県まで見学に行くにはいささか遠い。関東地区なら見学しやすい。そうなれば、全国に「夢のみずうみ村方式」は広がっていく可能性がより生まれやすい。私は燃えた。

浦安市からの助成金等、建設資金の無心をするつもりは毛頭ないと私はあちこちで宣言した。そうしなければ市長に申し訳ない。純粋な市長の思いに素直に答えたかった。かねてからの思いを一気に成就しよう。私は走り続けた。

銀行との折衝は、すべてに優先した。結果は、この事業の投資は、どの銀行も同じ理由で「融資不可能」という回答。融資が厳しいという理由は4つ。

①   土地建物が借地借家であり、担保設定ができない

②  夢のみずうみ村がNPO法人である。

③  営業拠点が山口県であり、千葉県は遠隔地である

④  折衝した各金融機関が、介護事業に資金調達実績がないか、融資分野として現段階  では介護業界は不透明なため即座には融資しにくい

手っ取り早く言えば、藤原茂が無力であり、信用に足らないということに尽きた。融資の実態は厳しかった。

相撲取り「高見盛」を知る人は多かろう。塩を天井いっぱい撒き散らし、顔や胸を自分の手でたたきあげて、自己鼓舞するあの力士。人気者だ。彼には失礼極まりないと思うが、「人気はあるが実力が今一つ」と思う。だから、「夢のみずうみ村を称して高見盛」としばしば表現する。夢のみずうみ村は結構、マスコミに紹介されたりして人気は先行しているので8勝7敗で勝ち越すこともあるが、実力は、7勝8敗で負け越しという「高見盛」状態である。とにかく、貸してくれる銀行が見つからなければどうしようも前に進まない。所詮、実力がないのだと落ち込む。

 苦悩の日々は、昨年から約4カ月。年を越した。毎晩、何時に寝入っても、明け方2時過ぎに目が覚める。それから、4時過ぎ頃まで悶々と堂々巡り。4時過ぎにちょっと寝る。そこで寝ていないと1日身体がもたない。先の見えない日々。しかし、夢のみずうみ村が浦安にできるという話は、周囲にますます広がっていく。空洞の進出話。このまま、実現できなかったら、私は詐欺師だ。眠れない日々は続いた。焦る。動き回る。名案なし。少しでも明かりが見えそうであればそちらに走る。動いていなければどうしようも身がもたない衝動に駆られる。浦安以外の仕事も多忙だ。すべては資金繰りに尽きる。この4カ月、年末年始を挟み、忙しかった。忙しさに逃げたかもしれないが、逃げても何も解決策は生まれなかった。

嬉しい事態が起こった。念じたものが通じたのだ。これまでの人生同様、ことが成った。多くの人に支えられてきた「夢のみずうみ」。そして、今回。また新たな人に支えられ、この窮地を救っていただけることになった。融資してもらえる銀行が出てきたのだ。支援者、銀行の支店長、次長、支店長代理。お一人お一人の顔が神々しく見えた。神仏は私を見捨てなかった。いや、夢のみずうみ村を、社会が見捨てなかったということなのだ。

夢のみずうみ村浦安 誕生前夜話(4) 

   ―内祝いの「イチゴ大福」―

 いくつかの関門がまだ残っているが、第一の最大関門とおもえる苦悩を突破した1月初旬、その日。

今まで何度も見ていた東西線「浦安駅」前に立つ。

「とうとう、浦安に夢のみずうみ村が生まれる・・・・」 

涙が湧いてきた。しばし、たたずむ。何度も見ている風景なのに、ビルが揺れる。駅前交番が光る。真向かいのうなぎ屋もまた揺れる。

「紅白まんじゅう買おう」 ふと思いついた。

駅近くの和菓子屋に飛び込む。

「紅白まんじゅうありますか」 「ありません」

「そこの赤白餅みたいなもの。それください」「ああ、イチゴ大福ですか?」

和菓子屋の女将は、紅白餅はないが、イチゴ大福と桜餅を混ぜれば、見事な紅白だとおっしゃる。「それを20包みください」と頼む。6つしかイチゴ大福はない。仕方がないので、「草まんじゅうと桜餅」「栗まんじゅうの白い箱と、ゆず餅の赤そうな箱」を混ぜ合わせて、紅白を用意。

「お祝いですか」と女将が聞く。

「内祝いです」と私。

「ならば、表に祝詞を張りましょう」と女将。

「内祝い」と書かれた幅が広く長い「のし紙」を持ち出した女将が、2つの餅(?)を入れた透明プラスチック容器の大きさに合わせ、紙の横をハサミで切って狭め、縦の長さも適切に切って、糊をつけ、店の包み紙で巻いた一つひとつ容器の上に、丁寧に「内祝い」と張り付けていった。

女将がこの手間暇をかけてくれたことが実に気持ちいい。あり合わせでも、なんとかお祝い事に仕立ててあげようとする女将の心根が、私のこれまでの苦労とダブった。ここでもうっすら涙が湧いてくる。 女将の一部始終を私は商品のカウンター越しに見ていた。実に心地よい時間であった。

やっと、浦安に夢のみずうみ村ができる。それを決定づけた本日。内祝いとして、紅白餅(?)を配るのだ。 市役所にもっていった。市長室秘書課。いつ行っても、自然体で、にこやかに迎えてくださった職員各位。感謝感激。市長はもとより、みなさんに喜んでもらった。感無量。とうとうやった。

事業開始までに、実はまだこの先、苦悩が湧きおこるだろう。その山は、これまでよりは低いと思う。しかし、産みの苦しみは続くだろう。それは、人間的に私自身が成長するための試練であり、夢のみずうみ村が社会的に羽ばたく前兆なのだ。今一つ頑張らざるを得ない。そう簡単に休ませてはもらえない。どんな事業も試練が待ち受けているからやりがいがあるのだろう。

確実に、夢のみずうみ村浦安は前進した。あと半歩だ。

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